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唐船風説書

第23回 2019.2.1 配信
JTBF 広報委員会

タイとの交易は、御朱印船の時代(16世紀末から17世紀始め)、当時の王都であり国際的な港湾都市として繁栄したアユタヤとの間で盛んであった。その後鎖国によって交易は途絶えたと思われがちであるが、実際は唐船を介して継続していた。唐船は中国沿岸はもとより遠く東南アジアと長崎を結び、その船乗りの口述記録は「華夷変態」(1644~1724 林春勝と林信篤の編纂)に納められている。その中から東南アジアを出航地とした記録を拾い上げ英訳したのが「The Junk Trade from Southeast Asia」で石井米雄氏(京大名誉教授、故人)の執筆による。JTBF 広報委員会は、この本に触発され、華夷変態から特にタイを出航地とした記録を抽出して現代文に訳して紹介していきたいと考えている。出航地はシャム(アユタヤ)、リゴール(ナコン・シータマラート)、パッターニー、ソンクラーである。シャムとリゴールは山田長政ゆかりの地でもある。


元禄六年(一六九三) 七十五番シャム船の唐人共申口の唐人共の口述 注①

私共の船は、シャム国王の指示に従い積荷を仕立てた船でございます。すなわちシャム国で人数百六人が乗組み、内百二人は唐人、四人はシャム人でございます。当五月廿日に、もう一艘これも国王指示の船と一緒にシャムを出帆しました。只今お伺いしたところ、その一艘はまだご当津へ着船しておらないとのこと、定めて海上乗り筋が悪いのか、又は風難にでも逢って入津できないのか、よく分かりません。もう一艘、李君愛と申す者の船、これは寧波よりシャムへ渡りその後ご当地を目指す旨、シャムで聞いておりました。必ず来朝するかどうかはかり難いのですが、この船が来朝すればシャム船三艘、そうでなければ二艘ということになります。私共の船は、上述の日にシャムを乗り出し、渡海して参りましたが、海上は大方逆風ばかりでしのぎ難く、六月廿九日にようやく広東の海上迄乗り渡ったところ、海上の風がすっかり止み、船も進む事が出来ず漂っていた折り、遠くに小船を一艘見かけました。その小船から衣服を旗のように振っておりますので、何船だろう何様の用でもあるのだろうと、折節風も無く漂っているところでしたので、梶を少し取り直して待っておりましたところ、ようやく小船の方から櫂をかき寄せ私共の船へ近寄って来ました。様子を見ると広南人の様子でしたから、事の由を訊いたところ言葉が通じません。その内私共船の水手の内に少し広南の言葉が分かる者がおりましたので、一二言話させて見たら通じるようで、間違いなく広南人と思われました。殊にシャム国へも折々広南人が往来してきて人相も見覚えがあり、これは広南人と見極め、大体の様子を尋ねさせました。それで分かったことは、広南の内占城(チャンハン)の者で籾を一艘に積んで広南の地へ商売に参る船でしたが、風難に逢い帆柱を折られ帆も風に取られ、無残な状態で最早、風難に逢って以来、海上を漂流するばかりで飢餓の為一死を覚悟しておったところ、幸いこの船を見かけることができました。この上は一命お助け下さるようにと、小船より皆々落涙し礼拝しきりに頼み込むのですが、私共もご当地へ向かう船ですから、異形の者を乗せて来ることは出来るだけ避けたいこと、小船に向って申し聞かせたのは、この船に乗せたいところだが、唐人数も多く乗り込んで日本へ渡海の船であるから、その方のような異国人を乗せて行くことは出来ない、帆柱や帆それに食物等をも皆々持ち取らせるから、何とか広南の地へ乗り帰るようにと、断り聞かせたのですが、広南人が申すには、最早海上に漂流すること日数を重ね、今何国の海上のいるかも分からず、たとえ船道具が揃ったところで方角が全く分からず、何国へ乗り渡って行くのか途方にくれるばかり、如何様のご事情があってもこの船を見かけた上は、是非是非お助け下さるようにと、肝胆を砕くばかりに申すので、我々も決断し十八人の命を助けることにし、是非も無く乗せ渡って参りました。ご当津にてご判断なされ、広南帰帆の船に乗せ遣すことも有り得べきかと、またそのような便は無いと申されるのであれば、私共の船でシャムに連れ渡ってもよい、とこのように考えて乗せて来た次第です。この小船に乗せて来た広南人男女都合十八人、内九人は男、九人は女人でございます。私共の船の唐人シャム人百六人を合わせ都合百二十四人でございます。広南人の小船は広南人が乗り捨てました。このような次第で、ご当地へ唐人とシャム人以外の異国人を乗せ渡って参りました。ご当地に於いてもご不審に思われるかもしれませんが、以上申し上げたように、十八人を絶命させる訳にもいかず、助け乗せ渡ってきたのであって他意は全くございません。

次にシャムの地、いよいよ例年の通り国家静寧で、別に変わったことはございません。今度の渡船、シャム出船以来海上順風は稀で難儀致しましたが、ようやく凌ぎ渡って来たところ、当湊の近く迄まで来たので最早別條無く直にご当津へ着船できると思った矢先、湊近くおいて突然逆風になり乗り入れる事が出来ず、当月朔日に大村の領地へ乗りかけ、そこは瀬方が多く破難に及びそうでしたので、是非も無く案内を請う石火矢を打ちました。即刻番船が出て来られ、警固厳しく、挽船にて今日挽き届けていただきました。大村の地以外に日本の地は何方へも船を寄せたことはございません。また渡船の間、広南人の漂流の船を見た以外に見かけた船はございません。船頭江景官は、四年前に渡ってきた事がございます。乗渡って来た船は去年の七十一番船でございます。以上申し上げた以外に、申し上げるべきことはございません。

 右の通り唐人共が申すに付き、書付け差上げ申しあげます、以上。
 酉八月四日 唐通事共

注 前回第22回配信で「五嶋で破船したシャム船の唐人共の口述」を紹介したが、この口述も海難に関わる口述で、この時代の渡海が決して生易しいものではなかったことを伺わせる。
なお「華夷変態」では、救助された広南人からの口述も取って、シャム船の口述と符合するか確かめている。



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