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バックナンバー 2009-02

「日・タイ随想」

No.29 2009/02/01

タイの民主主義について

JTBF会員:加藤 寛二
2009/2/01

1.クーデター

  ここ10年前までのタイは比較的安定した法治国家としてのイメージを維持し、立憲君主国家として民主主義を標榜していた。且つ1997年の通貨危機も乗り切ったことなどから、一般的に外国企業も安心して事業を進められる国として投資を続けてきた。

  しかし、2001年にタクシン首相が選出された後、その並外れた財力と巧みな政策で支持層を急増させて磐石な政治基盤を築くに至ると、次第に金権的・独断専横的政治傾向を強め、政治が腐敗し始めて行った。

  2006年1月には、タクシン氏の株式不正取引疑惑が発覚したことに端を発したタクシン首相批判の市民運動が始まった。この批判の波を避けるためタクシン氏は下院解散・総選挙のステップを踏んで凌ごうとしたが、野党のボイコット等で再選挙となるなどの混乱が続いた。

  有識者を中心とした国民の不満は日に日に強まり、終には2006年9月にクーデターが発生しタクシン首相は政権の座を追われ、イギリスに亡命することになる。

  タイ国の政治的混乱が、タイが標榜していた民主主義に反するクーデターという手法で解決されようとしたことは残念な結果であったと言うべきであろう。

  しかし、民政移管に向けた2007年末の総選挙ではタクシン派パランプラチャーチョン党(PPP)が第1党となり、タクシン派が政権に復帰し、タクシン氏は亡命先から院政を行うという皮肉な方向へと進展して行った。 クーデターで政権を奪われたタクシン氏が事実上国政を動かす事が出来ると言う構図は何処にその原因があるのであろうか?

   それはタイの社会では、

  1. 選挙に際して票を買うことが常態となっていて、地方においてこの傾向が強い。
  2. いわゆる判断力に乏しい?農民は権力者に金と便益でむすびついている。

  ――という問題が根底にあるとの通説があることで説明ができる。

  タクシン首相の在任中の政策は、①一村一品運動による地域興し運動や②健康保険制度の整備、③30バーツ医療等の低所得者寄りの傾向が強い大衆迎合的政策に走り、これが国民に受けてタクシン氏の人気が高まったことにあると言える。

  タクシン氏の人気がその後も衰えないのは、上記2点の特質を活かした巧みな経済政策が奏功したからでもあるし、その前に桁外れな財力を利用して地方の有力者を掌握しているのみならず政治家を多数引きつけて政権を牛耳ることが出来たからだと見て良いと思う。

2.タイの民主主義

  ここで思い起こすことは、藤原正彦の著作「国家の品格」の中で、『一国が「主権在民」を根幹とする民主主義を取り入れるには、「国民が成熟した判断をすることができることが大前提である」この場合には、民主主義は文句なしに最高の政治形態です。』と主張しているのを読んだことである。

  所謂、「民度」がある程度高くない限り、真の民主主義は根付かないし、正常に機能し得ないということを言っているのである。

   「主権在民」とは「世論がすべて」ということであり、国民の判断力が重要な役割を担っていることは言うまでもない。

  国民が成熟した判断力を持たない国に民主主義を導入すれば、場合によっては、その国民は財力を持った一部の政治家の大衆迎合政策に乗せられて、結果的に金力による強力な政権を許し国家が丸ごと支配されかねないという危うさを内包していると言うことであろう。

  タイの国王は、あまねく地方を廻り、直接国民の苦情を聞き取り、時には王室基金を使い、また時には時の政府に改善策を指示するなどして底辺の人々を救済して来たことが、多くの国民の信頼と崇拝の念を集めた要因であると見られている。このような人心掌握の成果がどのような政権に対しても一目を置かせる存在となっていると考えられる。

  タクシン政権においては、地方ばら撒き政策と言われながらも困窮レベルに医療費補助や生活補助を行って国民の人気を獲得して行ったことは、結果的に国王が誠心誠意執り行ってきた救世済民の成果に似た結果を政策的に獲得したと見るべきではないだろうか。

  数々の不正疑惑を持った政治家の政策でも、わが身を潤してくれればこれを容認し歓迎すると言うのは「成熟した判断」と言えるであろうか。ここにタイ国の民主主義の危うさを見る気がする。

  即ち、国民の判断力の乏しさと「清濁を合わせ飲む」というタイ人気質が金権的腐敗政治を助長させたと見るのは間違いであろうか?

3.その後の政治情勢

  08年2月に選ばれたPPP党首のサマック首相がテレビ番組に出演し謝礼を受け取ったことを違憲とされ、9月に失職する事になる。

  後任のソムチャーイ首相(タクシン氏の義弟)に対しても反タクシン派「民主主義のための市民同盟(PAD)」は、数千~数万人の支持者を動員して執拗に抵抗し、8月下旬からタイ首相府、11月下旬からバンコクのスワンナプーム国際空港とドンムアン空港を占拠し、タイ国に多大な損失を与えると共にタイ国に対する国際的な信用を失墜させた。

  警官隊との衝突で死亡したPAD支持者の女性の葬儀をシリキット・タイ王妃が主宰したことなどから、政府・警察はデモ隊の強制排除が執行し難くなり、タイは無政府状態の瀬戸際に追い込まれた。

  このタイミングで憲法裁判所はPPPが選挙違反を犯したとして解党処分としたためソムチャイ首相は失職し、政権はアピシット党首の率いるの民主党に移ることとなった。

  今度はタクシン支持団体「反独裁民主戦線(UDD)」が民主党政権に反対する活動を展開して、政治の混乱は続くこととなった。

  PPPの解党裁判で憲法裁は事実上十分な審理を行わずに判決を下したことを、露骨な政治的判決としてタクシン派が反発したが、タクシン・反タクシン両派の鬩ぎ合いの中で、壊れかけたバランスを微妙に調整しているのが裁判所の存在であるように見受けられる。

4.ヒトラーの民主主義

  再び藤原正彦の「国家の品格」に戻るが、『(ヒトラーは全体主義者、独裁者として忌み嫌われているが)、第一次大戦以後の所謂ワイマール時代のドイツはきちんとした民主主義国家であった。ワイマール憲法は主権在民、三権分立、議会制民主主義をうたった画期的なものだった。

  その民主的な選挙で1932年、ヒトラーのナチス党が第一党となった。その後もドイツ国民は常にヒトラーを支持した。1936年に非武装地帯のラインラントに進駐した時は98%、1938年にオーストリアを併合した時は99%が国民投票で支持したのです。

  ヒトラーは独走したと言うより、(その神懸り的な弁舌で)国民をうまく扇動して、その圧倒的支持のもとに行動したのです。民主主義、すなわち主権在民を見事に手玉にとった、稀有の手品師であった』と、藤原氏は言いきっている。

  タイはドイツのような全体主義的独裁国家にはなっていないにしても、大衆迎合的経済政策に踊らされて、タイの民主主義が結果的に強大な半独裁政権を許したと言う点に於いて、ヒトラーの民主主義の比喩に似た結果を招来していたと言えないだろうか?

5.終わりに

  今年受け取った年賀状の中で、何時になくタイ国の現状を憂慮する言葉が目立った。「困ったものですね」、「タイは一体何処に向かっているのですか?」とか「微笑みがなくなりましたね」等々の言葉である。これらはみな、何がしか私が関わっているタイの昨年の混乱状況を憂えて心配してくれているものである。

  しかし、97年憲法が小選挙区比例代表制を導入したことが、大政党の誕生を可能にしタクシン政権を強大にさせ過ぎたことを反省し、新憲法では選挙制度を旧来の中選挙区にしたので、極最近のタイの政治環境は一党で過半数を制することは難しくなっている。

  また、今年になって実施された下院補選でタクシン元首相派は惨敗し、民主党政権が議席数を増やして、政情は若干安定して来た感がある。タイ好き人間の一人として、タイが一日も早くもう少し民度を上げて真の民主主義が根付く国家に成長することを願う者である。


(元富士通タイランド社長)