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バックナンバー 2008-05

「日・タイ随想」

No.20 2008/05/07

タイの重要性

JTBF会員:木谷 豊

10円族、5円族、3円族

 「君は確か5円族だったよね?僕は10円族だったけど」。タイ駐在経験のある先輩と話していると、時々、確かめるようにこんな質問をされる。何のことはない。1バーツが邦貨換算で何円時代の駐在だったかを確かめているだけのことだ。ちなみにこの先輩は1980年代半ばの駐在。私は1990年代前半の駐在。この伝で言えば、今、駐在している人たちは「3円族」か「4円族」ということになる。思えばこの20年余りの間に、円はバーツに対して強くなったものである。

 それだけに、今年の年明け、ある全国紙の朝刊に載った「YEN漂流・縮む日本―北畑次官の誤算」には正直なところ違和感を覚えた。記事の趣旨はこうである。

 経済産業省事務次官の北畑隆生氏は、プラザ合意を受けて円高が進んだ1986年に「シルバーコロンビア計画」を発案した張本人。この計画は、退職後に物価の安いスペインなどで優雅な老後を過ごすことを日本人に勧めたものだった。北畑氏自身も発案当時、夫人に退官後のスペイン移住を約束したのだという。当時の試算ではスペインの一戸建て住宅(200平方メートル)は700万~1,100万円、一カ月の生活費が10万~15万円で済むはずだった。ところがその後のユーロ高に物価高も加わって、今ではスペインの住宅購入費も生活費も日本の2倍。北畑氏の気持ちは「住宅ローンも残っているのに優雅な生活どころではない。どうしたものか…」と揺れているというのだ。

 さて、同じ話をタイに当てはめてみるとどうか。全く逆の話が成り立つではないか。実際、「北畑次官の誤算」を読んだ家内は早朝、「これってヨーロッパだけで成り立つ話でしょう?タイだったら全く逆じゃない!」と叫んだ。為替レートだけで単純に考えれば、1バーツ=3~4円の今は、10円族時代から見ればはるかに物価安で暮らしやすいはず。日・タイビジネスフォーラムにも「ロングステイ委員会」があり活発な活動を展開しているが、それにももっともな背景があるとうなずける。


VTICs時代の到来

 今、タイに熱い眼差しを向けているのはリタイアしたシニアの人たちや旅行者だけではないだろう。産業界も再びタイに注目し始めているようだ。

 VTICs(ヴイティックスあるいはヴティックス、=ベトナム、タイ、インド、中国)という言葉を初めて耳にしたのは2006年の夏だったと記憶している。米ゴールドマン・サックス社が新興大国群を表す言葉としてBRICs(ブラジル、ロシア、インド、中国)を編み出し話題をかっさらったのが03年10月で、1990年代前半のタイ投資ブームを知るタイファンとしては少し寂しい思いをしていた。だが、VTICsという言葉の登場を聞いてちょっぴり溜飲を下げた。

 VTICsはBRICsから遠隔地のブラジル(B)と投資リスクが高いロシア(R)を除き、ベトナム(V)とタイ(T)を加えた言葉だという解説もある。だが私自身は、企業のアジアでの直接投資先が中国一辺倒からベトナム、タイ、インドにも分散し始めた変化を示した言葉だと理解している。中国が世界貿易機関(WTO)に加盟したのは2001年末。世界の企業の直接投資は中国加盟をめぐる米中交渉が決着した1999年11月ごろから中国へ中国へとなびくようになった。97年に起こったアジア通貨危機の傷がなかなか癒えないタイが注目されることはなかった。

 しかし次第に「チャイナリスク」が意識されるようになる。きっかけは2003年のSARS(重症急性呼吸器症候群)騒動、04年に華南地域などで表面化した労働力不足や電力不足、05年の反日デモなどだ。日本の産業界に中国一辺倒は危険という認識が広まり05年には「チャイナ+1」が合言葉になる。「+1」地域として脚光を浴びたのがベトナムやタイ、インドであり、VTICsという言葉はそこから生まれたと考えている。


中国を超えて

 この言葉ができた前年(05年)の一般工の月額賃金を比べると、上海が172ドルなのに対しバンコクは146ドル。エンジニアの賃金は上海335ドルに対しバンコク316ドル。タイは上海を中心とする華東地域に比べ、労賃で優位に立っている。中国人民銀行は05年7月に人民元の対ドルレートを2%切り上げ、以後、人民元の対ドルレートはじわじわと上がっているが、切り上げ前に1ドル=8.27~28元だったレートが今では1ドル=7元を上回る人民元高でこの傾向は今後も続きそうだ。タイの優位性はますます高まっているのかもしれない。

 タイを中心とする東南アジアへの投資ブームが起こったのは1985年のプラザ合意後の円高がきっかけだった。90年代前半、この地域は「世界の成長センター」として脚光を浴び、世界銀行は93年に「東アジアの奇跡」という報告書を出したほどだった。タイには、97年のアジア通貨危機まで日本を中心とする海外からの大量投資を受け入れ、92年の「5月政変」などの試練を経ながらも全体としては何とかうまくやってきた実績がある。それが、2006年9月の軍事クーデター発生にもかかわらずタイ投資に対するある種の安心感を生み、特に「チャイナリスク」との対比でここへきて強みになっているのかも知れない。

 タイに1990年代前半に駐在したのをきっかけにその後はほぼ一貫して東アジア全般にかかわる仕事をしており、今も月に1回程度のアジア出張がある。ただ、行く先の過半は中国で、次いで韓国が2割ぐらい。タイやベトナムへはそれぞれ10回に1回程度といったところだ。タイファンとして、タイ出張の機会がぐんぐん増えてくることをひそかに期待している。