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バックナンバー 2008-04

「日・タイ随想」

No.19 2008/04/01

東南アジアのセンター、タイの思い出と重要性

JTBF会員:酒井 弘之

 タイは私の第二の母国である。タイは1961年当時、アジアへの自動車輸出先として沖縄(そのころはまだ左ハンドル車の“輸出先”だった)、台湾に次ぐ第3の仕向け地だった新興国であって、そこへプリンス自動車入社3年生のぺいぺい輸出課員の私は海外市場での実地活動トライアル要員として派遣されたのだった。発売して間もないスカイラインや小型トラック・マイラーで、ブリジストンタイヤ現地代理店Viravan社を拠点に市場開拓を開始した直後のことである。1年ほど駐在した間に、海外市場開拓や現地販売・サービス体制の確立の重要性を身に付けて帰国したのだが、その最大の土産話は、業界先達の日産・トヨタが当時まさに組立工場を準備中であり、輸出・販売の段階から一歩先んじていた事実だった。この体験と報告は帰国した本社で積極的に採用され、やがて代理店のKian Guan Motor社への変更、こことの合弁による組立工場Prince Motor Thailand の建設へと大きく進展した。

 1965年日産プリンス合併により私も日産本社極東部に配属され、東南アジア地域担当者になったが、間もない1967年、バンコック駐在員を仰せつかった。第一の任務は日産が吸収した上述プリンス工場の経営であった。と同時に、日産代理店Siam Motors に対する支援、本社施策の展開である。私は現地で二股かけての大任を勤めながら考えた。当時すでに日産がSiamの名の下でだが大工場を持っていたのに対し小規模のプリンス工場を単独で維持するメリットは無い、日産工場に合併しその一翼を担わせれば、トータルとして有機的に活用でき、また別単位の経営で苦労する手はない、と。Siamの社長、後に販売から組立・部品製造などに拡大し手腕を発揮して“タイの自動車王”として名を馳せた、Thaworn 氏に買収かた相談し、本社へ上申、承認を得て、実行した。

 アジア各地で市場開拓・拡販・工場建設・拡大に明け暮れた後、1985年私は再びバンコック事務所長として、Siam の立て直し、工場の拡張、エンジン製造会社の設立・経営に携わった。現地会社「社長」と本社組織の「所長」との兼務は会社創立以来初めてだと人事部が驚いたが、考えてみれば、既に若いときに似たようなことをやっていたのである。三度目のタイ駐在は楽しかった。タイの経済成長が進展し、GDPが2,000ドルを越したことから今でも販売の太宗を占める1トンピックアップを中心に自動車販売が年々伸張し、トヨタと毎月販売台数1位を争った。関係部品会社の誘致も進展して数々の工場が新設され、自前のエンジンと合わせて国産化率は85%にも達した。パキスタンへのダットサントラックやブルネイへのサニーの輸出が行われてマスコミをにぎわした。今大々的輸出に成功したと賞賛されているタイ自動車工業の素地がかくして確立したのである。このようにして会社員人生41年のうちタイに10年も住み、働き、楽しんだ。現在日産開発部門にいる次男もバンコックで生まれた。タイが第二の母国と言う所以である。

 さて、退職後もタイが忘れられなく、時折機会を得てはタイを訪問した。まだ体力も学問的好奇心もあったから早大大学院聴講生になって知己を得た、同大学院小林英夫教授をご案内してタイ自動車工業現況の視察旅行に行った。また娘が結婚した相手が電子産業のエンジニアでタイ工場勤務となったから孫たちを看るためにも時々行った。バンコックには事務所の後輩たちが退職後の第二の就職先として部品メーカー現地工場などの経営者としてその経験・知識・力量を発揮していて、私が訪れると必ず同窓会とも言える歓迎会をしてくれる。小林教授のときもそうで、タイ自動車産業の最新事情をこもごも語ってくれたのだった。

 2006年正月のことである。そのような愉快な会の席上で、部品メーカー現地工場の副社長をしている一人がこういう大事な情報を話すのである。曰く、東のベトナム・ダナンから西のミャンマー・モールメインを結ぶいわゆるインドシナ半島東西回廊が、北の中国・昆明から南のシンガポールに至る同南北回廊と交差するタイ中部ピサヌロークに、既にその旨を示す道路標識が出来ているというのだ。この大回廊によって、中国経済がベトナム・カンボジア・ラオス・タイを横切り、ミャンマーに、雲南からタイを南下してマレーシア・シンガポールへ路直結することになる。中国経済がこれで東南アジア大陸部に覇権を確立するとまでは言えないまでも、重要な経済的軍事的影響力を持つことになり、これまで50年間ヒト・モノ・カネを投じて来、今やその実りを回収すべきときに来た日本にも重要な意味を持つ。そう考えて私はすぐ小論にまとめ、朝日新聞英語版Herald Tribune-Asahi ShimbunのOPINION欄に寄稿した。当時専門家は当然知っていただろうが、一般には気が付かれていない情報だとして同紙が取り上げてくれたのである。

 タイは今、東南アジア諸国のうちでも工業化にもっとも成功し、自動車産業でみると、昨年の生産台数120万台、輸出はその内60万台で、百万台以上生産する世界15カ国の中で途上国では中国・韓国・インド・ロシアについで第5位を占める。バンコック都から始まった自動車産業は北はアユタヤ県、東は隣県サムットプラカーンを経て、チョンブリ県、さらにはラヨーン県にまで今や拡大し、組立工場と、取り巻く部品工場の大群があたかも東洋のデトロイトと言わしめるように集積を遂げた。私はこの情勢を、上述小林教授の編本に「タイにおける自動車部品産業の集積」として一論にまとめた。

 自動車のみならず電気電子製品、農水産食料品の輸出で外貨を稼ぐ、タイはまさにアジアの優等生である。近隣のフィリピン、マレーシア、インドネシアの追随を許さない。中国にはその巨大な国土・人口で、タイは規模ではかなわない。しかし、中国では実は、社会主義的市場経済といわれる難しい経済背景の中で、共産党下部機構の介入による過大な従業員福利厚生、人治制度による恣意的な法制に揺さぶられながら、代金回収の困難、知的財産侵害(イミテーション)、トラック輸送の渋滞と貨物強盗、構成部品輸入税の完成品輸出時還付の遅延、配当送金許可の延滞、労賃の高騰などで、進出メーカーの多くが外部に漏らせない困難に悩んでいる。

 タイにその心配はない。政府は進出企業を大事にし、微笑みの国で人間は温厚(マイペンライで大事にはならない)、まじめだ(けちなごまかしやサボタージュはあるが、これは世界どこでも)。外国人である日本人にも当たりはいい。私は2004年以来、経済誌「財界」、前記Asahi紙などに、中国一極集中は危険だ、投資してきた東南アジアをさらに育成せよと叫んできた。最近になって中国への投資にやや腰が引けて来、タイへの投資が再び盛んになって来たようだ。この流れを大事にしていきたい。

 それと同時に、タイの地場の経済人・財界人のこともよく斟酌しなければならない。まさかタイは一時のインドネシアのように日本資本排撃運動までは行わないだろうが、日本人、日系企業だけで固まり、経済成長の成果を独りむさぼることなく、広く門戸を開放し、ローカルの事業家、経営者も日系の成果を享受できるよう、十分な配慮が必要である。このことはぜひ関係各位、特に現地駐在諸氏に強調しておきたい。


(元 日産自動車バンコック事務所長)