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唐船風説書

第20回 2018.11.1 配信
JTBF 広報委員会

タイとの交易は、御朱印船の時代(16世紀末から17世紀始め)、当時の王都であり国際的な港湾都市として繁栄したアユタヤとの間で盛んであった。その後鎖国によって交易は途絶えたと思われがちであるが、実際は唐船を介して継続していた。唐船は中国沿岸はもとより遠く東南アジアと長崎を結び、その船乗りの口述記録は「華夷変態」(1644~1724 林春勝と林信篤の編纂)に納められている。その中から東南アジアを出航地とした記録を拾い上げ英訳したのが「The Junk Trade from Southeast Asia」で石井米雄氏(京大名誉教授、故人)の執筆による。JTBF 広報委員会は、この本に触発され、華夷変態から特にタイを出航地とした記録を抽出して現代文に訳して紹介していきたいと考えている。出航地はシャム(アユタヤ)、リゴール(ナコン・シータマラート)、パッターニー、ソンクラーである。シャムとリゴールは山田長政ゆかりの地でもある。


元禄五年(一六九二) 六十二番リゴール船の唐人共の口述

私共の船は、シャムの属国リゴール(注①)と申す所で積荷を仕立て、唐人三十九人が乗組んで、当五月十九日に彼地を出帆して渡海して参りましたが、六月十二日に海上において逆風に遭い、広東の内漁山と申す所へ船を寄せて順風を待ち、同廿日に魚山を乗り出し渡船して参りました。それより後の海上はほぼ風並みも良く、日本の地何国へも船を寄せることなく、直に今日入津致しました。この間海上で少し逆風にあった外は、変わったことは少しも無く、また何船も見かけることはありませんでした。今朝当湊口で私共の船の後にオランダ船を一艘見かけただけでございます。リゴールからご当地へ来朝の船は私共の船一艘のみで外にはございません。

このリゴールのこと、前々よりシャムの支配地でシャムより城代の官を受け入れております。シャムから四百里余りの海路で、人口も少なく漸く三四千人も住居している小地でございます。従って調達できる商品も多くはございません。

さてまたパッターニのこと、シャムの属国でしたが、異心を抱いた為、去年よりシャムより征伐軍二三万程を差し向けられました。リゴール人の中からもこの征伐軍に大分すぐり取られ、パッターニに差し向けられました。しかしながらパッターニの女王は山に逃げ籠ってしまい、シャムの軍勢も手の下しようがなく当年迄も陣を詰めたままになっております。退屈である上に遠境である為兵糧も運逡に頼るありさまでございます。殊に山中より折々毒を流すので、兵卒は水土にもなじめず、至るところで兵卒の死損が半数を超えるとの由を聞いております。その上兵卒といっても武具馬具甲冑も無く皆々裸の族で、漸く短い刀剣を所持するだけの様子、あさましい振るまいの由でございます。この後どのような始末になるのか、ますます難渋の有様と言われているようです。これらのことは、既に入津したシャム船より委細申上げていると思われます。私共が聞き知っていることは以上の通りでございます。

今度の本船頭周大成は、去年四番船の脇船頭をつとめた者、脇船頭陳翼文は、同年の二番船に記録役をつとめました。乗り渡って来た船は、同年の七十八番船でございます。以上述べた以外に申し上げることはございません。

 右の通り唐人共が申すに付き、書付け差上げ申しあげます、以上。
 申七月十日 唐通事共

注① 前書きでも紹介しているように、現在のナコン・シータマラートである。


元禄五年(一六九二) 六十三番カンボジア船の唐人共の口述

私共の船は、カンボジアで積荷を仕立て、唐人六十三人が乗組んで、当六月一日の暮に彼地を出帆しました。その日の朝には陳干龍と申す者の船が一艘先行して出船しております。もう一艘後続の船で郭進昇と申す者の船は、私共の船に数日遅れて出船した筈でございますが、船の乗筋が良かったせいか、只今お伺いしたところでは、去八日にご当津へ入津した六十一番船の由にございます。先に出た船は去五日に入津した五十八番船の由にございます。私共の船合わせて三艘がカンボジア仕立ての船で、この外は別に渡海の船はございません。渡船の途中、洋中少しも変わったことはございませんでした。二日ほど前に五嶋の沖で唐船の大船を一艘遠くに見かけましたが、何国の船なのか様子はわかりませんでした。この外に見かけた船はございません。まずは順調に渡海して参りましたので、日本の地何国へも船を寄せることなく直に今日入津致しました。船頭黄友官は今度初めて渡海して参りました。乗り渡ってきた船は一昨年の八十三番船でございます。

次にカンボジアの様子、先に入津した船から委細申上げたと思いますが、私共は別に異説はございません。累年彼地の内乱が絶えませんでしたが、昨秋敵方の二王が亡くなられてからカンボジアは静謐になり、元の大王が国主におさまっております。国土も穏やかになり、商船の仕立ても安心して出来るようになりました。耕作も他国より容易く出来る所ですから、米穀は殊の外安価になっていますが、土産物はどれもあら物で、糸端物の類は少しもございません。以上申し上げました外に他説は少しもございません。

 右の通り唐人共が申すに付き、書付け差上げ申しあげます、以上。
 申七月十一日 唐通事共


元禄五年(一六九二) シャム出港のオランダ三番船の風説書

シャムの近国パッターニと申す所の守護がシャム国王の下知に背いたため、シャムから数百人を差し遣しました。パッターニ側は軍勢も少なかったので退却作戦をとりシャム軍を兵糧詰めにしました。このためシャム軍の大将その外大勢がパッターニに討捕られました。しかしその後又々シャムより大軍勢が指し遣わされた由にございます。

一昨年申し上げましたように(注②)、フランス人がシャムの国王に召し捕えられておりましたが、今は免じられております。しかし自由に往来することは差し止められております。

            オランダカピタン(注③) コルネレスハンオウトホウルン
   申七月七日    同新カピタン ヘンデレキハンプイトノム

以上の通り、シャムに駐在しているカピタン方より申し越してきた由、二人のカピタンからの報告を差し上げます。かつまた当年シャムよりご当地に二艘入津する筈とのこと。五月廿七日に二艘が揃ってシャムを出船しましたが、一艘は六月二日風雨が強く見失ひ今日迄見掛けません。追っ付け入津することでしょう。以上が三番船のオランダ人の口上です。以上 通詞共

注② 第15回配信、2018年6月1日配信参照。
注③ カピタンとはオランダ商館長の呼称。



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