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バックナンバー 2008-10

「日・タイ随想」

No.25 2008/10/01

懐かしいタイの人々

JTBF会員:酒井 弘之

  1959年就職し、初めて与えられたのがタイ向け輸出業務だった。当時のビジネスはまだ“輸出”の段階であって、完成車受注、工場生産展開、出荷船積手配、代金回収銀行ネゴなどが仕事だったが、やがて現地における販売促進、販売・アフターサービス・補修部品供給などネットワーク確立のニーズが予測された。そのためのタイ駐在要員として私はまずタイ語の習得を命じられたのだった。当時は現在と違い外国語塾など一切無く、見つかったのが東京日本橋の三井本社にあった「タイ室」でのタイ語勉強会だった。先生は盤谷銀行東京支店のMarnop Sankamitさん、先生手造りのガリ版刷りタイ語会話テキストで、第一課Botti nunは“本が机上にあります”Nansuu yu bon toが思い出される。このテキストは名著で、その後私が2度目の駐在時(67~71年)にバンコックへ戻られた先生が日本人駐在員にタイ語を教授するため再び教材に使用されていたのを知っている。先生は優しいお人柄で、授業も懇切丁寧、5声の発音に厳しく、その後の私の勉強の基礎になった。大正生命、東洋レーヨンなど主に三井系企業の若手が生徒だったが、われわれをご自宅に招んでタイ料理をご馳走して下さるなど、それまで未知だったタイ人という人々の性格・性質を知る第一歩になった。

  1961年念願のタイ長期出張に出された。バンコックでお世話になったViravan Co.社長の昼食会で知り合うことになったのが甥御さんのAmnuay Viravan 氏で、当時若手官僚の俊英と目され、後のBOI長官であるから読者にはご存知の方もおろう。2度目の駐在時BOIに挨拶したときお目にかかり久闊を叙した。氏は頭脳明晰、態度は温容で控えめ、静かにモノを話すインテリであって、中央官庁の高級官僚といった尊大さの全く無い方である。Viravanファミリーはいわゆる潮州華僑であるが、氏はお顔つきがすでに中国人っぽくなく、タイ化した華僑、タイ化させた華僑が経済から政治にも力を持ったという東南アジアでのタイの成功原因の一を身近に知ったのである。

  2度目の駐在時、住まいをPloenchit Rd.の横丁Soi Luam Ludi 3の貸家に求めたが、同じ敷地に住む大家さんのUlitさん夫妻がいい方たちだった。ご主人は西松建設とのJV、Thai-Japan Construction の役員をしておられたが、柔和、上品、親切な方で、おそらく名家の出で、その関係で日タイJVに関与されていたものと思う。奥様も優しく、店子の私たち一家をよくサポートして下さった。次男が生まれたとき、私にPermanent Visaがないため住民登録が出来なかったが、Ulitさんの養子として戸籍に入れてもらって彼はタイ人になった。帰任時Ampoe Patumwanに行き戸籍を抜き日本大使館からパスポートを貰って日本人として帰国したのだが。ちなみに区役所からは、なぜタイ国籍をやめさせるのか、タイ人のままにしておけばいいではないかと食い下がられ、その愛国心?に感心したものである。帰国後何年も経ってUlit夫人から手紙が来た。私たちが庭に植えたマンゴーの木が成長し実をつけたと、マンゴーと奥さんが写っている写真も添えて。早速この話を日本人会へ報告したが、会報Krungthepに掲載されたと後輩から聞いた。

  仕事の面では何と言ってもBorisat Siyam Korakarn (Siam Motor) の創始者Thaworn Phornprapa氏である。やはり潮州華僑で、幼少時来タイ、鉄くず商から身を起こして、中古車販売業を経、縁あって日産自動車販売に携わり、販売・組立・部品製造・関連事業へとビジネスを発展させ、マスコミからThai Automotive King と称された一代の出世紳士である。彼は確かに商売に長けていた、だがそれだけではあそこまでのし上がれなかったはずだ。そこにあるのは人徳というもので、一生を通して、日産のお陰だと言い通し、工場には川又日産会長の胸像を建立して敬っていた。われわれ日産駐在員のアドバイスはよく聞いてくれたし、出張してくる本社役員とも実に上手に交際された。3度目の駐在(85~89年)は実はSiam社が不振に陥り、以前に協力の実績があったとして私が要請されて応援のため出ばったのだが、大事なことをすべて相談してくれた。家族経営の欠陥を悟った彼は、当時の経済界大立者・中央銀行総裁Nukun 氏を会長に招請し経営を委ね、さらに日産に資本参加を要請してきたが、私も応分にお手伝いさせて貰ったのは今でも誇りである。

  ちなみに上述の次男をタイ国籍に入れるため必要だったタイ名をPrassert と名づけてくれたのもThaworn氏であり、2度目の駐在の後一家で遊びに訪タイしたときも、Sukumvit Rd. Soi Thonglorのお宅や市内大中華料理店にてその家族一同を交えての盛大なお招きにあづかった。01年に亡くなったがその葬儀に私たち夫婦が個人的にだが参列したのは当然である。長く続いたお通夜の3夜を王室が主持され、東京から出張してこられた塙日産会長ともども列席した。

  私が仕事でお世話になった人々にも忘れえぬ方々がいる。Siam社の製造部門副社長だったKavee Vasuvatさんもその一人で、タイで日系として始めて出来た組立工場を日産エンジニアの指導のもとに建設・運営、拡張に次ぐ拡張を行い、多くの部品製造会社を日本各社と合弁で設立した。性格のいい、仕事真面目な、信頼できる人物で、後日成立したThai Automobile Industry Association の会長でもあったから、多くの日系自動車各社のトップの方々はご親交があるはずだ。今タイは自動車生産輸出国として名声を馳せているが、前記Thaworn氏、その片腕だったKavee氏らがタイ自動車工業のプロモーターであったと称して言い過ぎではなかろう。

  もう一人。旧プリンス自動車工業が遺したPrince Motor Thailand の2代目社長を背負わされた67年当時の工場長Boonchu氏も忘れがたい。中国系の混じっていない、いかにもタイ人、そしてMue Thai ボクサーのような面構えの男だったが、起こりかかった労働争議を必死で解決してくれたし、また、交通事故で右腕を折ってしまったのに片手運転で毎日出勤し工場管理を果たしてくれた、あのときの感謝を忘れることができない。何かにつけMai pen rai だと、仕事に甘く、あいまい、ルーズなところがあるように一般に見られがちなタイ人だが、決してそうではないことを強調しておきたい。トラブルがあったとき、私に、大丈夫だ心配するな、という意味をBoonchu氏はMai pen rai ! と表現してくれたのだった。


(元 日産自動車バンコック事務所長)