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バックナンバー 2007-11

「日・タイ随想」

No.14 三原比沙夫 2007/11/04

日タイ、ロングステイ環境の変貌

 この数年来、九十九里海岸にある無人の生家を手入れし、書斎としてかなり頻繁に行き来していたが、このたびその機能を都内に引き揚げた。理由は二つある。

 一つは、最近この地に小刻みな地震が多いことによる漠たる津波の脅威である。県史「千葉県の歴史」(山川出版社)によれば、下総・銚子から上総・安房にかけての沿岸は1603年からの百年間に3度の大地震に見舞われ、都度津波の大被害に遭った、とある。

 中でも、1703年(元禄16年)11月23日未明に発生した野島崎沖を震源地とする地震はM8.2級の超弩級で、福島県南部から紀伊半島南部にかけて高さ4~8メートルの大津波が押し寄せたが、九十九里沿岸の被害が最大で、此処だけで2千人以上の溺死者が出たと記されている。いまもこの沿岸の随所に残る「OO塚」や「OO供養塔」がその証左だ。それから300年である。「そろそろ再発の前触れでは?」との漠たる不安を抱くことに不思議はあるまい。

 だが、都内への引き揚げを決意づけたのは次なる理由。この地に単身で滞在中に加齢の身に異変が生じた場合の不安である。いつぞやNHKのテレビ報道にもあったが、いまや此処は医療過疎地のサンプルの一つに挙げられる地域となった。病院と名のつくものは数少なく、しかもその中には、相次ぐ医師離脱のため閉院の危機に曝らされるものまであると聞く。先般奈良県にあった陣痛のすすむ妊婦の盥回しによる悲劇ほどではないが、ここでも脳梗塞の患者がたしか14箇所?も盥回しされた最近の事例が報じられている。

 さらに、筆者には別の不安も生じた。いざと言う場合の身寄りの無さである。生家と言うだけに今も近くには何軒かの縁者がある。此処に書斎を置くに当たっては、「万一の場合は頼りになるのでは?」との淡い期待もあったが、現地の事情を知るほどに、これがとんだ時代遅れの『勝手読み』であったことに気付いたのだ。

 半世紀もの時が流れれば、どの家庭も代替わりしているのは当然だが、それだけではない。核家族化の波はこの地にも容赦なく押し寄せていた。かっては人手の豊富な三世代、四世代の大家族の家々で、一声かければ誰かが跳んで見に来てくれたものだが、今はそれどころではない。どの家も老夫婦中心の小家族と化し、自分たちの家事、家屋敷の管理にすら十分には手が廻りかね、とても他人の面倒などみられる状況ではないのだ。東京砂漠と云う言葉があるが田舎は田舎砂漠で、いまや国中が砂漠化しているように見えてならない。

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 そこで想い出されるのが、タイの生活環境である。二度目のバンコク駐在は約12年に及んだが、家族は時おり訪れるだけの単身ベースの滞在で、どうにか健康、快適にこの年月を乗り切れた大きな要因は、職場では秘書と運転手に恵まれ、家(マンション)では女中に恵まれたことにある。ことに女中に恵まれたのは私生活上の大きな福音であった。

 この女中(お手伝いさんを、タイでは当時そう呼んでいた)は、マンションの女中部屋(サーヴァントクオーター)に夫婦で住み込みの初老の婦人であったが、温厚・誠実にして今どきの日本の若者よりも上手いくらいの日本料理が出来、その上、何時どんな時間帯でも家事サービスの依頼に快く応じてくれたのだ。日本語は話さないが、筆者の話す日常の家事言葉は殆ど理解できた。そして給与は年々昇給の結果、筆者の離盤時(2000年)の月額が6 千バーツ程度であったと記憶する。

 書斎を田舎砂漠から東京砂漠に引き揚げた身にとっては、タイのこの時代の生活が年とともに懐かしく蘇える。叶わぬこととは知りながら、飛んで帰りたい気持ちに駆られることも一再ならずだ。ロングステイ財団の調査統計(2007.9.10発表)によれば、2006年の日本人のロングステイ希望国の中では、タイ王国がマレーシア、豪州に次ぐ第3位にランクされたとある(註)が、『宜(むべ)なるかな』の思いであり、嬉しさを禁じえない。
[(註)ロングステイ交流協会 上東野事務局長のレポートによる]

 しかし、『花の命は短かくて』の歌の文句のごとく、容赦ないグローバル化の波に洗われるタイの生活環境が、いつまでも筆者滞在時のままである筈はない。去る8月には十日あまりバンコクに滞在し、生活環境の一端に触れる機を得たが、離盤後7年間のタイ社会の変貌は想定の域をはるかに超えていた。

 第一は、タイ・バーツの対米ドル、対円上昇である。8月初めには1バーツが4円に迫り、これは筆者の離盤時に比すればほぼ30%の上昇である。これに加え、物価上昇が急ピッチだ。通貨危機後しばらく安定していた生活物資の中で、この1年半~2年の間に20~30%値上がりしたものが少なくない。これを要すれば、日本から円貨を持ち込む観光客やロングステイ希望者にとっては、数年前までのイメージにあったタイの生活費は、ほぼ5割方値上がりしたことになる。

 それだけではない。大きな魅力であった家事労働者の労務環境が大きな様変わりをきたしているのだ。すでに筆者の駐在中から女中は年々減っていたが、いまやこれぞという女中を探すのは相当な難事であり、いわんや筆者の享受した住み込み条件の雇用など不可能に近い状況となっている。外資系工場の林立により近代的労務環境の職場が激増、未熟練労働者に広く門戸を開いたことに起因することは云うまでもない。定時勤務の機能的な職場で、家事労働以上の収入が得られれば、誰しも女中などやりたくないのは当然であろう。

 とは言え、家事労働者が全く姿を消した訳ではない。しかし、今の雇用形態はほとんどが定時勤務の『通い』であり、日本人家庭の場合は月額1万バーツ程度が相場だと聞く。3~4家庭の掛け持ちの女中も多いようだが、この場合でも1家庭あたりの負担は4~5千バーツを下らないそうだ。

 滞盤中に旧知の著名な財界人の自宅を訪問する機を得たが、各種の求人人脈に通じているはずの同家ですら、女中の雇用には腐心していた。今は三人いる女中のうちタイ人は東北(イサーン)出身者が1人だけ。他の二人はミャンマー(ビルマ)人とカンボジア人で、タイ語は殆ど解さない不便があるだけでなく、セキュリティ上もタイ人よりも気遣う点が多いと漏らしていた。

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 世紀変わり後のタイ経済は順調な成長路線に入り、Per Capita GDP は2600米ドル近辺まで回復している。(註:97年の通貨危機直前には3千ドルレベルに達していた)。いまや押しも押されもしない中進国であり、日本との関係は“Equal Partner” になったといわれるが、この関係は経済面だけではあるまい。少子高齢化現象や家事労働者環境までEqual Partner になりつつある感が深い。

 もはや家事労働においても、良質、安価、豊富と言われたサーヴィスをタイに求める時代は過ぎ去ったと考えねばなるまい。それにも拘わらずタイ王国がロングステイ対象国の三番手にランクされているのは、少なくとも今の日本よりも「住みよい」と感じられる側面が有るからに違いない。それには様々な要因が考えられようが、琉球王朝との交易以来600 年の永きにわたる交流、皇室国家同士の親近感に加え、タイと云う国の明るくCare-free な風土、名状し難い生活感情の近似性、相対的な体感治安の良さ、それに外国人・外資に対する安定した開放政策などがベースにあることは否定できまい。

 「文明の衝突」の著書でも知られるハーバート大教授サミュエル・ハンチントン氏は、同書の中で日本文化の特殊性についても述べていた。日本は他の文明国とは異なり、世界のいかなる他国とも文化的に密接な繋がりを持たない。日本の持つ他国との繋がりは文化的靭帯ではなく、「安全保障」と「経済的利益」だけだ、という趣旨であったと記憶する。学者にあらざる筆者はその当否を論ずる立場にないが、唯一つ云いたいのは、少なくとも日本とタイとの間には文化的靭帯と言えるものがあるやに思われることだ。

 文明学者の梅棹忠夫氏によれば、「文明」は機械や建築などの『装置系』と技術や法律などの『制度系』を含む人間の人工的環境のすべて。「文化」は精神的価値の問題(10月17日付、読売)とあるが、日タイの間には近年の太い文明の交流の奥に深く永い精神の繋がりがあるのではなかろうか。その意味では、タイは三番手より更にランクを上げたいロングステイ対象国であり、ロングステイ希望者には両国の文化的靭帯強化のための掛け橋となって欲しいものだ。

(了)