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唐船風説書

第17回 2018.8.1 配信
JTBF 広報委員会

タイとの交易は、御朱印船の時代(16世紀末から17世紀始め)、当時の王都であり国際的な港湾都市として繁栄したアユタヤとの間で盛んであった。その後鎖国によって交易は途絶えたと思われがちであるが、実際は唐船を介して継続していた。唐船は中国沿岸はもとより遠く東南アジアと長崎を結び、その船乗りの口述記録は「華夷変態」(1644~1724 林春勝と林信篤の編纂)に納められている。その中から東南アジアを出航地とした記録を拾い上げ英訳したのが「The Junk Trade from Southeast Asia」で石井米雄氏(京大名誉教授、故人)の執筆による。JTBF 広報委員会は、この本に触発され、華夷変態から特にタイを出航地とした記録を抽出して現代文に訳して紹介していきたいと考えている。出航地はシャム(アユタヤ)、リゴール(ナコン・シータマラート)、パッターニー、ソンクラーである。シャムとリゴールは山田長政ゆかりの地でもある。


元禄四年(一六九一) 七十九番シャム船の唐人共の口述

私共の船はシャム国で積荷を仕立て、唐人百十四人ならびにシャム人四人都合百十八人が乗組んで、当五月十五日に類船もなく私共の船一艘のみで出帆し渡海して参りました。私共の船に先立って、同じくシャム国の船が一艘五月二日に彼地を出帆しました。もうご当地へ着船している頃と思っていましたが、只今伺ったところでは未だ入津していないとのこと、定めて海上の風並が悪く大清の地へ乗り寄せたのかもしれません。後から出帆するはずの船がもう二艘ありましたが、私共が出船する迄荷物が調っていませんでした。荷物が調達できれば来朝するするはずですが、どうにも調達できない事もありますから、二艘の内一艘だけの可能性もあります。シャム仕立ての船は当年四艘ですが、上に述べたように荷物次第ですから、全部が来朝するとは申上げ難いのです。さて、今度の渡船の間洋中において変ったことはありませんでしたが、風並がしっかりせず、日和を待つこともありました。いずれにせよ何処の船に行逢うこともなく、遅々とした渡海でしたが、さいわい日本の地は何処へも船を寄せることなく、直に今日入湊いたしました。本船頭の高興官は八年前乗り組みの一人としてご当地へ渡って来ました。脇船頭の黄二官は、去年八十四番の船の脇船頭として渡海して来ました。乗り渡って来た船は九年前に渡海して来た船です。

次にシャム国のこと、大清の外国で、国土は相変わらず静謐でございます。しかしジャワ国の内に大泥(パッターニー)と申す所があって、ここは累代女王が統治しており、前々からシャム国の属国であり毎年シャムへ貢礼を欠かさなかったのですが、去年どのような異心が生じたのか貢礼を怠りました。シャム国王はこれを憤り大泥追伐の為、当正月に兵船大小百艘程、人数一万余を差向けられました。その大将ですが、元シャムの大臣に日本人が居て官位は握雅(注①)と申す権臣で、自身は既に亡くなりましたが、その子が現在握雅の位についており、この日本人の子が大将で上に述べた士卒を引率して大泥へ赴いたのです。大泥はシャムから八百里程のところにあるので、私共の出船の時までに、大泥追伐の様子は未だ伝わってこなく其の始末を聞くことは出来ませんでした。おそらく前々の通り貢礼することになったのではないでしょうか。さて又私共が出船する四日前にジャガタラよりオランダ船が一艘シャムへ入津しました。この船は今年ご当地へ参る船との由にございます。出船の日限はその節は分かりませんでしたが、とかくシャムの荷物をあるがまま積んだ後、出船したものと思われます。今度私共が乗り渡ってきた船はシャム国王の指図で積荷を仕立て、国王の荷物等も積んで参りました。以上に述べた外には、申し上げることはございません。

 右の通り唐人共が申すに付き、書付け差上げ申しあげます、以上。
 未七月四日 唐通事共

注① 「華夷変態」では「ヲツヤア」とルビが振られている。「The Junk Trade from Southeast Asia」では「Okya」としている。官位制度の三位である。なおこの権臣について、同書は何の注記も付していない。第11回配信の元禄二年(1689)七十九番シャム船の唐人共の口述にも似たような記述があるが(注4の個所)、そこでは山田長政と断定しているのと比べ好対照である。


元禄四年(一六九一) 八十二番シャム船の唐人共の口述

私共の船はシャムで国王の指図のもとに積荷を仕立てた船でございます。即ち彼地で唐人八十七人とシャム人二人都合八十九人が乗り組んで、当五月朔日私共の船一艘が先行して出船渡海して参りました。後続の船は、私共出船の折にはあと三艘ございましたが、只今伺ったところでは私共の船より十五日遅れて出帆した船が先日ご当地へ入津した七十九番船との由、私共の船は海上乗り筋が悪かったせいで却って後になってしまいました。さらに、ご当津を見かけ船を乗り入れようとした矢先、湊口で俄に逆風になって直に当湊へ乗り入れることが叶わず、相続く逆風に流され大村領へ漂流しました。やむなく当五日に碇をおろし、案内を請う石火矢を打ったところ、直に番船が附いて警固してくれ、挽船で今日送り届けてもらいました。このように大村領へ碇をおろした以外は、日本の地何国へも船を寄せたことはありません。今度渡船の間、洋中風並が悪かった以外変ったことはなく、何船にも行逢うことはありませんでした。本船頭の劉岳官ならびに乗渡って来た船は共に初めての渡海でございます。脇船頭の陳推官は去年五十番船に乗り組み渡海して参りました。

次にシャム国のこと、例年の通り平治の状態です。しかしながら、シャム国の大泥(パッターニー)と申す所が去年から異心を抱いたので、シャム国王が追討の為兵船百艘程将卒一万余りを大泥へ差し向けられました。大泥は女王の国土で殊に武勇も無い国ですからシャム勢を見かけたら又々降参を乞うことでしょう。この様子は、定めて先に入津したシャム船が委しく申し上げた事と思います。

さて又カンボジア国のこと、数年以来大王と二王との間に内乱があり、二王よりシャムへ加勢を乞われ、シャムから将卒を加勢に送っておりました。今年なって大王二王が和睦を結び事静りましたので、シャム勢も本国へ退軍し何事もなく収まりました。このような事柄以外に申し上げるような風説はございません。

 右の通り唐人共が申すに付き、書付け差上げ申しあげます、以上。
 未七月八日 唐通事共


文責 奥村紀夫(JTBF 会員) 


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