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バックナンバー 2008-09

「日・タイ随想」

No.24 2008/9/01

タイ国境事情

JTBF会員:小山 光俊

  今年も5月10日(土)・11日(日)の二日間、代々木公園でタイフェスティバル2008が盛大に開催された。今回で第9回目。今年は東京を皮切りに、名古屋・京都と開催され、9月6日(土)・7日(日)には大阪の天王寺公園で開催される予定という。

  今年東京での開催は生憎の強い雨。50万人とも言われた昨年の参加者数こそ下回わったが、100に近い出展ブースは混雑していた。タイ語の威勢の良い売り込みの声、パクチイの香り、鳥を焼く煙などバンコックの下町が代々木に出現した風情だった。

  1993年頃だったか、日本の米不作対策としてタイ米を輸入し、それが不評だったことに端を発して、2000年にタイ政府の肝いりで「タイ米を日本に広める」とのことで開催されたフェスティバル。その後全国的に広がり、規模が拡大している。「タイ料理が好きだ」と言う日本人が増えてきたからだろう。タイの観光振興にも大いに役立つが、タイを身近に感じる一大行事になりつつあるのは、大変好ましいことだ。

  そのフェスティバルで、ノパドン外務大臣が挨拶をされておられたが、この7月に辞任されたと言う。よく聞いてみると、7月8日に新たに登録された世界遺産、カンボジアの「プレア・ビヒア寺院」に関連してのことだと言う。昔からもめているタイとカンボジアの国境問題のようだ。

  日本人にとって国境は海で隔たられているので余り身近に感じない。もう30年以上も前になるが、アメリカとメキシコの国境を歩いて渡ったことがある。アメリカ側はエルパソ(スペイン語で北への町)、メキシコ側はチウダ・ワレイズ。国境は幅50メートルくらいのリオグランデ川。当時メキシコ側はまだ開発が遅れており、アメリカ側から緑の芝生に囲まれた4車線のハイウエー沿いに国境を渡る。見る見る道路は2車線に、やがて舗装の無い土埃りが立つ道に変わった。看板はスペイン語となり、子供たちが「give me penny」と近づいてくる。国境とは人為的に作られた文化と経済力の境目だと言う印象を持ち、それ以来国境に興味を持った。そもそも国境と言う線によって世界地図が色分けされたのはせいぜい200年、フランス革命以後のこと。人類の歴史から見ればそんなに古いものではない。

  タイに赴任したときも、タイの国境がどんな姿なのか、興味を持って訪ね歩いてみた。国境とは違うがアユタヤの遺跡を見てもわかるとおり、ビルマとは何度か交戦し大きな被害を受けている。その際、勝利したビルマは財宝と捕虜を連れて帰り、仏像や都市を破壊して引き上げたと言う。今見ると何でこんな無残なことをしたのかと当時の勝利者に憤りすら覚えるが、勝利の印にそこの文化を破壊し、もっとも欲しいものを持ち帰ったのだという。今から250年も前のことだし、無論現在の国境と言う概念は無かっただろう。その土地を支配することも無かったようだ。「農耕民族は土地を開墾し耕す人がいれば、毎年収穫できるし、豊かになれる」と言う話を聞いたことがあるが、確かに東南アジアの土地は水と太陽に恵まれた平地が多く、米は2毛作が可能、果物は豊富に出来る。土地の確保は二の次だったのかもしれない。

  ハジャイの近くのサダオと言う国境の町に行ったが、タイ側の門とマレーシア側の門の間に1メートル位の隙間があったのは印象的だった。タイ側のマーケットは交易で栄え、マレーシアからの買い物客で混雑していた。むしろマレーシアの人々の観光で潤っている。

  バンコックから国鉄で行く終点の駅、ノーンカイに近いラオスとの国境も印象的だ。日本の援助で作った「友好橋」を渡るとラオス。タイ語は通じるし、同じ仏教国。王国と人民民主共和国という政治上の体制は異なるが、町並みや文化は違った国に来たと言う印象をあまり受けない。しいて言えば右側通行と左側通行の違いくらいだろうか。

  ラオスとの国境のようにメコン川という大きな川で区切られていれば、「向こう岸はラオス」と言うことでなんとなく納得する。チェンマイから北西に30キロほどタイ最初の植物公園である、クイーン・シュリキット植物公園のはるか先、あるいは地熱発電所や温泉のあるファング(チェンマイから北東に150キロ)の先にあるミャンマーとの国境など、ほとんど人が行かない山が国境と言うところには、分け隔てるものがない。ここが国境ですと言われない限り、その境がわからないほどだ。ミャンマーとの国境の町メーサイは有名だが、国境の川というには余りに狭い。小川を渡ると、そこがミャンマーだ。入国するのは観光に限られていた。

  ラオス・ミャンマー・タイの三国が接する国境はゴールデン・トライアングルとして有名だが、ここは一大観光地化していた。国境もいまや重要な観光資源だ。

  しかし、1993年カンボジア紛争のさなかに、カンボジアとの国境の町アランヤプラテートを訪れたとき、原野に鉄条網が張りめぐらされ、国境は難民の自由な越境を防ぐ線のような印象を持った。昔の国際列車の線路はそのまま残されていたし、鉄路がジャングルに消えていく姿は何か、国境と言うものの持つ冷たい現実を思い知らされた。

  さて話は元に戻るが、先の「プレア・ビヒア寺院」の件は国境についての紛争が今でも続いていることを世に知らしめることとなった。そもそもこの地はアンコール時代9世紀から300年をかけて作られた寺院遺跡でアンコールワットより古い。多くの寺院の遺跡が高い崖の上の地域に広がっている。1904年、当時のフランス(カンボジアを含むインドシナ3国の保護国)とシャムとの間でこの辺りの国境は分水嶺と決められたと言う。フランス当局によって1908年に測量地図が作成され、公刊された。

  1934~35年にシャムはこの地を独自に調査し、国境線と分水嶺の不一致を発見した。しかし、その後、何回かに渡って国境の変更や確認の機会があったが、タイ側からは何も表明されなかったと言う。第2次大戦後タイはこの地に警備兵を派遣していた。1953年にカンボジアは独立し、1959年にはカンボジアが国際司法裁判所に訴訟を提訴し、1962年に判決が下りてカンボジアの管轄権が認められることとなってしまった。

  他の地区は崖の線が分水嶺であり崖の上がタイ、崖の下がカンボジアときめられている。この遺跡のあるプレア・ビヒア寺院の遺跡のところだけは崖の上にもかかわらず、飛び出してカンボジア領が広がっている。その結果この寺院遺跡にはカンボジアの平地側からは600メートルを越える崖が災いし、通常ルートでは行けないし、タイ側には遺跡の入り口がある。ここが如何に高い崖であるかは、日本からバンコックに行く直行便がこのあたりの上を通るので目を凝らせば崖を確認することも出来る。最近の便利な地図検索システム Google Earth で見ると、崖の写真(写真左)まで載っている。
(注:写真はJamrat氏がgoogle掲載用に撮影したものを転載。右の写真は、同氏が撮ったタイ側から入った寺院遺跡。)


タイ・カンボジア国境分水嶺と寺院遺跡

  現在タイ側の入り口は閉鎖されており、この寺院への訪問は出来ないと聞く。世界遺産の登録が新たな火種となってしまったが、これを機に両国の国境の障壁がより低くなるように、問題が解決されればと思っている。


(元 さくら銀行バンコク支店長)