(道路・水路) |
Rajdamnoen 路は現在より活気があった。BOI も設立直後の小所帯であったため、ここにOfficeを構えた。
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Ananta Hall 方面に向かう Rajdamnoen 路。車の数が現在では信じられないくらい少ない。
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チョンブリ地区の道路。当時としてはモダーンなショップハウスだったろう。
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ペッチャブリ地区を通る南タイ行きの幹線4号路
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Khlong Krung Kasem を跨ぐ Lan Luan 路 市内電車が懐かしい。
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Khlong Krung Kasem に面した ECAFE 本部
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Memorial Bridge は開閉していた。固定橋が横に出来てから止んだ。
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見渡す範囲でメナム川に動いている船が一隻もない。
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当時小口荷物は船輸送が多かった。Memorial Bridge の近くで。
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バンコックとは思えぬ風景か。早暁のメナム川
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物売りか、お使いか。長閑な風景である。
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Bhang Kaen 地区を流れる Khlong Lumphai、Khlong として幹線であり、雑多な船が往き交った。
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Din Daeng 地区の Khlong Sam Saen にて。荷物運搬船が係留されて住居となる。
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農産物の輸送は川を利用し、タグボートが艀を連ねて引っ張っていた。中部タイのピサヌローク地区にて。
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Dusit 競馬場に近い Khlong Krung Kasem の風景。市内でも見られた水上マーケット。
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Khlong Krung Kasem 水上マーケット。 荷物は近くの小売市場に持ち込まれた。
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道路に沿って流れる灌漑用水路を跨ぐにはこの種の橋が多かった。バンコック北部。
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幹線道路は両側の土を盛り上げて造った上、ガードレールも無いので、この種の事故が多発した。
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ランパンは馬車の街だった。今でも利用されている。
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当時よりタイ国の道路は良く整備されていた。日本の自動車会社が耐熱とスピードテストを行っていた。
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(道路・水路) |
Bangkok-ChiangMai 間の特急はジーゼル機関車を利用していた。一等寝台には水浴び設備がついていた。
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鈍行は貨客兼用で薪を燃やして走るSL列車だった。泰緬鉄道用に日本から持ち込んだ機関車も利用された。
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風景を眺めるには Denchai-Lampan 間がお勧め。タイの鉄道の中で一番変化に富んだ区間だろう。
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客車の中は空いていたが、乗客はデッキに集まった。風景を見るのか、涼をとるためか?
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泰緬鉄道の鉄橋を貨物列車が渡っていた。
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標識だけでプラットホームが無い駅があった。
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停車するごとに物売りが集まってくる。一日5~6列車が停車するだけだったのに。
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駅弁売りは女の仕事。木陰に集う人たち なんのために来ているのか?
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(空港・海港) |
ターミナルの前に駐機するので、乗降客は歩かされた。Tokyo-Hongkong 方面は全部で一日7便程度であり、駐機場所は空いていた。
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クロントイ港で船が接岸すると多くの小舟が集る。船員がザルに小銭をいれ吊り下ろして果物などを買った。暗くなるころ、人間が入れる網が下ろされ、売り子の娘自身が引き上げられたとか。
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国内線と共用であった。国内線はDC-3 を使用した。
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農産物は岸壁側からでなく、艀より直接船積みされる事が多かった。クロントイ港にて。
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(庶民の生活) |
市場帰りだろうが、若い二人は裸足である。ゴムサンダルが大方の履物だったが、裸足も多かった。
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主として生鮮食料品を扱う市場。使用人が買い物に来た。
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現在の野菜の質は向上したが、当時は質も低く品数も少なかった。
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魚は細い縄を鰓から口へと通し、ぶら下げ易くして渡した。
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地方の市場に多いスタイルで、売り子が台の上に座り、周りに商品を並べた。
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日曜日の朝は女中達も多く参詣した。僧の説教を聴き仲間とのおしゃべりが楽しみであった様だ。/p>
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(子供のスナップ) |
昨今このような光景は見られなくなっただろう。子供も経を覚えていた。日曜日の朝。
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子供の登下校時、学校が遠いと数人でサムローを雇った様だ。写真は仲間を待つているのだろう。道路右側は金持ちの子供を待つ高級車?
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小さい時から操ることを覚えているため、鮮やかな手さばきであった。
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よく見た風景だったが、夕方水牛を家に連れて帰るのが子供の役割だった様だ。
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良く働く子供達だった。道路は DonMuang 空港を往復する際に通る国道1号線であった。Bangkhen の農科大学近く。
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伝統的な食品市場の野菜売り場。バンコックではこの種の市場が無くなってきた。
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文字通り寺子屋である。小僧もメーチーも一緒に勉強する。
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街裏にも物売りが入って来た。写真の子供は売り子でなく、店番だろう。
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ヤシの実をぶら下げて家に帰る子供。前方に水ガメが並べて売っている。飲料用かそれとも水浴び用か。
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今は人形の頭にしか見られないヘアスタイルの子供。
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海水浴場に行くと子供たちが浮輪として古いクルマのチューブを時間貸ししていた。
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店番を言いつけられたのだろうが、商品のつまみ食いか?
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(催事) |
Sanam Luang は Sunday Market の元祖であった。流れを引きつぐ Chatchak の Market は固定マーケットとなり、味が無くなった。
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家の庭に生っていた?パパイヤやバナナを売る少年。自分は日陰で商品は日向。長閑であった。Sunday Market の原型だっただろう。
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国王生誕日祝賀は最も盛大だった。Rajdamnoen 路の映画館前の飾り付け。
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チュラ大とタマサ大のフットボール試合は娯楽の少ない当時は大観衆を集めた。クラスごとの趣向をこらした学生の行進が人気だった。種々の人文字が見えた。
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Bang Phra ゴルフ場が1961年に再開した。クラブハウスはなく、持参した海苔巻きむすびを食べる日本人を見てタイ人が吃驚した。
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アユタヤの日本人町跡。タイ側は必ずしも賛成でなかったが、日本側が金を出し山田長政記念館を建てた。
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昔のソンクラーンの水かけは寺の境内でつつましいものだった。ピサヌロークの町にて。
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日本人会の野球大会。製造業の進出は未だだったのでメンバー集めに苦労し、壮年組もかりだされた。
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(遺跡) |
スコータイの遺跡
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スコータイの遺跡。修復は遺跡の原型を留めるようにして、過度にならないようにしたいものだ。
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アユタヤの遺跡
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アユタヤの遺跡
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