Logo of JTBF
トップ・ページ  バックナンバー・リスト
文字サイズ: 

バックナンバー 2009-01

「日・タイ随想」

No.28 2009/01/01

タイでのゴルフ

JTBF会員:中村 完
2009/1/01

ゴルフを始めた頃

  小生が始めてゴルフクラブを握ったのは50年前の1959年にブリヂストンのバンコク駐在員事務所に派遣された23歳の時が最初であった。

  当時はゴルフ練習場もなく、ナングル-ン競馬場の中にあるドゥシットゴルフクラブのコース内で、先方にキャディーを立たせ、こちらからボールを打っていた。ドゥシットクラブにはメンバーの紹介で直ぐメンバーとなり、ウタイ・プロのレッスンを受けた。レッスン費用とボール代、キャディー代等は大した額ではなかったと記憶している。その後、三ケ月間みっちり練習してからコースを回り、ハンデキャップを申請したのでドゥシットクラブのハンデキャップ16を最初に頂いた。その後はこのハンデ以下に下がったことはなかった。

  今と違って本社との交信は国際電報と手紙のやりとりのみで、国際電話は郵便局からしか通じず、仕事はそれ程忙しくなく、正に練習するには天国であった。携帯電話で何処に居ても追いまわされる現在のビジネスマンにとっては考えられないようにノンビリしたものであった。当時のゴルフ場は市内のドゥシットとスポーツクラブ、郊外の陸軍ゴルフコース、ドンムアン空港内の空軍コース、一寸遠出で観光局の国営バンプラゴルフコース、ホワヒンの国鉄ゴルフコース等であった。

  タイ人もあまりゴルフをする人は居らず、何処のコースもガラ空きで、陸軍、空軍のコースでは、非番の兵隊さんがアルバイトでキャディーを勤めていた。

  2回目のバンコク勤務となった1963年頃から、駐在日本人も増えて来、60年代後半には、日本人会ゴルフ部もかなりの人数が登録され、バンプラでの月例会を楽しんでいた。バンプラの先にはサイヤムカントリークラブが日本人の設計でオープンした。

  その頃、タイブリヂストンの工場進出が決まり、1969年1月に操業を開始したので、建設からBOIとの折衝、役所の手続き、販売代理店の契約、物流の整備等に追われ、小生にとっては、あまりゴルフが出来なかった時期であった。

ゴルフの隆盛とチャリティーへの参加

  タイブリヂストンの工場も3年経ち、工場も販売も軌道に乗り、販売取引上の付き合いもあって、ゴルフにまた熱が入ってきた。この頃は、ベトナム戦争も終わりに近づき、軍による革命政権が弱体化し、市民運動が盛んになり、反日運動も見えはじめていた。実際、田中首相が来タイの折は、反日デモが行われた。ローズガーデン、ナワタニもこの頃オープンされ、一般的なタイ人の間にもゴルフの流行が芽生えて来た頃であった。しかし、日本人が大挙してゴルフ場を占拠するのを批判されたこともあるが、確かに日本人ゴルファーが眼に付く程多かったのも事実である。そんな時期に、ブリヂストンとしてはゴルフボールを販売していたこともあって、反日感情を少しでも緩和できればと、チャリティー活動にゴルフを取り入れることにした。

  この頃タイではプロの大会は、年一回のアジアサーキットの一環としてタイランド・オープンしかなく、タイのプロゴルファーはトーナメントで賞金を稼ぐことが出来ず、レッスンをしながらスポンサーに頼っていた。ブリヂストンでは、1973年からウタイ・プロにボール供給をスポンサーすることになった。1975年にはナワタニでワールドカップが開催され、プロトーナメントも新たな眼で見られるようになったことから、この年、タイ国PGAに申し入れ、タイでは初めて冠トーナメントとして、タイブリヂストン・オープン・ゴルフ・トーナメントをサイヤムカントリークラブで開催し、優勝者を日本のブリヂストン・トーナメントに招待し、主催者推薦枠での出場の権利を与えた。往復航空券は日本航空がスポンサーして呉れ、それから毎年、1984年まで10名のタイプロゴルファーを日本のブリヂストン・トーナメントに招待することが出来た。写真右は日本のブリヂストンオープン出場のアーチン・ソーポン プロを見送ったとき。

  アマの部門では、ランパイパンニー王妃(ラマ7世王妃)を総裁に戴いている慈善基金を援助する為に、1973年から3年に亘りチャリティーゴルフ大会をサイヤムカントリークラブと共に主催し、相当の金額を寄付することができた。1974年2月23日の大会では、小生も入賞し、王妃より直々に賞品を戴くことができた(写真左)。この功績が認められ、恐らく日本人では初めてランパイパンニー王妃のお住まいであるスコータイ宮殿に招かれ、チャリティー支援者と共に親しく労いのお言葉を賜る栄誉に預かった(写真右)。因みに、ラマ7世王は、タイ国で始めてゴルフをされた国王で、離宮のあったホアヒンにゴルフ場を建設されたのが、現在のロイヤルホアヒンゴルフコースである。


  1970年代後半には、ナワタニのような住宅団地の中の施設として数々のゴルフ場がオープンし、タイ国のゴルフも盛んになってきた。単なるチャリティーゴルフでは、既にありふれてきたので、ようやくポピュラーになってきた女性ゴルファーに目を付け、ブリヂストンとしてタイ国女子アマチュアーゴルフ協会(TALGA) をスポンサーすることになり、1978年から毎年、年次大会に協賛金を寄付してきた。ご夫人方の影響力はご主人にも及ぶことから、奥様のゴルフの話題が豊富になり、タイの経営者クラスとのゴルフにはご夫人も同伴され、親善やビジネスにかなり役に立ったように思う。


ロイヤルバンコクスポーツクラブ

  小生のタイでの日本人ゴルフに対する貢献の一つとして、商工会議所理事会社の代表者をスポーツクラブの会員として入会を認めさせたことが挙げられる。ラーチャダムリ路の真ん前にあるロイヤルバンコクスポーツクラブは、タイ国随一の名門で、こんな近い所でゴルフが出来たら良いな、と思ったことがある人が多いと思う。

  このスポーツクラブは昔から個人会員しか入会を認めず、入会も10名の会員からの紹介とかなりの地位、滞在期間がないと会員にはなれなかった。また、クラブ内にはテニスコート、プール、レストランなどがあり、セレブな雰囲気で、日本人で此処のメンバーとなっている人は、古くからバンコクに居る個人メンバーか、大使、公使くらいで、三井、三菱の代表者でも入ることは出来なかった。小生としては、どうしてもここのメンバーになりたくて、1980年のある日、スポーツクラブのポン・サラシン会長を訪ね、日本の名門クラブで採用しているような厳選された法人会員を認めて欲しい、と数々の資料を添えて提案した。その後クラブの委員会で検討され、日本については、盤谷商工会議所の理事会社について代表者に限って(個人)会員となることを認める、との回答を得た。商工会議所理事会にて理事の皆さんに伝えたら、全員喜んでOKとなり、直ちに加入申請手続き取り、この年から理事会社の代表者はメンバーとなったのである。

  スポーツクラブの会員になると、クラブの紹介状を持参すれば海外の提携名門ゴルフコースにてメンバー並みのフィーで土、日でもプレーが出来る。お蔭で出張の折り日本のスリーハンドレッドクラブ、マレーシアのロイヤルセランゴール、シンガポールのSICC、香港ロイヤルゴルフクラブ等でプレーを楽しむことが出来た。

  ラーチャダムリ路の家から5分で到着、朝早くスタートすれば、9時半には出社できたし、クラブ内活動でタイの要人やビジネス関係者との交流も盛んで、理事の皆さんからは大いに感謝された。それから10年後の1990年代には、ロイヤルバンコクスポーツクラブが郊外にラーチャプルックゴルフクラブを建設し、ここもロイヤルと並んで、メンバーが厳選され引き継がれていると伺い同慶の至りです。現在の理事会社の方々は、自動的に会員資格を継承しているので、有り難味はないかも知れないが、当時は大変な出来事であったと記憶している。


(元タイブリヂストン㈱社長、盤谷商工会議所 理事・労務委員長)