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バックナンバー 2012-08

「フラッシュバックタイランド」
タイ国日本人商工会議所「所報」より転載

~元タイ駐在員のその後~ 第3回

JTBF会員: 斎藤親載
2012/8/01

1 自己紹介

 所報関係者の皆様、私は1992 年8 月から2000 年4月(実質6 月)までの7 年10 カ月間、貴報の編集委員長を拝命した斎藤です。離任後11 年目にして、貴報に出稿の機を得たことは里帰りのような嬉しさです。
 私は通算24 年の海外勤務中、バンコクで2度、計約17 年を過ごしました。初回は1968 年11 月から1973 年10 月までの泰国三菱商事(株)駐在員(鉄鋼部門)時代。2 度目は三菱商事退職後の1989 年3 月から2000 年10 月までのタイ矢崎グループ時代で、大半をグループ5 社(当時)の統括会社「タイ矢崎コーポレーション」の社長を務め、この間、1990 年3月から2000年4 月までJCC.. 理事を拝命。拝命から1992 年8 月まで通信部会長、以後は上記の編集委員長を務めました。(なお、タイ矢崎時代の後半はタタ矢崎オートコンプ社(インド)の会長兼務でした)。

2 帰国後のタイとの関わり

 2004 年まで矢崎総業の顧問、同時に2001 年から2008 年まで荒井製作所の役員を兼務。
この間タイには年に数回の出張。国内では、 「JTBF」のほか元駐タイ大使を囲む「岡崎会」、「恩田会」などに所属してタイを語る機を得、JTBF ではホームページ巻頭に「日タイ随想」を初回から15 回まで連載執筆しました。また、2005 年4 月に日タイ・ロングステイ協会で「タイ事情について」、2007 年2 月に日本タイ協会で「タイ社会の変容」と題し、それぞれ講演したことなどがタイ関連の主な歩みです。なお「タイ社会の変容」は同協会出版の「現代タイ動向・2006-2008」に共著として収録され、別に、2007 年にタイ事情にも触れた「インド人に学ぶ」、2009 年に「タイ人と日本人 増補新版」を夫々出版しました。

3 タイ駐在の想い出

 1968 年の初回赴任は、輸入代替産業に湧く第一次投資ブームの最中。BOI 長官が絶大な権力を振るった時代で、投資恩典を求める日系企業がBOI に殺到し、商社、金融などの関係者はタイに不案内な日本からの来訪者対応に日夜多忙を極めました。タイの識者の中には日系企業の進出ぶりを「土足の踏み込み」と称し、戦後日本の経済発展は凄いが同じアジア人の仲間ではないか、という声の聴かれたのもこの頃です。タイの経済界は二世、三世世代の華人が中心で、まだlegal mind が希薄なため苦慮した商談もありました。夜のアテンドでの記憶には、ナイトクラブ全盛下の突発でタイ社会を騒然とさせた「サニーシャトー事件」(某大手企業派遣の技術者が、部下の不始末が元で、タイのクラブ・ホステスにショーのさ中に射殺された)があります。(この期の私事では「バンコク駐在物語」の出版)。

 2 度目の赴任は1989 年3 月です。急激な円高に因る生産拠点の海外シフトで、87年末からタイ経済に火がつき、いわゆる第二次投資ブームが燃え盛る最中のこと。16年ぶりのバンコクを見た驚きは、高層ビル林立の国際都市への変貌と、日本人約3 万人、日本食メニューを出す店約300 店(初回駐在時は10 店前後)の「東京都下バンコク郡」の出現であり、直面したのは投資の奔流入による外国人殺到で容易ならざる住居の確保でした。

 この駐在で先ず感じたのは、中進国に進化したタイ人の日本を見る目が嘗ての羨望感から”Equal Partner”意識に変わっていたこと。激動の90 年代で特に記憶に残るイベントでは、第1が、91 年2 月クーデターを引き摺って生じた92 年の五月事件です。これは数日間の出来事でしたが、事態の緊迫感、銃撃の残酷さとその死者数では昨年の黄シャツ・赤シャツの騒乱 ( 死者約90 名) を凌ぐ衝撃的事件でした。政府側の水平発砲によるデモ隊側の死者は当初約600 人と云われ、政府の最終発表は40 名ほどに減りましたが、多数の不明者を残したままです。

 第二は、97 年7月2 日朝のタイが震源地となった通貨危機の発生です。当局が否定し続けた通貨切り下げ(管理変動相場制の採用)の突発で、1ドル25 バーツ基準にあった通貨は一時57 バーツ圏まで急落。ノンバンクは壊滅状態となり、為替予約のない輸入は甚大な被害を蒙り、車の生産ラインも一時停止で、経済活動が全面停滞に陥りました。身近の変化では、多くのビルの上に稼働していた建設クレーンの一斉ストップと、毎夜の如くにあった一流ホテルでのパーティの中止、建設・金融などの外資関係者の相次ぐ帰国などでした。駐在員たちの帰国時に備えた微々たるバーツ預金も邦貨価値は半減の憂き目を見ました。なお、不死鳥のタイ経済は5 年ほどで奇跡的回復を遂げましたが、日本はこの危機に帰国者が最も少なく、タイに多角的な援助を差し伸べた事が今も高く評価されています。

4 JCC 編集委員長時代の回想と今後の所報への期待

 先ず行ったのは下記編集方針の確認でした:政・経・社会の公正でバランスのとれた記事たること/タイのみならず国際(特に近隣諸国)情勢にも配慮/執筆は大使館ほか公的機関の委員・関係者に多大な協力を願うことに変わりはないが、民間の委員・業界関係者(金融関係に偏らない)の執筆も増やすこと/ Stale 記事を避ける/月遅れ気味だった発行を当月発行厳守に改善/ばらつきの多かったページ数を100~120 頁(基準)に設定など。

  長い任期を全う出来たのは、多くの委員の執筆責任を伴う企画力とJCC 事務局の陰の力のお陰です。外部の執筆者では、深読み政局解説に健筆を揮われた東田幸夫氏が、今なおご活躍中なのを知り感に堪えません。想い出に残るEvent では: 1994 年9 月のJCC 創立40 年誌の発行に編集委員会が大きな役割を果たし、小生がその題字揮毫の栄に浴したこと/編集委員会の有志と行ったクアラルンプールへの取材旅行/委員長の特権?で小生は所報の編集後記に政経随想を連載し、JCC のご好意によりその26 回分が「タイの鼓動 激動 90 年代の政経随想」として出版されたこと、など。(私事ではこの期に「タイ人と日本人」の出版があります)。

 最近まで毎月の所報を拝見していましたが、執筆陣は多極化し、記事内容は益々充実しつつあるのを見て喜びに堪えません。今回のフラッシュバックは洵に時宜を得たご企画ですが、今後も年に一度くらい「OB から見た日タイ関係の現状と提言」などのスペースがあれば面白いと思います。

5 近況

 2008 年に会社生活に終止符を打ってからタイとの仕事関係はなくなりましたが、永住ビザ(俗称)の更新もあり少なくも年に一度は訪盤、貴所ほか旧知’をお訪ねしてタイの現況を伺うのが何よりの楽しみです。来春は傘寿を迎えますが、折に触れて雑文を草し、最近はヴォイストレーニングにも励んでいます。過日は、歳甲斐もなく某ミニコンサートで似非テノール歌手を気取り、歌劇トスカの名曲「星は光りぬ」を詠いました。第二の故郷、タイへの想いは今後も絶えることなく、お役に立つことがあればいつでも馳せ参じたい思いです。JCCと所報の益々のご繁栄を祈念して已みません。


(元タイ矢崎コーポレイション社長)