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唐船風説書

第2回 2017.5.1 配信
JTBF 広報委員会

タイとの交易は、御朱印船の時代(16世紀末から17世紀始め)、当時の王都であり国際的な港湾都市として繁栄したアユタヤとの間で盛んであった。その後鎖国によって交易は途絶えたと思われがちであるが、実際は唐船を介して継続していた。唐船は中国沿岸はもとより遠く東南アジアと長崎を結び、その船乗りの口述記録は「華夷変態」(1644~1724 林春勝と林信篤の編纂)に納められている。その中から東南アジアを出航地とした記録を拾い上げ英訳したのが「The Junk Trade from Southeast Asia」で石井米雄氏(京大名誉教授、故人)の執筆による。JTBF 広報委員会は、この本に触発され、華夷変態から特にタイを出航地とした記録を抽出して現代文に訳して紹介していきたいと考えている。出航地はシャム(アユタヤ)、リゴール(ナコン・シータマラート)、パッターニー、ソンクラーである。シャムとリゴールは山田長政ゆかりの地でもある。

延寶八年(一六八〇)十五番 シャム船の唐人共の口述

シャムのこと、例年の通り静謐でございます、しかしながら近年稀に見る大洪水に見舞われたため、砂糖の類が乏しくなっております。それ故わずかながらの荷物を調え(注①)、五月廿四日に出船し、ご当地へ直接に参る筈でございましたが、思明州へ向けての荷物も積んでおりましたので、そこに寄港するつもりでした。ところが思明州の近くで、東寧へ向かう船に逢って聞いたところ、錦舎が東掌へ退却したということで、韃靼方にこの船を乗り入れては、不慮のことも起こりかねないと判断し、直接ご当地へ渡ってきた次第です。注② 

シャムでの風聞ですが、去年夏の時分、広東の内天川(注③)という所より南蛮人の商船が二艘、シャムの川口まで商売のため来ておったということです。その商船の南蛮人二人が、先だって他の船に便乗して帰国したい思いにかられ、小船に乗移ってシャム王都近くに参ったところ、川口にいた得体のしれない唐人共との間でどういういきさつか口論となり、 南蛮人の一人は即時に打殺され、川に打ち捨てられたもう一人は命からがら向の岸におよぎ上り、行方も知れなくなったということです。南蛮人の船が係留されていた川口からシャムの王都までは六七里もあって離れており、在所の住民たちは日々の仕事に専念してさして心に懸ける者も無く、委しい事は尋ねるすべもございませんでした。

シャムへ、おらんだ人、ならびにえげれす、南蛮人どもが来て商売しておりましたが、私共が居た場所とは隔たっておりましたので、これまで出合ったこともなく、勿論言葉を交わしたことも無く、別に用事もございませんでしたので、私共の商売の相手は在所のシャム人や在住の唐人に限られておりました。そのため委細の事は聞いておりません。

 右の通り、唐人共が申すにつき、書付け差上げ申します、以上
 申七月十五日 唐通事共

注① 主な交易品であった砂糖の積荷が少なかったことを意味すると思われる。
注② この段に、中国清朝初期における明朝遺臣鄭成功とその一族による抵抗の歴史を垣間見ることができる。東寧は鄭成功が本拠とした台湾の古称、思明州は台湾の本国側対岸に位置する今の厦門島。錦舎は鄭成功の長男。鄭成功と一族の資金源は対日貿易にあったとされる。韃靼方とは、この時既に清朝勢力下に陥ちていた思明州を指すと思われる。一族による抵抗は1683年まで続いた。ちなみにこのテキストの原本「華夷変態」は清が明を滅ぼした1644に書き始められていて、書名は「華(明朝)から夷(清朝)に変わり果てた」を意味し当時の清朝観を伺わせる。
注③ アマカワと読みマカオのこと。室町末期から江戸初期にかけて日本で呼んだ名。

延寶八年(一六八〇)十六番 シャム船の唐人共の口述

(内容は前述十五番船と同じ、口論沙汰にあった南蛮人二人の話に終始しているので省略。)

 右の通り、唐人共が申すにつき、書付け差上げ申します、以上
 申七月十五日 唐通事共

延寶九年(一六八一)二番シャム船の唐人共の口述

シャムの事、例年に相変り無く、国中が静謐でございます。その外シャム隣国においても何の沙汰も聞いておりません。 もっとも唐国、呉三桂ならびに広東の様子(注④)、東寧の風説も聞いておりません。シャムで荷を整え日本へ渡海してきた船は、当年は五艘でございますが、 内一艘は広東へ寄港して、生糸絹織物を少々積み足してくる筈でございます。あわせて広東の様子も分かることと思われます。洋中において不審な船に出会うこともありませんでした。この外申上げることはございません。

  右の通り、唐人共が申すにつき、書付け差上げ申します、以上
  酉六月廿三日                 唐通事

注④ 清朝康熙1673年に起こった漢人武将による反乱、すなわち雲南の呉三桂、広東の尚之信、福建の耿精忠による反乱で、三藩の乱として知られる。

天和二年(一六八二)五番広東船(注⑤)の唐人共の口述

私の船はシャムからの交易船で、毎年シャムよりご当地へ渡ってきております。去年もシャムよりご当地へ直接渡海しようと、五月十九日にシャムを出船し渡航中、六月廿九日に東寧の内けいらんという所の沖迄参りました。けいらんとシャムの間、大方二千里程海上を隔てておりますが、この海上において大風に遭いその後逆風ばかりで、ご当地への渡海は出来ませんでした。是非無く七月廿九日に広東の内十二門という所へ乗入れ、今年迄そこに滞在、このたび五月十一日に十二門より類船四艘同日に出船しました。この四艘の内、一艘徐歓官という者の船も、私と同じくシャム出航の船で、同じように大風に遭い、これもご当地への渡海かなわず、右の十二門に乗入れたものです。今一艘謝春官という者の船も、 十二門に滞留し、私共の船と同日に出船致しました。今一艘曾一官という者の船は、もともと広東出航の船で、去年は生糸絹織物の荷を積んでご当地へ渡海しようとしていましたが、不慮に水上竜巻に遭い、船が破損したため、積んでいた荷物のうち、私共類船三艘に少し移し替えたり、又は陸へ上げたり、広東へ運び戻した荷物もございます。私の船には百貫手余の荷物を分け積みました。それについて、曾一官は船の修理諸事に大分費用がかかり、私共の船より、少々の銀子や米などを借用致させしました。その船が最早先立って入津したとのこと、只今伺いました。

シャム国のこと、去年私の船が出船したときは、いよいよ相変ったことも無く国中が静謐でございました。その後私共は広東の地に逗留しておりましたから、シャム国の様子は存じません。また去年広東へ漂着して以来、広東の内へ入ることもできず、今年迄船中に住居しておりましたから、勿論大清ならびに東寧諸方の様子もわかりません。広東のことは、先に到着した船からも甲上げた通り、平南王(注⑥)没落の後、手下の諸官ならびに手代の者どもまで、或は斬科にあった者もあり、又は身を隠して逃亡した者もありましたが、これは平南王の度重なる叛逆だったので、逆党の輩として一人も残さず絶命に及んだと聞きました。この外は変ったことはございません。

 右の通り、唐人共申し候に付、書付け差上げ申し候、以上
 戌五月廿六日                 

注⑤ 広東船となっているが、内容から実質シャム船である。
注⑥ 注④で触れた広東の尚之信のこと。

文責 奥村紀夫(JTBF 会員) 


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