Logo of JTBF
トップ・ページ  バックナンバー・リスト
文字サイズ: 

バックナンバー 2010-04

「日・タイ随想」

No.43 2010/4/01

タイのメディカル・ヘルスツーリズムに学ぶ

JTBF会員: 舘 逸志
2010/4/01

  タイに赴任していたのは、二度の好対照の時期でした。一回目は、プラザ合意後のタイの高度成長期後半に当たる1991~94年に大使館勤務を経験しました。二回目は、アジア通貨危機による不況期とそこからの回復期である1998~2001年にNESDB(国家経済社会開発庁)のアドバイザーとしてタイ政府で勤務しました。

  最初の時期は、タイの人たちが高度成長とバブルを謳歌し、自信に漲っている時期でした。丁度、インドシナ和平が進展し、戦後日本の外交史の中でも傑出した役割を日本政府が果たしている時期で、初代のインドシナ開発担当書記官として、大変エキサイティングな経験をさせていただきました。

  当時、タイへの赴任では、家族の健康管理が赴任前の妻子にとって心配事でありました。しかし、実際に赴任してみると、タイの医療機関の水準は大変高く、生後4ヶ月で連れて行った長女も現地のサミティベ病院で大変親切に世話していただきました。

  次女の出産の際には、同病院において、通常のベッドの他、小さなプールやマットなどが用意されただだっ広い産室に吃驚しました。また、助産婦さんの水準の高さに感心した記憶があります。

  次女がこめかみを数センチ切った時にも、夜間救急で対処してもらった医師の縫合技術の高さに感心しました。お蔭様で、次女の傷は全く分からない状態で、娘を持つ親の身としては、タイの医療に大変感謝しています。

  その当時、既にタイは観光が最大の外貨獲得源として一大産業となっており、アンダマンの真珠、プーケットに加えてココナッツアイランド、サムイ島が脚光を浴び始めている頃でした。そして、王室の避暑地で有名なフアヒンにはチバソムという東南アジアで初といってよい本格的なヘルスリゾートが開設されたところでした。

  近年メディカル・ヘルスツーリズムへの関心が高まっています。メディカルツーリズムとは、安価でより質の高い医療を求めて、海外での治療や入院を選択することです。2006年に医療を受ける目的でアジアを訪れた外国人旅行者は180万人、市場規模は68億ドルに達したとされています。タイは、90年代に入ってから急速にヘルスツーリズムが発展し、更に、21世紀に入ってからはメディカルツーリズムに戦略的に取り組んできました。

  友人の多摩大学真野教授の近刊グローバル化する医療(岩波書店2009年)では、メディカルツーリズムの実態を各国医療制度との関係で分析しています。同書によれば、治療目的の医療を海外で受診するための旅行がメディカルツーリズム、スパやエステなどの健康サービスを享受することを主体とした旅行をヘルスツーリズムと呼んでいます。その中でも、タイが最も戦略的にメディカルツーリズムを展開している国として紹介されています。元々、真野教授はシンガポールへの海外医療実態調査を継続しておられました。その先生と知り合って、タイの外国人向けの医療の戦略的な展開を紹介したところ大変興味を持たれ、タイの医療関係の知り合いを紹介しました。それ以来、真野先生の海外医療調査団は毎年タイ、シンガポールに行かれるようになった経緯があります。

  同書では、医療の供給側である新興国と需要側である先進国の観点から、メディカルツーリズムが増加している原因を考えています。供給側は、産業政策の一環としてメディカルツーリズムを推進しています。メディカルツーリズムの振興は、医療産業の発展と観光振興による外貨獲得が第一義的な目的です。海外向けとは言え、高度な医療が発展すれば、国内の富裕層もその医療サービスの恩恵にあずかりますし、貧困層は高度医療は受けられないにしてもサービス輸出の増大による国家的な所得向上から間接的に裨益します。ただし、医療資源が外国人に優先的に使われてしまうことにより自国民向けの医療サービスが低下することも懸念されます。タイにおいても、チュラロンコン大学等大学病院の医者が私立病院でのアルバイト勤務のために診療時間が限られる例等が見られます。

  需要側としては、新興国の医療が費用対効果の関係で比較優位があったり、特定の疾患に対して特に腕の良い医者がいる、国内の医療機関への受診に制約がある、治療のみならず同時に観光を楽しめるなど付随サービスの魅力、などがメディカルツーリズムへの誘因になります。民間医療保険中心の米国では、民間医療保険団体がコスト節約のために低コストの海外での治療を推奨している例もあるようです。英国では、専門医による高度治療を受けるための待機期間が長く、迅速な受診のために海外医療機関での治療を選択する例があるようです。タイに最も多くメディカルツーリズムに訪れている中東産油国の人々は、国内の医療水準とともに、ビザ取得の容易さや付き添い家族の観光・滞在面での魅力でタイを選択しているようです。

  日本人が海外へ治療に向かうのは、今のところ主に臓器移植やスポーツ医療のような国内で十分提供されていない高度治療や美容整形が中心となっています。日本からタイへのメディカルツーリズムについても、性転換手術のような特殊なものや観光も兼ねた美容・審美治療に限られているようです。これは、日本の医療保険制度が色々な問題を孕みながらもそれなりの水準の医療を公平に提供しているためと考えられます。また、医療保険制度は、原則海外の医療機関も対象としているものの、診療報酬制度による金額的な制約と翻訳・証明書などの手間ひまが海外での利用を不利なものにしているのも事実です。

  ヘルスツーリズムについては、タイでは伝統医療としてのマッサージが安価に受けられることが大きな要素となっていました。これに、伝統的なハーブの利用、デトックス、スパといった要素が付け加わって、2000年代以降は大変なブームになっていたと思います。その代表格としては、フアヒンにあるデスティネーションスパのチバソムなどが挙げられるでしょう。ここでは予約チェックイン時のヘルスチェックから食事、運動療法、各種トリートメントのプログラムを設定して、2,3週間の滞在中に心身ともに健康になる生活スタイルを提供しています。

  さて、このような海外のヘルス・メディカルツーリズムが日本でもこのところ話題となっています。それには日本自身に求められている産業構造の転換や地域活性化といった課題があるからです。現在、日本では、これまでの成長を牽引してきた製造業の空洞化が深刻な問題となってきています。また、一層の少子高齢化の進行やグローバルなインバランスの解消といった課題にも対応しなければなりません。今後の国内需要の拡大を考えると健康・医療サービス分野が最も有望な分野です。こうした中で、これまで規制や社会保障制度の制約で十分なサービス業としての発展を遂げていない国内の健康・医療産業の発展が求められているわけです。昨年末に纏められた日本政府の成長戦略基本方針でも健康・医療分野は戦略産業とされています。

  これまで政府の措置・社会保険制度に基づいて提供されてきた育児、介護、医療等の健康関係サービスは、消費者ニーズに即した市場メカニズムが十分働いていませんでした。その結果、提供者側のコスト低減努力や消費者ニーズへの対応が十分出来ておらず競争力に乏しいと言えます。こうした産業を今後発展させていくためにはどうしたら良いでしょうか。このためには、何よりも健康・医療サービス産業に市場メカニズムと競争原理を導入することです。第一の手法は、自由な市場メカニズムが機能している健康・医療サービスとの切磋琢磨が必要です。その点では、タイのメディカル・ヘルスツーリズムは非常に良い参考となると言えます。

  タイでメディカルツーリズムを展開しているのはバンコクホスピタル、バムルンラート病院などの株式会社制の大病院です。ヘルスツーリズムの展開についても、各種の健康サービスが市場原理に基づいて自由に展開できるところやホスピタリティーにタイのヘルスツーリズムの強みがあります。日本でも海外からの患者受け入れによるメディカルツーリズムを展開していくためには、市場メカニズムを生かして消費者ニーズに即応したサービス産業の育成が鍵となるでしょう。そのためには、各種の規制や制度で細分化された専門職の集団が自身の集団利益の極大化を求めて政治的な足の引っ張り合いを展開するような市場では発展は望めません。

  日本の健康・医療サービスが以上のような専門職集団の自己利益を求める内向きの争いから消費者指向の市場メカニズムに基づく競争の中で産業として成長するためには、大きな発想の転換が必要です。そのためには、経営体としての株式会社等企業経営の導入を進めること、職種ごとの行為規制を現在の国際的な技術・サービスの提供実態に合わせて大幅に見直すこと、海外との競争を機能させるために保険適用の内外でのイコールフッティングを進めることが重要でしょう。

  例えば、日本の医療機関で圧倒的に不足している夜間看護を海外からの看護士の流入で解消します。供給過剰で慢性不況となっている国内の温泉と医療・検診サービスを一体運営した温泉検診を実施しアジアの富裕層のメディカルツーリズムによる地域振興を図ります。上記の経営・制度改革を進めて、健康・医療サービスが発展していく事が日本の将来にとっても重要ではないでしょうか。一寸怪しげでありながら、実にダイナミックに展開しているタイのメディカル・ヘルスツーリズムを横目に見ながら日本の現状について思った次第です。


内閣府