Logo of JTBF

トップページに戻る

写真で見る

50年前のタイ国此処彼処

Japanese | English


寄稿: 日タイビジネスフォーラム 副会長
吉川 和夫


最初の赴任時はカルチャーショックもあり、見るもの珍しく、多くの写真を撮っていた。その後は余り撮っていない。手元に残っているネガを見ると1960年の写真が多い。

先般、恒例のJTBF訪タイミッションに参加した事が切っ掛けで、50年前と現在を対比する小アルバム「バンコックの今昔」を作成した所、大方の関心高く、続編を所望された。その結果、対比はしていないが、この小アルバムが出来あがった(2011/4/22)。「バンコックの今昔」に収録した写真は本アルバムには掲載していないので、両者を併せて見て頂ければ、50年前のタイ国が一層イメージ出来るでしょう。

追記(2012/6/7): 最近、1960年のタイを写した動画が Youtube に登録されていることを知りました。ご参考までに紹介します。http://www.youtube.com/watch?v=5Hpkh-PG2VE

(道路・水路)

Rajdamnoen 路は現在より活気があった。BOI も設立直後の小所帯であったため、ここにOfficeを構えた。

Ananta Hall 方面に向かう Rajdamnoen 路。車の数が現在では信じられないくらい少ない。

チョンブリ地区の道路。当時としてはモダーンなショップハウスだったろう。

ペッチャブリ地区を通る南タイ行きの幹線4号路

Khlong Krung Kasem を跨ぐ Lan Luan 路 市内電車が懐かしい。

Khlong Krung Kasem に面した ECAFE 本部

Memorial Bridge は開閉していた。固定橋が横に出来てから止んだ。

見渡す範囲でメナム川に動いている船が一隻もない。

当時小口荷物は船輸送が多かった。Memorial Bridge の近くで。

バンコックとは思えぬ風景か。早暁のメナム川

物売りか、お使いか。長閑な風景である。

Bhang Kaen 地区を流れる Khlong Lumphai、Khlong として幹線であり、雑多な船が往き交った。

Din Daeng 地区の Khlong Sam Saen にて。荷物運搬船が係留されて住居となる。

農産物の輸送は川を利用し、タグボートが艀を連ねて引っ張っていた。中部タイのピサヌローク地区にて。

Dusit 競馬場に近い Khlong Krung Kasem の風景。市内でも見られた水上マーケット。

Khlong Krung Kasem 水上マーケット。 荷物は近くの小売市場に持ち込まれた。

道路に沿って流れる灌漑用水路を跨ぐにはこの種の橋が多かった。バンコック北部。

幹線道路は両側の土を盛り上げて造った上、ガードレールも無いので、この種の事故が多発した。

ランパンは馬車の街だった。今でも利用されている。

当時よりタイ国の道路は良く整備されていた。日本の自動車会社が耐熱とスピードテストを行っていた。

(鉄道路)

Bangkok-ChiangMai 間の特急はジーゼル機関車を利用していた。一等寝台には水浴び設備がついていた。

鈍行は貨客兼用で薪を燃やして走るSL列車だった。泰緬鉄道用に日本から持ち込んだ機関車も利用された。

風景を眺めるには Denchai-Lampan 間がお勧め。タイの鉄道の中で一番変化に富んだ区間だろう。

客車の中は空いていたが、乗客はデッキに集まった。風景を見るのか、涼をとるためか?

泰緬鉄道の鉄橋を貨物列車が渡っていた。

標識だけでプラットホームが無い駅があった。

停車するごとに物売りが集まってくる。一日5~6列車が停車するだけだったのに。

駅弁売りは女の仕事。木陰に集う人たち なんのために来ているのか?

(空港・海港)

ターミナルの前に駐機するので、乗降客は歩かされた。Tokyo-Hongkong 方面は全部で一日7便程度であり、駐機場所は空いていた。

クロントイ港で船が接岸すると多くの小舟が集る。船員がザルに小銭をいれ吊り下ろして果物などを買った。暗くなるころ、人間が入れる網が下ろされ、売り子の娘自身が引き上げられたとか。

国内線と共用であった。国内線はDC-3 を使用した。

農産物は岸壁側からでなく、艀より直接船積みされる事が多かった。クロントイ港にて。

(庶民の生活)

市場帰りだろうが、若い二人は裸足である。ゴムサンダルが大方の履物だったが、裸足も多かった。

主として生鮮食料品を扱う市場。使用人が買い物に来た。

現在の野菜の質は向上したが、当時は質も低く品数も少なかった。

魚は細い縄を鰓から口へと通し、ぶら下げ易くして渡した。

地方の市場に多いスタイルで、売り子が台の上に座り、周りに商品を並べた。

日曜日の朝は女中達も多く参詣した。僧の説教を聴き仲間とのおしゃべりが楽しみであった様だ。/p>

(子供のスナップ)

昨今このような光景は見られなくなっただろう。子供も経を覚えていた。日曜日の朝。

子供の登下校時、学校が遠いと数人でサムローを雇った様だ。写真は仲間を待つているのだろう。道路右側は金持ちの子供を待つ高級車?

小さい時から操ることを覚えているため、鮮やかな手さばきであった。

よく見た風景だったが、夕方水牛を家に連れて帰るのが子供の役割だった様だ。

良く働く子供達だった。道路は DonMuang 空港を往復する際に通る国道1号線であった。Bangkhen の農科大学近く。

伝統的な食品市場の野菜売り場。バンコックではこの種の市場が無くなってきた。

文字通り寺子屋である。小僧もメーチーも一緒に勉強する。

街裏にも物売りが入って来た。写真の子供は売り子でなく、店番だろう。

ヤシの実をぶら下げて家に帰る子供。前方に水ガメが並べて売っている。飲料用かそれとも水浴び用か。

今は人形の頭にしか見られないヘアスタイルの子供。

海水浴場に行くと子供たちが浮輪として古いクルマのチューブを時間貸ししていた。

店番を言いつけられたのだろうが、商品のつまみ食いか?

(催事)

Sanam Luang は Sunday Market の元祖であった。流れを引きつぐ Chatchak の Market は固定マーケットとなり、味が無くなった。

家の庭に生っていたパパイヤやバナナを売る少年。自分は日陰で商品は日向。長閑であった。Sunday Market の原型だっただろう。

国王生誕日祝賀は最も盛大だった。Rajdamnoen 路の映画館前の飾り付け。

チュラ大とタマサ大のフットボール試合は娯楽の少ない当時は大観衆を集めた。クラスごとの趣向をこらした学生の行進が人気だった。種々の人文字が見えた。

Bang Phra ゴルフ場が1961年に再開した。クラブハウスはなく、持参した海苔巻きむすびを食べる日本人を見てタイ人が吃驚した。

アユタヤの日本人町跡。タイ側は必ずしも賛成でなかったが、日本側が金を出し山田長政記念館を建てた。

昔のソンクラーンの水かけは寺の境内でつつましいものだった。ピサヌロークの町にて。

日本人会の野球大会。製造業の進出は未だだったのでメンバー集めに苦労し、壮年組もかりだされた。

(遺跡)

スコータイの遺跡

スコータイの遺跡。修復は遺跡の原型を留めるようにして、過度にならないようにしたいものだ。

アユタヤの遺跡

アユタヤの遺跡