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唐船風説書

第6回 2017.9.1 配信
JTBF 広報委員会

タイとの交易は、御朱印船の時代(16世紀末から17世紀始め)、当時の王都であり国際的な港湾都市として繁栄したアユタヤとの間で盛んであった。その後鎖国によって交易は途絶えたと思われがちであるが、実際は唐船を介して継続していた。唐船は中国沿岸はもとより遠く東南アジアと長崎を結び、その船乗りの口述記録は「華夷変態」(1644~1724 林春勝と林信篤の編纂)に納められている。その中から東南アジアを出航地とした記録を拾い上げ英訳したのが「The Junk Trade from Southeast Asia」で石井米雄氏(京大名誉教授、故人)の執筆による。JTBF 広報委員会は、この本に触発され、華夷変態から特にタイを出航地とした記録を抽出して現代文に訳して紹介していきたいと考えている。出航地はシャム(アユタヤ)、リゴール(ナコン・シータマラート)、パッターニー、ソンクラーである。シャムとリゴールは山田長政ゆかりの地でもある。


貞享元年(一六八四) 十四番シャム船の唐人共の口述

シャム国の事、例年に変わることもございません。国中も静謐でございます。ご当地へ渡海の船は九艘で、その内シャムの仕出しは四艘、残るは私の船も入れて五艘で、去年ご当地から渡っていった東寧船も入っています。この東寧船の内、四艘は何れも私共の船に先立って、出船しました。その四艘の内二三艘は、広東へ船を寄せた後ご当地へ参るとのことでしたから、これらは広東出の船と申し上げるべきでしょう。広東仕出し船四艘の内、一艘は私の船より先立って出船しました。残り三艘は私の船の後で、これも間もなく出船した筈ですから追付け入津することでしょう。

イギリス船が一艘、私共の船がまだシャムに居った時に、シャムへ入津してきました。オランダ船も入津の筈でしたが、その時点ではまだでした。定めて私共が出船した後に入津したと思います。今度私の船が渡海の内、洋中あやしい船に遙うことはありませんでした。唐船も見かけませんでした。この外別に申上げることもございません。

 右の通り、唐人共が申すに付、書付け差上げる次第です、以上
 子七月十九日 唐通事共

貞享元年(一六八四) 十五番リゴール船の唐人共の口述

私共の船の事は、去年十一月二十六日に、ご当地より出船し、シャムの内、リゴール(注:①)と申す所へ渡海しようとした折、当正月朔日に、広南の洋中において悪風に逢い、帆柱を折って、船もあやうくなったので、是非なく積んであった銅、その外の荷物などを三分一程海へ捨て、ようやく風難を遁れました。何とか広南へ船を寄せたいと思いましたが、そのような風向きも無かったので、急遽材木の長いのを集め縫い立てして帆柱にし、木綿帆をかけ、当初の目的地であったリゴールに船を乗り向けた所、さいわい正月十三日に、リゴールへ着津しました。すぐにリゴールで帆柱を買い調え、今度はリゴールより六月朔日に出船し、同十八日に広東へ船を寄せ、何とか広東の地より客共の荷物を積んで、せめて去年よりの損失の足しもしたいと思った故、広東にも日数にして二十五日逗留し、客の到来を待ちましたが、一帯には私船へ乗るという客もありませんでした。その内順風の時節も過ぎてしまうので、是非なく七月十三日に、不本意ながらも、広東より出船し渡海してきました。そのような事で、わずかの荷物しか積んでこれませんでした。

広東の様子の事は、先立って順次入津してきた広東船、厦門船より、委細を申上げる筈です。私共は広東に在滞の内、船中にばかり居りましたので、陸の様子のことはつぶさには存じません。ようやく漁船などが出てきた折に、風聞を聞く程度でした。大清の様子や東寧の事も、おおよそは聞きましたが、委細は存じません。しかしながら東寧方が大清へ降参の様子は聞きました。次にリゴールの事、別に変わったこともありません。乱隙の様子もありません。他方から来る船とても無く、私共の船一艘のみでした。その外変わった事はありません。

今度私共の船が、広東を出船した時、オランダ船が三艘入ってきました。その外にはシャムより唐船が二艘、ジャカルタより唐船が二艘、入ってくるのを見ました。これらの船は、その後広東湊へ逗留し、もし相応の荷物があれば買い調え、又客があれば乗せるなどして、来年ご当地への渡海の用意に、今年から渡ってきて居るのでございます。右の外には別に変わった船は見かけませんでした。もっとも洋中においても何船にも逢いませんでした。今度船員の唐人が一人、七月二十六日に病死しましたが、すぐに海へ捨てました。日本の地を見かける前の事でしたが、後日に日本の地へ流れ寄ることがあるかもしれません。この外は申上げることもございません。

 右の通り、唐人共が申すに付、書付け差上げ申す次第です
 子八月二日    唐通詞共

注① ナコン・シータマラートにあった王国、シャム(アユタヤ)に服属した。


貞享元年(一六八四) 十七番パッターニー船の唐人共の口述

私の船の事、去年ご当地よりパッターニーを目指し十一月二十四日に出船しました。パッターニーの事、ことのほか静謐でございます。私共の商売等も別條なく廻っており、当五月二十六日にパッターニーを出船してご当地へ渡って参りました。ところが、六月二十九日に東寧の内鶏籠(ケイラン)と申すところより百里余り乗り渡った時、西北の大風に逢い梶を波に打ち取られ、すでに船も危くなったので、是非無く帆柱を切り捨てならびに荷物も大分海へ捨てて、ようよう風難を遁れました。その後船中に有った材木共を取り集め、帆柱にゆい立て、高帆(注②)を本帆にしてご当地を目指して渡ってきましたが、順風に恵まれず、普陀山(注③)の近く鳳尾山と申す所へ七月五日に漂着し、そこで水を補給し、同七日に鳳尾山を出船したところ、同八日に福州の内萬安鎮と申す所より、浙江の内寧波府と申す所へ武具を積み運んでいた兵船四十艘程に逢ったため、私共も先方は如何ような賊船だろうかと心元なく思い、石火矢に玉薬を込め用心しましたが、兵船から口上があり、私の船の事、何国の船であるか東寧船ではないのかと尋ねてきましたので、私共も有体に、いかにも東寧船であると申したところ、彼の船よりの答えは、東寧船であるからは、秦舎(注④)の事、北京へ参られ別條も無かったので心安く思われよ、卒而な事などなさらぬようにと、ということでそれ以上は構わず、互に船を乗りすごしました。ようやく七月二十三日に薩摩の内、脇本と申す所へ漂着しました。右の兵船の外、洋中にても、別に何たる船にも逢いませんでした。この外変わった事はございませんでした。

 右の通、唐入共が申すに付、書付け差上げ申す次第です、以上。
 子八月八日

注② 大型帆船の本帆(ほんぽ)の上に、高くかける小型の帆。このような応急の帆で東シナ海を渡ってきたというのは驚きである。
注③ 上海の近く杭州湾の外にある島。
注④ 秦舎の事は第4回配信第3回配信で触れた。明朝遺臣で東寧(台湾)に拠って最後まで清朝に抵抗した一人。遂に清朝に捕われたことがうかがえる。


貞享元年(一六八四) 十八十九番シャム船の唐人共の口述

私共の船の事、シャム仕出しの船で、五月十五日に二艘類船としてシャムより出船し、ご当地へ渡って参りました。海上も別條無く類船ともども、無事に薩摩の地へ乗かけ申したところに、俄に逆風になってご当地へ直に乗り参ることが難しくなり、是非なく二艘共に七月十六日十七日に、薩摩の内坊津へ碇を降ろしました。シャムの様子は、先船より申し上げた通り、別に変わったこともございません。今度渡海の海上にて、異形な船を見かけることはありませんでした。この外別に変わった事はありません。

 右の通り、唐人共が申すに付、書付け差上げ申す次第です、以上。
 子八月八日 庸通事共

貞享元年(一六八四) 二十番シャム船の唐人共の口述

私の事、東寧に住んでいる者ですが、去年よりシャムへ渡海いたしました。当年も、シャムより五月十日に出船して、ご当地へ渡ってきました。ところが、六月二十九日に東寧の内鶏籠(ケイラン)と申す所より百四五十里程乗り渡って来た時、西北の大風に逢って、梶を半分波に折られ船の艫をも波に打ち破られ、船も助り難い状態でしたので、是非も無く帆柱を切り捨て荷物も大分捨てたところ、ようよう船は助りました。その後風も少し静まりましたので、船の艫の破損したところを藤からげにし、次に船中に有った材木共を取り集め帆柱に拵え、高帆を本帆にして、ご当地をめざして乗って参ったところ、折りふし順風であったので、七月二十四日に薩摩の内こしきの嶋へ瓢着しました。シャムの事は、先船より段々申し上げた通りで、別に変わったこともありません。渡海の洋中においても、異形な船も見かけませんでした。この外に申し上げる事はございません。

 右の通り、唐入共が申すに付、書付け差上げ申す次第です、以上。
 子八月八日


文責 奥村紀夫(JTBF 会員) 


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