「私がおすすめするタイの旅」
☆☆私がおすすめするタイの旅(4)☆☆
タイ国北部の鈍行列車の旅
JTBF会員: 吉川和夫
2011/04/01
ピサヌロークからチェンマイ迄、昼間走る各駅停車の旅は思い出深いもので、My Best に挙げられる。この旅はバンコックに無いタイ的なものが凝縮されているような印象を受け、タイ国理解の出発点であったと思う。今から50年前のことだが、列車運行等は今でも余り変わっていないようである。
田園風景が続いていたピサヌローク迄と違い、列車は徐々山岳地帯に入る。薪をたいて喘ぎながら走るSL,プラットホームが無く標識だけの駅、雑多な物売り、車中の人々の服装、言語、メシの食べ方、又車窓から眺めるタイ的な風景等々、何を見ても珍しく楽しかった。出会った人たちの親切も忘れられない。
その魅力、等
- 初めてタイ国に赴任して半年後にやってきた1960年の正月休み。家族連れや、ゴルフ好きはそれぞれ小旅行を計画しており、ゴルフをしないチョンガ―ははぐれてしまった。今なら日本に帰る人も多いのだろうが、当時は内地の給料一年分を投じないと航空切符が買えなかった。
- バンコックは少し判って来たし、よし地方に行ってみようと思い立った。チェンマイへはDC-3が3往復する程度であった。急行寝台列車も満席であった。鈍行で行こう、男一匹なんとかなるだろうと実行したのが、結果として成功だった。ピッサヌローク迄は確か準急であった。同地の駅前で一泊し、翌日6.00発のランパン行きに乗った。1990年代の時間表を見ると1960年のものと殆ど変っていない。現在の列車運行も基本的には同じである。ランパンで後にくる列車に乗り換えチェンマイに行けばよいと了解していた。ランパン駅頭でぶらぶらしていると隅で5人程の若者がたむろしており、1人が何処へ行くのかと聞いてきた。かくしかじかと、たどたどしいタイ語で説明すると、それなら我が家に来て是非泊れとランパン名物の馬車に乗せられて連れて行かれた。大家族の紹介を受けた。娘が屋上でランパンの街の説明をしてくれた。親切だった。日本はどんな所でしょうか…と尋ねられたが上手く説明できなかった。空いていた離れに泊り、翌朝チェンマイに向かった。田舎の人達の純朴な親切に心から感激した。
- チェンマイでは歴史上の人物である大山写真館の大山老人に会い、チェンマイの概略を聞いた。街をサムローでのんびりと見て回ることも出来たが、バンコックの得意先の社長から、困ったことあれば、わが社のチェンマイ支店を訪ねよと言われていたので厚かましくその店を訪ねた。若い社員がジープを運転してドイステープを始め、各所を案内してくれた。親切な対応に心から感謝した。
- 帰りは夕刻チェンマイ発の夜行列車であったはずだが、記憶がとんとない。夜行列車はずーっと暗い中を走っており、景色が全然見えないから記憶が無かったともいえるが、この2日間に受けた人々の親切な対応によって感慨にふけっていたためと思われる。
- 翌年、又もチェンマイ行きを企画した。今度はバンコックから急行の一等寝台をトライした。18:00に出発して7:00過ぎにつくから暗い中を走っており、車窓の景色は楽しめない。然し想い出は残った。コンパートメントで畳一畳ほどの広さのベッドがあり、隣に専用のトイレとシャワールームがある。シャワーと言っても大きなカメに水が入れてあるだけである。バシャバシャと水を浴び涼をとるのである。後年噴き出すような面白いエピソードがあるが、一般に味気ない旅行である。
- 現在の様に観光資料もなく、スコータイやピサヌロークの街の事を知らなかったので同地の観光をしなかったが、仮に誰かが北部の鈍行列車の旅を計画するなら、スコータイ、スワンカローク、シーサッチャナライの観光と組み合わせるのが面白いだろう。ピサヌロークの街の散策も良い。タイ国で最も美しい仏像と言われチンナラ―ト像が安置してあるプラシイラタナマハタート寺院がある。この仏像のレプリカがバンコックの大理石寺院の像であると地の人は言う。寺院の前に有名な浮家がナーン川沿いに何軒も浮いている。近年の街の屋台では道路の片側で作ったパクブーンファイデーンを道路の反対側に高く投げてウエイターが皿で受け取って客に出すようなこともしていると聞いた。
- 旅行から数年後、私はピサヌロークに一年滞在することになった。種々の想い出が詰まった街となった。滞在理由は会社が受注した国営紡績工場の建設と運転に従事するためだった。工場完成後35年間、工場を訪問していなかった。或る時スコータイ訪問の帰途、時間の余裕があったため工場訪問を思いつき実行した。従業員の一部は我々が試運転のために採用した人達である。一日の操業終了時間であったから、多くの従業員が外に出てきた。眺めていたら、目ざとく見つけた1人が私を確認すると同僚を大声で呼んだ。集まった数人が涙を流さんばかりに喜んでくれた。誰々さんは元気かと操業指導にきていた人達の名前も次々と出た。35年間会ってもいなければ、文通したこともないのに、よくぞ名前を覚えていてくれたものと大感激した。若い娘はいいおばちゃんになっていた。このことを内地の関係者に伝えようとしたが、指導にきていた技師たちは紡績会社の定年直後にきてくれていたので、殆どの人が既に他界しており、感激を分かち合うことは出来なかった。残念だった。このことはMy Bestに関係ないが、鈍行列車の旅をMy Bestにする後押しをした。
了
(元タイ・トーメン社長)