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バックナンバー 2009-07

「日・タイ随想」

No.34 2009/7/01

タイ人の姓名表記

JTBF会員:奥村 紀夫
2009/7/01

  「ギョエテとは俺のことかとゲーテ云ひ」という有名な川柳があります。明治時代、西欧の文物が堰を切ったように流れこんできた時代、それまでになかった概念を表す必要から盛んに和製漢語がつくられたのもこの時期。文化、文明、民族、法律、経済、主観、客観、等々今ではすっかり日本語の中に溶け込んでいます。同じ時期、外国の地名・人名をどのように表記するか、おおいなる混乱があったことは想像に難くありません。Goethe、今でこそ日本語に訛ったゲーテが定着しているようですが、この川柳が作られた頃は色々な表記が試みられていたものでしょう。

   なにしろ日本語の狭い音域に当てはめきれない外国の地名・人名ですから、土台カタカナで正確に書き表すのは無理。当然ある表記基準が設けられているものと思っていました。平成3年の内閣告示第二号がそれに当たるのかもしれませんが、実際はかなり表記のゆれを認めたものになっています。また2008年NHKのガイドラインでは、「外国語、外来語や外国の地名・人名などの表記は、それぞれのことばの日本語化の程度を考慮して、原則として、カタカナを使用し ①原音とは異なる慣用が熟しているものは、慣用の形を尊重する。②慣用が熟していないものは、なるべく原音に近く書き表す。」と記すにとどまっています。一方テクニカル協会が、これも2008年にまとめた外来語表記ガイドラインがあって、これはテクニカル・ライティング(カタログやマニュアル)を対象としています。かなり具体的できめ細かく規定しています。マニュアルなどは一歩間違うとPL問題に発展しますから、無理からぬことでしょう。

   いずれにせよ、今でも明治の混乱がすっかり収まっているとは云えない様子です。また、外国といっても大体が英語圏を念頭においているのは、やむをえないことかもしれません(漢字を共有する中国、韓国は別として)。タイ語となったらどうなることやら。「慣用が熟している言葉」もそんなにあるとは思えないし、「なるべく原音に近く書き表す」といってもそう簡単に問屋がおろすものかどうか・・・。

   前置きが長くなりましたが、さてそのタイ人の人名。タイに一寸でもなじみのある人はよくご存知のように、タイ人は姓ではなく名前で呼び合う慣習があります。姓で呼び合う日本とは一寸違うカルチャーです。姓で呼ぶのはあまり聞く機会がありませんが、勿論公式の場や公式の書き物には、名前と姓の両方がフルネームで使われます。一般に長い姓が多く、それでもタイ人は3~4音節でサラッと発音するので、どうしてそんな簡単に発音できちゃうの?と不思議に思うと同時に真似しようにも舌がついていきません。「ああ、名前だけでよかったんだ。」とホッと安心するのはこんな時です。

   名刺にも名前・姓が書き込まれています。その名刺ですが、片面に日本語が書き込まれていれば、本人がそのように読んで欲しいという意思表示ですから、迷いは生じません。しかし、片面がタイ語もう片面が英字表記のことも多々あります。タイ文字が読める日本人は例外として、だいたいが英字表記をもとに発音したり、カタカナ表記をすることになります。

   例えばこのホームページの「JTBFの案内」を見ていただくと、顧問になっていただいているタイ人名が出ています。筆頭はスウィット駐日大使です。これを英語版でみると、姓は[Simaskul]、長くはありませんしそのまま[シマサクン]とカタカナ表記できる例です。ただいくつか特徴があって、母音を伴わない[s]は[sa]と発音されることがあります(この場合がそうです)。よほど英語が達者なタイ人でも「Steak」を「サテーキ」と訛るのを聞いたことがあります。また最後の[L]を、タイ人はこれを[ン]と発音します。いい例があります。バンコクにある老舗の高級ホテルが、オリエンタル・ホテル。タクシーに乗って「Hotel Oriental !」と云っても通じると思いますが、通じない時は「ホーテン オリエンン!」と呼ぶことです(タにアクセントが移るのもタイ風特徴)。これも、タイに一寸なじみのある人には常識かもしれません。・・・とは云うものの[シマサクル]とか「シマスクル」と発音する人がいても無理からぬところ。そんな時でもタイ人は「それは違う!」などとは絶対云わず、軽く聞き流すだけでしょう。

   ちなみに、最後部に[kul]の付く姓をよくみかけます。タイは大陸と陸続き、日本のように単一民族とはいきません。そして圧倒的に多いのが、中国人を祖先に持つタイ人です。このことは、同じくこのホームページの「タイ国の社会構造」に詳しくのっています。姓の最後に[kul]が付いていたら大体中国系です。ただし逆は必ずしも真ならず。

   さて「JTBFの案内」に戻って、名誉顧問にサティット元BOI長官の名前がみえます。バンコクでお世話になった日本人ビジネスマンも多いと思います。長官時代何度も日本に来られていますから、なじみの方も多いと思われます。ただ姓まで覚えておられる方がどの位おられるものか。まず「JTBFの案内」英語版を先に見てみると[Chanjavanakul]です。実は本サイトでもこの英字表記に準じて[チャンチャワナクン]と表記していた経緯があります。しかし最近JTBF事務局がBOI東京オフィスのタイ人スタッフに問合せたところ、タイ語の発音は[チャンチャオクン]だと云う。語頭の[チャン]と最後の[L→ン]は共通としても、両者随分隔たりがあります。どうしてこうも違うのか。以下は色々詮索してわかったことです。

   タイ文字には黙字符号と云って、文字としては書かれていても黙字符号をふって発音しないものがあります。名前だけではなく色々な単語のなかにパーリ・サンスクリット語の痕跡を残しているものがたくさんあります。その部分を今は発音しないので、黙字符号をふるわけです。英語からの外来語でも部分的に黙字符号をふって発音しないところがあったりするそうです。・・・という訳で[vana]はその黙字符号がふられている部分。それが分かると、段々[チャンチャオクン]に近づいてきました。[ja]の部は[chao]と英字表記できる筈ですが、黙字部分が読まれた場合に備えて滑りをよくしたのかもしれません。以上のいきさつを踏まえて、「JTBFの案内」ではBOI東京オフィスのアドバイスに従い[チャンチャオクン]と表記することにしました。

  黙字符号は名前の部分に付くこともあります。スウィット駐日大使、英字表記では[Suvidhya]。これも最後の[ya]の部分に黙字符号がついています。

   黙字符号を無視してまで、元字に拘って英字表記する心理はどんなものでしょうか。しかし日本人でも、齋藤、斉藤、発音は同じでも齋藤さんにとってはやはり[齋]でなければならないでしょうし、渡邊さんにとって[渡辺]では「誰のこと?」と云いたくなるでしょう。それと近いのかもしれません。外国人が英字表示を黙字部も含めてそのまま読んだらどうなるか、想像がつくというものですが、それはそれで構わない、と割り切っているのかもしれません。幸い駐日大使は、スウィット大使で定着しているのではないでしょうか。英字表記に基づいてスウィッダヤ大使と呼ぶ人は、おられたとしても少数派だろうと思います。また最近の若い人は、黙字部分を切り捨てた英字表記で済ます人も増えてきているそうです。

   タイ字を英字に置き換えるときも工夫があるようです。例えば、誰々さんと呼ぶときの「さん」に該当するタイ語は[クン(Khun)]。それとバンコクの別名[クルンテープ(Krungthep)]、[K]の後に[h]を付けるか付けないかでタイ文字の違いを表そうとします。しかしカタカナ表記では区別しない形で定着しているようです。カタカナのタ行に相当する字も微妙です。[タウィー]さんというタイ人名。カタカナだったら表記がゆれても[タヴィ-]さんと書く程度。英字表記だと Dawe、Dawee、Dhawee、Dhavi、Dhavee、Tawee、Thawee、Thavi、Thavee、Thawi なんとダイレクトリーに10種類の表記をした例があるとのこと(戦中外務省より語学留学生として派遣された安藤浩さんが冊子「タイへ行く前に」の中で紹介しています)。まさしく冒頭ギョエテの川柳のタイ版ができあがりそうです。

   この際語尾は措いて語頭だけ取り上げても、タイ文字の違いに対応して、D、Dh、T、Th の4種類が使われています。これをカタカナにすると全部[タ行]の[t]になってしまうわけです。前述スウィット大使の[Suvidhya]も、黙字部[ya]を除き、[dh→t]となることでようやく得心がいきます。

   英字では区別しようがないタイ字もあります。チュラロンコン大学の[Chulalongkorn]とチェンマイ[Chiang Mai]、どちらも冒頭字に[ch]があてられていますが、タイ語では字も違うし発音も違うそうです。英字でも区別できないとなると、ましてカタカナではどうにもならない世界、とあきらめるしかなさそうです。

   外国語と日本語と、偶然発音が似ている語があったりします。意味が違うことから珍話が生じますが、タイ語にもそんな例が色々あるようです。新井さんという方がいたとします。
  タイ人 「お名前はなんと仰るの? [チュウ アライ]」
  新井さん 「新井です。[チュウ アライ]」
タイ語で [アライ] は英語の [what] に相当します。新井さんは真面目に応えたつもりでしょうが、タイ人は 「チュウって何のこと?」と受取ったに違いありません。会話に齟齬をきたしてしまったという話し。

   この手の話題は長いことタイに駐在された方々には、必ず一つや二つおありかと思います。是非、admin@jtbf.info までご紹介いただければと思います。またの一文にとりまとめてみたいと思っています。

   始めてお会いした人と名刺を交わす時、「おや、珍しいお名前(姓)ですね。ご出身はどちらですか。」という具合に、話しがはずむことがままあります。タイ人と名刺を交わす時でも最初の印象には気を使うもの。相手は名前だけを言うかもしれません。そんな時、フルネームを訊いて見たらどうでしょう。英字表示とどうも発音が違うようだったら、[silent letter] などという言葉をさりげなく織り込んで、聞きただしてみるのも面白いかもしれません。そんなことから、打ち解けた会話に発展すればそれも一興というものです。

   最後になりますが、ご尊名を俎上にのせさせていただいたスウィット大使、サティット元長官にはお詫び方々お礼申し上げます。またJTBF事務局長はじめ有志の方にご協力いただきました。ありがとうございます。


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