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バックナンバー 2012-04

「私がおすすめするタイの旅」

イサーンのクメール遺跡群 その2

JTBF会員: 吉田研一
2012/4/01

第二日目

2-4 プラヴィハーン遺跡

スリンを出て国道226号線をシーサケットへ走る。この道は広くはないが人家も少なく田んぼの中を行くので車も少なく快適である。時々左右にクメール寺院の遺跡のような朽ち欠けた仏塔が時々通り過ぎるが、名のあるものかもしれない。林を開墾して田んぼにしたため木が田んぼの中に残っている所謂「産米林」と称する田んぼも道の両側に多く見かける。雨季には青々と稲が繁っているが、乾季は赤茶けた、乾いた大地と化す。

シーサケットから南下してプラヴィハーン遺跡へ、途中2箇所のタイ兵検問所を通り、プラヴィハーン遺跡入り口へ着いた。しかし当時カンボディアとの関係が悪化している時で、遺跡への道にはタイ兵が機関銃を携帯して警戒していて、立ち入りは残念ながら出来なかった。ただ、タイ側のダンレク山脈の断崖の上からの見晴らしは素晴らしく、眼下に広がるカンボディア領には乾季のせいか黄褐色の潅木の平原が果てしなく広がる景観は楽しめた。
プラヴィハーン遺跡の写真は撮れなかったので,「アンコールの王道を行く(淡公社)」の写真を一枚借用して掲載する(写真左)。右側の細い道がプラヴィハーンへ続いている(写真右)。

蛇足だが、1994年購入のタイ地図にはタイ領内に「プラヴィハーン」と明記されているが、2000年発行の別のタイ地図には、カンボディア側に「プレアビヒア」と載っており、タイ側には「プラヴィハーン」の記載は何もついていない、このようなタイ側の曖昧さが、今のプラヴィハーン遺跡の両国への所属問題を引き起こしている要因の一つであろう。

ここで、タイのクメール遺跡は終わりとなるが、南ラオスにある、以前はタイ領だったこともあるチャンパサック県のクメール遺跡まで足をのばすとして以下記述したい。

プラヴィハーン遺跡のあと、一路ウボンラーチャタニへ向かう、ウボンでは普通のホテルに泊まってもよいが、ラオス国境近くにシリントーンダムがあり、そこには一般には余り知られていないが、立派なシリントーンダムゲストハウスがあり、そこに泊まると快適である。自炊も出来るようになっているが、広大なダムを眺めながら湖畔の風に当たりながらレストランで食事をするのは長旅の疲れを癒してくれる。


第三日目(ラオスへ)

2-5 世界遺産ワットプー

シリントーンダムゲストハウスを出発し、タイーラオス間の唯一の陸路の国境の町チョンメックへ行く、ラオスへの入国は簡単でチョンメックから2時間ほどで、メコン川が見えてくる、そこで日本の資金援助でできた日本-タイ友好橋を渡ると南ラオスの最大の町パクセーに着く。この橋はノーンカーイに続く2本目のメコン川に架かるラオスへの橋である。(その後タイ側のムクダーハンとラオス側のサバンナケット間にも日本の援助で3本目の橋ができた)

ちなみに大東亜戦争直前に日本がフランスと交渉しメコン河右岸のチョンメックからチャンパサック県一帯のメコン河右岸をタイ領としたが、日本が負けたのでまたフランス領になり現在のラオス領になった地域で、この辺のメコン河はタイとラオスの国境になっていない。

(左)ワットプーの主祠堂、(右)雑草の中の北宮殿跡

パクセーから約50キロ南下し、船着場で船を2艘縛り付け上に板を敷いただけの筏のようなフェリーでメコン河を渡り少し行くとチャンパサックに着き、近くの山麓にラオスで二つ目の世界遺産ワットプーがある。保存が悪いので荒れ放題で壊れかかっているが、日本から技術者がきて修復と資料の発掘保存をやっている。11世紀のクメール時代の遺跡であるが、その後は上座仏教の寺院として崇拝されてきたらしい。

ラオスのワットプー遺跡は余分であったが、ピマーイ遺跡から南東方向に展開するイサーン南部のこれらクメール遺跡群は11~12世紀のヒンヅー教信仰を生活の基盤にしたクメール王国の繁栄を現在に伝えるものであると思う。



(元三井東圧化学タイランド社長)