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日タイビジネスフォーラム(Japan-Thailand Business Forum)


タイ国に駐在経験のある日本人ビジネスマン(現役&OB)が個人の立場で参加しています。これまでの日本・タイ国両国におけるビジネス経験を生かし、両国間友好関係の促進に寄与したいと考えています。


Bangkok in Old Days
市内電車が走っている上、軒並みから見て Charoeng Krung Road であり、多分三井銀行の支店が写真の右端にあった Suriwong Road と接するT字路と思われるが、遠くに見える塔状のものが何か思いつかない。


2018/6/13  タイ国経済概況更新
2018/6/1  唐船風説書 第15回配信(下記)
2018/3/31  2018年Foodex-Thai Boothを視察してを「提言・報告」に追加しました。
2017/9/11  タイ日工業大学10周年記念式典に参加してを「提言・報告」に追加しました。
2016/7/26  JTBFの案内更新
2015/9/15  JTBFは小冊子2冊を刊行しました(当トップページにて案内)。

唐船風説書

第15回 2018.6.1 配信
JTBF 広報委員会

タイとの交易は、御朱印船の時代(16世紀末から17世紀始め)、当時の王都であり国際的な港湾都市として繁栄したアユタヤとの間で盛んであった。その後鎖国によって交易は途絶えたと思われがちであるが、実際は唐船を介して継続していた。唐船は中国沿岸はもとより遠く東南アジアと長崎を結び、その船乗りの口述記録は「華夷変態」(1644~1724 林春勝と林信篤の編纂)に納められている。その中から東南アジアを出航地とした記録を拾い上げ英訳したのが「The Junk Trade from Southeast Asia」で石井米雄氏(京大名誉教授、故人)の執筆による。JTBF 広報委員会は、この本に触発され、華夷変態から特にタイを出航地とした記録を抽出して現代文に訳して紹介していきたいと考えている。出航地はシャム(アユタヤ)、リゴール(ナコン・シータマラート)、パッターニー、ソンクラーである。シャムとリゴールは山田長政ゆかりの地でもある。

配信済みの「唐船風説書」⇒バックナンバー


元禄三年(一六九〇) 八十四番シャム船の唐人共の口述

私共の船はシャムで商品を仕込み、唐人九十三人とシャム人五人都合九十八人が乗組んで、当五月十六日シャム川内より深海へ乗出し、六月六日に湊口を出船して渡海して来ました。その日、徐佛官と申す者の船が早朝に先立って出船しました。只今伺ったところでは先に入津した八十一番船とのことでございます。私共の船は同日の昼過ぎに出船しました。もう一艘ございまして、これは来朝するかどうかはっきりしていませんでしたが、思いのほか順調に荷物が調って早々に準備が終わり、私共の船に遅れて出船する筈のところ却って二日先立って六月四日に出帆した由、私共が滞船しておった時に知らせを受けました。この船はまだご当津へ着船していないとの事、いささか気がかりです。先に着津した船と私共の船二艘は、国王の仕立ての船でございます。この度の渡海は、途中さして変わったことはありませんでしたが、風並みが悪く苦労しました。六月十二日より十五日まで続いて逆風の大風に逢い、船も沈溺しそうな有様で、最早助かるまいと覚悟しましたが、運良く難海を凌ぎ渡りました。しかし難風の際に船の上に積んでいた荒物荷物等は委く海へ捨てました。この通りではございましたが、日本の地は何国へも船を寄せることなく直に今日入津し、大幸に存じております。海上では去月十七日に広東の海上を渡海中、オランダ船一艘を遠くに見かけました。広東へ向かった船でしょうか又は只今見えた当津に着船したオランダ船でしょうか、よく分かりません。次に五日前、五嶋の海上で唐船二艘これも遠くに見かけましたが、私共の船に先立って入津した唐船でしょうか、またはその他の数ある唐船だったでしょうか、判別し難いことでございます。これらの船を洋上で見た外には別に異形の船を見ることはありませんでした。今度の本船頭郭合官と脇船頭黄二官は、共に初めての渡海でございます。乗って来た船は一昨年百五十二番の船でございます。またシャムからご当地へ渡海して来る筈のオランダ船一艘、私共が彼地を出船した時、荷物の積みこみが終っていましたから、私共の船に五ないし七日も遅れて出船したと思われます。追付け来朝することでしょう。

さてシャム国のこと、一昨年内乱が起りましたが、もはや去年より別条なく国土も静謐になっております。その内乱の様子(注①)は以前に入津したシャム船から委細を申し上げている通りで、重ねて申し上げる事はございません。シャム国の米穀のことですが、古来より雨露にかまわず収穫出来る所でございます。大清との国境外より黄河と申す大河の、一筋は大清の内へ流れ、一筋はシャムへ流れ(注②)、また一筋はカンボジャヘ流れます。毎年この河水は五月の頃より次第に流れを増し、国中が一面の水国になり、その水は八月末に引けるのでございます。その水かさは一丈ほどになり、この為シャム、カンボジャ両地では貴賎ともに二階建ての住居に住んでおります。もっとも古来よりその水は国土の害になった事は無く、却ってこの水によって雨露にかまわず米穀が栽培出來るのございます。水が来る前に米種を蒔き散しておけば、水が来るにつれ苗が出來、日を追って水が漲って来るにつれ苗も水かさに応じて成長し長さ一丈余りにもなるのでございます。この様に安直に出来る米ですから外の国よりはるかに安価で、また旱魃の氣遣いもない所でございます。米のほかに黒砂糖もかなりとれる国でございます。これは水中で作るというわけにはいかず、山に近い所で作ります。今年は黒砂糖が不作でございますから、来朝したシャム船はどれも黒砂糖の積荷が減っております。私共の船もいつもは砂糖数十万斤を積んで来るのですが今年はようやく七八万斤しか積んで来ることが出来ませんでした。その上ここ数年来ご当地では割付けが制限されるようになり(注③)、砂糖も全部売れるとは限らず、残った分を積み戻ってシャムに着船した後、海上の湿気にあう為でしょうか悉く水に成って溶けてしまいますので、元も取れなくなってしまいます。これらの事以外に聞き及んでいる事もなく、申し上げる風説もございません。

 右の通り唐人共が申すに付き、書付け差上げ申しあげます、以上。
 午七月八日 唐通事共

注① 内乱の風説が初めて伝えられたのは第10回配信「貞享五年(一六八八)百五十番シャム船の唐人共の口述」である。それ以来第14回配信「元禄三年(一六九〇)八十一番シャム船の唐人共の口述」に至るまで数回にわたって口述されている。
注② この記述は穿鑿するときりがないが、当時の地理感覚として興味深い。
注③ 定高貿易の事。第7回配信「貞享三年(一六八六)八十番シャム船の唐人共の口述」の注記参照。


オランダ二番船シャムからの風説(注④)

一昨年フランス国より大小十二艘の船団でシャムに渡海し、そこからコスト・コモンデイル(注⑤)へ渡海、ここからまたシャムの内のウヽイムサアラン(注⑥)という所へ、昨年八月頃渡海して来ました。その地の領主に申入れたのは、一昨年シャムを立ち退いた時に召し捕らえたシャム人を連れて来ているので差し戻したい。ついては、そちらに留め置いているふらんす人共をこちらに返していただきたい。またウヽイムサアランに住まいを得て商売したい、と願い出ました。ウヽイムサアランの領主からシャム国王に伺いをたてたところシャム国王が申したのは、このような事を取り次いで来るとは不届きである、従って領主の役柄を取り上げ、新しい領主を派遣する、そしてその新領主へシャム国王が指示したのは、こちらの人数とフランス人と差し替えににしたいので、フランス国へ捕え置いているシャム人ならびに一昨年立退いた時に乗っ取った船二艘ともに必ず差返すこと、その上でこちらに捕え置いているフランス人共も引き渡すであろう。勿論こちらの者共へ少しでも害を与えるようであれば、こちらに捕え置いているフランス人共へも同様にするであろう、とこのように申し渡すようにとウヽイムサアランの新領主に申し付けました。更にフランス人共が上陸するようであれば、見当たり次第捕らえて殺害するようにとも申し付けました。それを聞いたフランス人は、オランダ国とフランス国とが兵乱になっていると聞いたので帰国することにしたと申し捨てて、早々に出船しました。

この船は六月七日にシャムを出船しましたが、琉球とめしま(注⑦)の間で三十日前に二回大風に逢い、帆を吹きとられ、その上船道具等ことごとく損じ、ようやく今日長崎に着船しました。以上

 午八月廿二日 古かびたん ぱるたあざるすへいるす(注⑧)
        新かびたん へんでれきはんぷいとのむ
 このように二人のカピタンが読み聞かせた通りに書きしるして差し上げます。以上 通 詞

注④ 華夷変態には唐船だけでなくオランダ船の口述も含まれている。ただし非常に数は少ない。
注⑤ ムガル帝国内にあった一国。この時期ムガル帝国はインド南端部を除くインド亜大陸を支配していた。
注⑥ この地不明。ただしアユタヤに至るチャオプラヤ沿いで領主が置かれていた所であるからバンコク近辺と推測される。第12回配信「元禄二年(一六八九)五十一番シャム船の唐人共の口述」の注記参照。
注⑦ 五島列島内の女島か。
注⑧ このオランダ風説は船頭の口述ではなく、オランダ商館長(カピタン)が報告して通詞が書き留める形式をとっている。


文責 奥村紀夫(JTBF 会員) 

先月までの「トップ寄稿記事」⇒バックナンバー



JTBFでは、2015年8月に設立以来初めて小冊子二冊を刊行しました。
その後の刊行も含め現在は四冊になります。


  1. 「Bangkok in 1960's」―副題「バンコクの今昔」


    1960年代から半世紀に亘るタイの激しい変化を垣間見る貴重な写真集です。50年前の長閑なバンコクやその近郊の風景は今や昔話の世界となってしまい、現代タイの人々にとってもおそらく懐かしさがこみ上げてくる風景と思います。これ等の貴重な写真は、JTBF特別顧問の吉川和夫氏よりご提供頂きました。Part1では、50年前、初めて氏がタイに赴任した時に撮影した写真と同じ場所・アングルで、最近再撮影して比較したものであり、Part2では当時の貴重な庶民の生活が活写されています。

  2. 「タイローカルの旅」


    旅は「出会い」と言われます。「自然との出会い」「人との出会い」「歴史との出会い」そして「自分との出会い」。その出会いは「幹線旅行」より「ローカルの旅」にこそ、この「出会い」に遭遇するように思われます。
    この10年間余、JTBF観光委員会のメンバーが中心となってバンコクやチェンマイ等の大都市への旅ではなく「タイ・ローカルの旅」こそ、日本人の「心の琴線」に触れる旅が出来ると確信し、タイ国観光庁(TAT)東京事務所と地道に共同で開発した「タイ・ローカルの旅」の会員紀行文、並びに  「お勧めのタイローカルの旅」を纏めた冊子です。

  3. 「アユタヤ歴史遺産の旅」


    現在の日本人向けアユタヤ観光の定番ルートは、「世界遺産アユタヤ遺跡」を標榜しているものの、アユタヤ歴史研究センターも、日本人町も、ましてやポンペット遺跡も含まれていません。魅力あふれるアユタヤの歴史全体を日本人にもっと知ってもらうために、この三ケ所をルートに含む観光ツアーの開発が望まれます。
    そんなことをテーマに、2016年2月28日、JTBF観光委員会、泰日協会有志10名で小旅行を実施しました。その記録を纏めたのがこの冊子です。

  4. 「タイローカルの魅力を訪ねて」


    今回、タイ国誕生と言われるスコータイ王朝そしてほぼ同じ時期に栄え、その後のタイ歴史の形成に大きく関係してきたハリプンチヤイ王朝、ランナータイ王朝の古里を旅しました。
    旅とは「出会い」である。「人」、「自然」、「歴史」、そして「自分」との出会いである。過去の「タイローカルの旅」とはまた違った、私たちが今まで追求してきた「旅は出会い」の様々な「心に残る風景」が今回の旅には多くありました。


この4冊の小冊子が皆様のタイ国に対するご理解に少しでもお役に立てば、私共JTBFの無上の喜びとするところであります。

尚、本冊子ご購入のご希望がございましたら、以下のURLにアクセスして頂き、お申込み下さい。

「Bangkok in 1960's」と「タイローカルの旅」は1冊1,000円、「タイローカルの魅力を訪ねて」は1冊900円、「世界遺産アユタヤ遺跡」は1冊800円にてご購入頂けます(各冊子合わせて6冊以上ご購入の時は割引価格となります)。代金を受領後、「ゆうメール」(郵送料無料)ないしは「ゆうパック」(ゆうパックは別料金400円)にて、10日以内に配送致します。

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