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バックナンバー 2008-06

「日・タイ随想」

No.21 2008/6/01

忘れていたもの

JTBF会員:本村 博志

バンコク市内東部に念願の「タイ日工業大学」が昨年8月、正式に開校した。在タイの進出日本企業も挙げて応援している「もの作り大学」だ。バンコク日本人商工会議所(JCCB)の会員企業から、年間8百万バ-ツの奨学金はじめ、自動車工学用の各種機材、パソコン等の提供など積極的に支援、この真の「もの作り大学」へ寄せる期待は大きい。当大学は、当面、工学部、情報学部、経営学部の3学部と大学院よりなり、将来のエンジニアの卵、新入生375名が、物作りの原点たる現場の強みを経営に直結させる壮大な試みを始めたのである。この学生たちの学力レベルが相当に高く、名門タマサ-ト大やチュラロンコン大へも当然に入学可能のレベルの若者がひしめく。

長く忘れていたものを感動をもって再発見したのは、この2月、恒例となったJTBFの訪タイミッションの一員として、同大学を訪問した時のことである。一行を案内してくれた女子学生の眼が、あまりに澄んでいるのに驚かされたのである。希望に満ちて、とてつもなく澄んでいるのである。まだ、幼さを宿している19歳前後の1年生。真っ直ぐに向けられた視線は、真剣そのもの。習いたての日本語を操って懸命に案内役をこなしている。

この大学では、英語と日本語は必須で、仕事で使い物になるレベルを目指している。日本語を習い始めてまだ半年にも満たない。そんな学生が、JTBFの案内役を命ぜられ、精一杯この重要任務を全とうしようとするこの学生たちの一途な熱い気持がジワリと伝わってくる。自分の喋る日本語が通じない時に見せる、判ってもらおうとする懸命さと、困惑顔と微笑み。なんと純粋な表情だろう。諦めていた貴重な忘れ物を何かの拍子に偶然に見つけた時の喜びを感ずる。この表情を何処かで見たことがある、と一瞬記憶を辿る。そう、10年ほど前になるだろうか、ブ-タン国を訪れた時だ。子守をしている同じような年頃の生徒、上手に英語を使って学校へ行く楽しさを語ってくれた時だ。当時のブ-タン国は、昭和30年前後の日本の状況とよく似ていた頃。屈託の無い、人懐っこい笑顔の中に、この澄んだ眼を見つけ、物質的な豊かさは無いものの、十分に幸福そうな笑顔と共に忘れ難い光景として脳裏の片隅にあったものを、ここタイ日工業大の学生が思い出させてくれた。

此の頃の日本では殆ど見かけないので、忘れていたものだ。日本の同世代の若者の多くは、髪を染め、流行なのか、だらしなく中途まで下がったズボン、視線が定まらず狡猾そうな性格を映し出す両の眼、公衆の面前で座り込む、大声でじゃれまくる。こんな若者の姿を目にする機会が多いこの現代日本。このタイ日工業大学生の、ひたむきな熱い視線がなんと新鮮に映り、大きな感動を与えてくれたことか。見た目、奇妙な理解しがたい風采の御仁でも、立派な考えや行動をする若者がいることは理解している積りだ。風采はどうあれ、芯に一本、ズィッと通っている若者は沢山居るだろう。然し、何故こうも軟体動物のような若者が近頃目につくのだろうか。年をとったせいだろうか。それだけに、このタイ日工業大学生の礼儀正しさ、学問へのひたむきな情熱に触れるとき、何か圧倒される感じに襲われてしまう。新装なった校内ですれ違うどの学生からも、同様なひたむきさを感じる。一流の技師になってやろうというひたむきさだ。4年後、彼らが社会に巣立ち、有為な人間を目指して企業(おそらく日系企業が主だろうか)で活躍する時、タイの真の国力の強化に繋がって行くこと疑いがないように思われる。

そもそも「国力」は、経済力、軍事力、人口の総和と言われる。いくら軍事力を強化しても、これは国を外側から力をもって強くするもの。周辺他国へあらぬ警戒心を抱かせるという副産物も出来する。経済力といっても、何もGDPばかりではあるまい。上述のブ-タン国のように Gross National Happiness を尺度とする価値観があってもいい。時間はかかるものの、真の国力の強さは、国民の「教育」にある、と言っても過言ではなかろう。

日本の明治維新、その後の開国日本を成功させた背景には、江戸時代250有余年の間の教育にあり、国民全体の知的レベルが、当時の欧米諸国並かそれ以上だったからに他ならない。もともとタイ国は、家庭教育も含め教育熱心な国柄である。政府の予算も十分ではないが、少なからず教育に力点をおいた配分となっているのだ。優秀な学生であっても、家庭で十分な学費を支出できないため、教育の機会が狭まっていることは事実であろう。

今、まさにタイ国は、東南アジアの若きリ-ダ-として台頭しようとしていると言え、ビジネス界リ-ダ-や政府政策立案者は、海外の大学・大学院を卒業した裕福な家庭の子弟が中心となっている感は否めない。これから真にタイの国力強化の礎は、国の内側から強化する真の教育の機会が、貧富の区別なく平等に与えられ、以って、真のエリ-トを育成して行かねばならないだろう。こう考えると、このタイ日工業大学の存在価値は、タイの将来にとってとてつもなく大きな意味を持ってくる。優秀な学生には、JCCB等から奨学金が支給され、大学には数多くの機械工学用の資材が提供されている。日本語・英語が必須とされているので、進出日系企業の現場でも十分な communication がとれるよう指導されている。とかく現場が無視され勝ちな風潮がある此の頃、マネジャ-は、米国式個室に入って指示を与えることが「恰好良い」と見られ、現場と一緒になって、現場において愚直に地味に問題解決して行こうとする姿勢が敬遠され勝ちな最近の風潮。これらを打破し現場で、現物を手にしながら、日本語で communicate し共に問題解決していこうとする、ひた向きな若者が今、ここタイ日工業大学において、2010年には3400名も学ぶこととなるという。これら卒業生が、進出日系企業へ、そして之を通じて、タイ国を、そしてアジア・世界へ大きな力となって羽ばたいて行く。この光景こそ、真にパ-トナ-たる日タイの究極の姿ではなかろうか?つぶらな瞳に、学生のひた向きな姿に、深い感動を覚えながらタイ日工業大の新校舎を後にしたのであった。


(元 東京三菱銀行バンコク支店長)