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バックナンバー 2010-01

「日・タイ随想」

No.40 2010/1/01

プミポン国王陛下とメガネ拭き

JTBF会員: 佐藤 満
2010/1/01

1985年から1990年の5年間をバンコックで過ごす事が出来ましたのは、大変幸運であったと思っております。

二度目の駐在生活は、ブラジルのサンパウロ時代(1974-1979)から数えて6年振りで、友人からもBBコネクシオン(BRAZIL-BANGKOK)と言われて、海外駐在地で住みやすい場所として見られてるバンコックであった事が、私にとって幸いであったと思っております。

当時発足7ヶ月目の二代目社長としてホンダの現地法人-ホンダカーズタイランド(HCT)の社長として赴任したのは、本社で課長になって一年後の42歳でありました。ホンダ本社の中近東部に在籍をしておりました私は、突然の転勤の辞令を受けた時は、別の部であるアジア営業部内の設立ほやほやの、乗用車を扱う「ホンダカーズタイランド(HCT)社」の存在も知らないほどの、まさに社内でも無名の会社でありました。

その一方、ホンダのオートバイはアジアホンダとして、ホンダが一番最初に海外進出したのがタイと歴史も知名度もかなり高く、表現は悪いのですが「オートバイがまさにゴキブリのごとく」タイの都市から田舎の隅々まで縦横無尽に闊歩していましたが、私が担当した乗用車の方は、タイ市場での最後発メーカーとして滑り込みでタイ市場に参入し、工場もバンチャンゼネラルアッセンブリー社の一部を借りた委託生産、間借り、手造りで「アコード」と「シビック」を日産2台から5台を組み立てておりました。手造りの工場も私にとって見るのも初めてでしたし、工揚やサービス、部品部門までの関与も初めての事でした。小組(しょうくみ)から溶接も全て手動、組み立て中の車の移勣は手押しの台車、塗装も手動ガンで乾燥ブーツも観音開きの初歩的な設備でした。

一方販売の方は、タイ市場進出最後発と言う理由もあったのでしょうか、ホンダでは初めての販売店を経由しない直販ショウルームが一店舗で、場所はシーロム通りと交差するスラサック通りに、車を2台展示すると一杯になる小さな店舗が一か所しか無い、まさによちよち歩きの立ち上がりでした。

隔世の感がありますか、オートバイとは比べ物にならない程、ホンダの乗用車の知名度や認知度は低く、ほとんどのタイ人はホンダが乗用車を販売している事さえ知らない状況でありました。ショウルームは日曜日以外は週6日間オープンしておりましたが、お客様の来店はほとんどなく、まさに閑古鳥が毎日鳴いている様な状況でした。

本社で一年だけ課長職を経験しただけの低次元の私は、ホンダ乗用車が売れない理由を、取り巻く環境のセイにしり、タイの低迷する経済状況を理由にしたり、HCTの歴史の短さの理由にしたり、まさに「環境、他人責任論者」でありました。

少し古い資料をひもときますと、私が赴任した前年の1984年のタイにおける乗用軍市場は、年間販売台数が僅か31,600台でしたが、赴任した1985年には1984年暮のタイバーツの切り下げもあり、前年比マイナス30%の22,000台と大幅にダウンし、1986、1987年と市揚低迷の時代でありました。ちなみにホンダ車の販売台数(1984)は僅か786台(シェアー2、5%)でありました。

私は業績の悪化にもがき、「ホンダの車が売れない事惰は市場環境にあるから仕方が無い、環境、他人責任論」と、心底思っておりましたが一念発起して、経営とは?リーダーシップとは?業績向上とは?社員のやる気とは?とかを勉強し始めた訳です。特に生産は比較的計画通りなのに、販売が計画通り進まない在庫過多の状況が、営業も兼ねる新米社長を苦しめ始めた訳です。

そして100冊近くの経営書やマーケッテング書を通じて、先人から実に多くの教えを頂きました。それらの中で特に印象に残る言葉を挙げると:例えば

  1. “環境を理由にした時から成長は止まる”
  2. “経営とは変化に対する対応業:すなわち環境適応業である”
  3. “与えられた環境を是として実績を挙げるのが良いリーダーである”
  4. “業績格差=戦略格差=経営者、リーダー格差である”
  5. “チャンスは貯金出来ないし努力は人を裏切らない”
  6. “幸運の女神は準備をした人にのみ微笑む”
  7. “経営-事業-とはお客様を増やしてゆく事である”
  8. “三現主義-現揚、現物、現実と三識-意識、知識、組織の大切さ”
  9. “良いアイデアは心底考えた抜いた人にのみ与えられる特権である”
  10. “他社との差別化とナンバーワン、オンリーワン戦略”

等「勝利の方程式」と考えられた言葉の数々でした。

そのような中で私が考えたのは、ホンダ乗用車のブランドイメージをどう向上させるかでした。オートバイのお客様は決して高額所得者ではありません。ホンダ車のイメージは正直なところ決して高くは無い中で、いかにホンダ乗用車のブランドイメージを高め、高級車の仲間入りをさせる事が私の大きな経営課題であった訳です。そこで考えた一つがロイヤルファミリーヘの接近策でした。

ロイヤルファミリーの方々がホンダ車をお使い頂けれぱ、ホンダ車のイメージが上がるのではないか?と考えた訳です。特に国王陛下がホンダ車をご愛用して頂ければ、と(とらぬ狸の皮算用)の発想に及びました。

タイ駐在中に国王陛下に3回のご謁見をさせて頂きました。最初の機会がホンダアコードのご献上の機会でした。王室財産管理局=CROWN PROPERTY BUREAU を通じて初めて宮殿を訪問しプミポン国王陛下ご臨席の場でのご献上です。

私は緊張で前後の経緯はあまり覚えていないのですが、国王陛下の御顔を拝顔させて頂くと、陛下のメガネが大層汚れている事に気がつきました。

国王陛下から声をかけて頂き、ご献上式は僅か10分ぐらいで終わったと思いますが、その後しばらく陛下のメガネの汚れが大変気がかりになってしまいました。タイ国民からあれだけ慕われておられる陛下のメガネを誰が拭くのだろうか、もちろん大変暑い国ですからメガネは常に拭いていないと汚れます。

そこで当時発売された人気のあるメガネ拭きを日本から数十枚取り寄せ、王室財産管理局のドクターチラユ長官に「プミポン国王がお掛けになっているメガネが曇っているようこ見えました。今日本で好評のメガネ拭きを取り寄せました。長官が先ずお使いになって、気にいって頂ければ陛下にお渡し下されば幸甚です」とお願いをいたしました。幸い長官も気にいって下さり、そのメガネ拭きは無事プミポン国王陛下にお届けする事ができました。何日かして国王陛下の「個人秘書」からの電話を頂き、陛下も大変喜ばれておられるとのお言葉を頂きました。

国王陛下に御献上したその年の陛下のお誕生日に、陛下ご自身がアコ-ドの運転席に乗られ宮殿から移勣されるお姿を、タイの多くの皆様がTVを見られたことが、急激な販売増加に繋がったと思っておりますし、その後のタイに於けるホンダ車の人気は、私の後を引き継いだ皆様の大変な努力とタイの消費者の強いバックアップもあって、極めて順調に発展している事実を知って大変うれしく思つております。

最後になりましたがプミポン国王陛下のご長寿を心より願っております。ありがとうございました。


(元ホンダカーズタイランド社社長)