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バックナンバー 2009-10

「日・タイ随想」

No.37 2009/10/01

タイの諺考

JTBF会員:吉田 研一
2009/10/01

タイにもいろいろな諺があり、日本の諺と同じようなものも沢山ある。例えば

①「井の中の蛙」は「kop(蛙) nai(中) kalaa(半分に割った椰子殻) khroop(蔽う)」で「半分に割った椰子殻の中の蛙」

②「猫に小判、豚に真珠」は「yuun(差し出す) keew(宝石) hai(与え) waanoon(猿)」で「猿に宝石をあげる」と「ling(猿) dai(得る) keew(宝石)」で「猿が宝石を持つ」の二つがある、タイでは猿は豚や猫よりも物の価値が判らない動物のようである。

③「壁に耳あり、戸に目あり」は、そのものずばりの「kampeeng(壁) mii(有る) fuu(耳)  pratuu(戸) mii(有る) taa(目)」である。

④「泥縄式」または「泥棒を見つけてから捕らえる縄を綯う」は「ua(牛) haai(逃げる) loom(囲む) khoop(柵)」は、「牛が逃げたので、柵を囲う」となり、事件が起きてから解決にかかる「泥縄式」と同じである。

その他にも日本と類似の諺はあるが、ここではタイ独特と言える諺について書いてみたい。


Ⅰ 格差社会容認?

「fon(雨) tok(降る) mai(~しない) thua(全体) faa(空)」と言う諺がある、これを直訳すると「雨は空全体には降らない」である。

タイではバンコックの中心部では雨は降っていないが、バンナー付近は降っていたとか、極端な場合にはシーロム通りは晴れているのに、スクムヴィット通りの番地が大きい方面は雨が降っている、といったケースに出くわすことが多い。

この諺は文字通り解釈すれば、タイの雨の降り方は面ではなく点で降ることを表現しているが、真の意味は違っていて、「雨が全地域に一様には降らないのと同じように、世の中は不公平なことはいくらもある、公平ではないことは当然存在する、そこは我慢しなければいけない」と言う場合によく使われる諺だと、以前タイ人に教えてもらった。

例えば、近所からお菓子をもらったが、数が少なく子供達全員に分け与えることが出来ない場合などに母親は年上の子に「fon tok mai thua faa」だよ、あなたはお姉ちゃんだから我慢しなさいと言うらしい。

日本では近年野党議員が自分達の年俸は棚に上げ、日本は政府の悪政で格差社会になったと政府を攻撃しているが、タイ社会の方ははるかに身分制社会、格差社会であるが、今まで国会議員は勿論一般の人々も格差会、不公平については表立って騒いでいない。

「fon tok mai thua faa」は世の常よ、と言って諦めているのか、我慢しているのか本心はわからないが、格差社会がまかり通っているのには、この諺がその役割の一つを担っているのかもしれないと思う。

タクシン元首相は経済政策とともに、タイ発展のためには貧困にあえぐ農民や都市部の低所得層の待遇改善が急務だと、農民を始め低所得層には30バーツ医療や借金の返済延期や資金の貸付を行い、地方発展のために一村一品運動も展開した。

この政策はポピュリズムと批判はされたようだがその成果は大きく、懐が少しはよくなった農民達に消費意欲を持たせ、無関心だった政治を意識させたのは事実であろう。

一方、これら低所得層の上に成り立って、生活をエンジョイしている特権層や中間層は、農民達低所得層の台頭は自分達の安定した地位と特権を失わせかねないので、陰では反タクシンであった。

タクシン元首相が軍のクーデターで追放された表向きの主原因は元首相の汚職だとか、王室軽視とか言いわれてきた。しかし、本当は特権層が今までの特権を維持するため、身分制社会、格差社会を維持するために、変革を主張するタクシン元首相の追放に裏で加担している、とタイ社会上層部に属するタイの友人がクーデタ前の首相批判が続いていた時期に教えてくれた。農民や都市低所得層と一緒にされてはかなわないと言うことである。


Ⅱ 鋭い観察力と深慮遠謀?

「kai(鶏) hen(見る) tiin(足) guu(蛇)  guu(蛇) hen(見) nom(乳房) kai(鶏)」直訳すると、「鶏は蛇の足を見、蛇は鶏の乳房を見る」である。

蛇には足は無いし、鶏にも乳房は無いので実際は見えないけど、それを見ていると言うこのこの諺の意味は「あなたの秘密や隠れた意図は先刻承知しているよ、隠したって駄目よ」という意味である。

表に見えないところまで観察して相手の意図を十分にわきまえておき、相手に騙されてはいけないことを諭している諺である。

日本では深慮遠謀で構えてかかる人は態度や顔に現れやすいので、一般に嫌われがちであるが、タイ人は表情は淡々として明るいが「kai hen tiin guu guu hen nom kai」のように、胸の中で「あなたが考えていることはお見通しよ」とこられた,なんだかこちらも構えたくなる。

去年タイの救国王と言われているアユタヤ時代のナレスワン王を描いた映画「ナレスワン大王」(1部と2部で約6時間)を見たが、群雄割拠する小王国間及び王朝内での陰謀と裏切りが頻繁に起ったが王はそれを巧みに乗り切っていた。

日本の歴史でも権力者の陰謀と裏切りの繰り返し歴史と言える思うが、西欧列強の植民地化時代にタイは西と南はイギリス植民地に接し、東と北はフランス植民地に接して常時植民地化の危機に晒されながらも、少しずつ領土を割譲して領土を守り通し植民地化の危機を巧みな外交交渉で避けてきたし、大東亜戦争では日本と同盟国でありながら冷静な状況観察と深慮遠謀により事前事後に巧みに立ち回り、タイは敗戦国の立場から逃れたというのは以前からよく言われている有名な話である。タイ人は日本人には見えない「鶏の乳房を見つけ、蛇の足を見つける」ような鋭い観察力や、先見の明、深慮遠謀を日本人よりも持っていたためであろうと納得している。「kai hen tiin guu guu hen nom kai」と言う諺の存在も理解できるというものである。

諺ではないがタイ語の表現に「yim(微笑み) saiam(サイアム)」がある、文字通り有名な「タイの微笑み」である。タイの若い女性に「タイの微笑み」をされると、男たるものドキッとする。「タイの微笑み」は品のよい、しとやかな微笑みで、外国人に対するタイ人の親切で寛容な性格を現しており、タイ人の誇りとされている。

しかし、タイ語の先生にこの「yim(微笑み) saiam(サイアム)」にはもう一つの別の意味があると教えてもらった。それは「yim(微笑み) toosuu(戦う) sua(虎)」の、「微笑み」でもあるとのことであった。 「虎と戦う微笑み」、すごい「微笑み」である。

交渉のテーブルでニッコリ笑ってはいるが、心の中ではどうやってこの相手を料理しようかと、深慮遠謀を巡らせていたのかと思うと、思い当たらないこともないではない。「kai hen tiin guu guu hen nom kai」とともに奥の深い諺である。


Ⅲ 年功序列の敬老社会?

「deentaam(付いて行く) lang(後ろ) phuuyai(大人) maa(犬) mai(~しない) kat(咬みつく)」直訳すると、「大人の後を着いていけば犬は咬みつかない」で、「大人は子供より社会経験も多く、知恵もあるので、大人の言うことを聞いていれば間違いは起きない」という意味の諺である。

この諺のように一般にタイでは年長者は尊敬され、挨拶の合掌(ワイ)でも目下の者は先に顔の前まで両手を挙げてワイをし、頭を下げなければならないが、それを受ける目上の人は両手を胸の前まであげてワイを返すが、目下の者には頭は下げなくてよいことになっている。年長者の横を通るときは、背筋は伸ばさずに少し曲げてそっと歩いていくのが礼儀とされているほどで、年長者に対する尊敬の表現は日本以上である。年長者が床に座っているときは、匍匐してワイをしなければならない、要するに自分の頭は年長者の頭より低くしておくのが礼儀とされている。

会社でも私がいた頃までは年功序列が優先されており、人事評価では能力、業績とともに年齢もそれなりに考慮する必要があると言われていた。文字通り年功序列社会である。このように年長者は厚く散り扱われているが、「phuu(人) taw(老いる)」「老人」になると、タイの諺はあまり芳しくないので、理解に苦しむ。

まずは諺「taw(老人) fua(頭) guu(蛇)」、直訳は「蛇頭の老人」と言うことになるが、これだけで嫌な感じがする。諺の意味は「欲情面で、詭計、謀略、計略でもって若い娘を誑かす老人」のことであり、やはり嫌な意味であった。

もう一つ「khoo(牛) kee(老いた) choop(好き) kin(食べる) yaa(草) oon(若い)」、これの直訳は「年取った牛は若草を好む」なので、牛も年取って歯が悪くなったのでは仕方がないか、と思うがそんな呑気な意味ではない、この諺の本当の意味は「老人は小娘を好む」である。

年功序列で敬老社会のタイと思っていたが、これらの諺を知って「大人」まではいいが「老人」になるとタイでは敬老ではないようで、老人は印象よくないのかな?と心配になってきた。タニヤのカラオケ店の前で客を呼んでいる若いホステス達が年寄りをこのような目で見ていると思うと、「phuu taw」になった身としてはタイヤ街は歩きにくくなる。


Ⅳ 女性の地位

最後にもう一つ。

最近のタイではは日本社会よりはるかに女性の社会進出度は高いが、数十年前までは教育も受けられず男性より地位は一段と低く、自分の人生は何も自分では決められなかったらしい。女の子は勉強させてもらえず、字が読めても“薬入れのラベルが読めればそれで十分”(必要なだけ読めればよいと言う意味)と長い間言われていたらしい。女に生まれると、子供の時は親の言うことを聞き、躾は男の子より厳しく指導訓練され、年頃になると親が結婚相手を決め、結婚したら夫に従い、夫に妾と一緒に住まわされても文句はいえず、歳をとったら末っ子の子供に面倒を見てもらわなければならなかったようである。

「phuuchaai(男) mwan(同じ) chaang(象) thaawnaa(前足)  phuuying(女) mwan(同じ) chaang(象) thawlang(後足)」の意味は「男は象の前足、女は後足」で,「男が指導者で女は追随者」と言うことになる。

「khrum(被う) thung(袋) chon(衝突する)」と言う諺があるが、直訳は「袋を被って衝突する」である。これだけでは何のことか判らないが、意訳をすると「袋をおっ被せて掛け合わせろ」である。つまり「本人同士は会ったこともないない男女をやぶから棒に強制的に結婚させる」である。

あまり遠くない昔には日本でもあった親同士が勝手に決めていた結婚なので事柄そのものは珍しくはないが、タイでは夫は気に入らなければ妾が持てたろうが、それも出来ない女性側にとっては特に気の毒な事である。

そう言えば日本でも昔は結婚当日まで相手をお互いに知らなかったとか、「三行半」と言う言葉もあったようなので、五十歩百歩ではある。「khrum thung chon」とは、乱暴な言い方であるがタイ語独特の言い回しで簡潔にして妙を得た諺なので取り上げてみた。


列挙したタイの諺には「鶏の乳房を見る、、」、「虎と戦う微笑み」など気になる諺ではあるが、仕事を卒業した者にとってはもう無縁である。

我々が日頃接しているタイ人達は穏やかな心の持ち主で、お互いに相手を尊敬しあっている友人達であると信じて、これからもお付き合いしていきたいと思っている。


(元バンコック日本人商工会議所理事、元三井東圧化学タイランド社長)