JTBF会員: 有川武俊
2012/11/01
私にとってのタイ国との関わりは1971年に突然やってきました。其の当時の仕事は、化学肥料の国内販売を担当し、月の3分の2は地方の肥料の特約店及び農家周りをしており、今のように新幹線が無い状況下、宮城、埼玉、千葉、栃木に在来線で回る日々を過ごしていました。ある時部長から“君は海外に行ってみる気持ちがあるか”との問いかけがあり、自分としても、折角商社に入った以上海外に行ってみたいですと答えました。すると部長から三菱には語学研修制度があり、タイという国に行ってみないかという事でした。タイがどこにあるかも分からないまま、研修生としてタイに派遣されたのが1971 年でした。サートンにあるYMCA に居を構え、午前中は語学学校に行き午後はタマサート大学に行く毎日でした。
研修を1973 年まで2年間行い、其の後は1975 年から1981 年までタイ三菱商事で、化学肥料、プラスチック、燃料を担当し、1998 年から2002 年までタイ三菱の社長として仕事を致しました。2000 年5月より2001 年4月まで盤谷日本人商工会議所で会頭を勤めさせて頂きました。今回は4度目のタイの駐在で、2008 年タイ工業省からお声が係り、現在に至るまでタイの中小企業を支援する仕事をしております。通算在タイの期間が14 年となりました。
2010 年2月から現在に至るまで背番号がジャイカに変わりましたが、勤務地は変わらず、タイ工業省工業振興局にて勤務をしています。正にタイに始まりタイに終わるという生活です。最初に研修生という関わりが無ければタイという国は私に取っても全く未知の国であったと言えます。自分の中では運命的な出会いと思っています。
1971 年当時バンコックは非常に静かなのどかな街という印象でした。人の流れも動き方もゆっくりしており、これが南の国の良さなのだなと思っていた反面、このまま進んで行って他の国との競争に勝ってゆけるのであろうか、又当時のフィリッピンと比べるとこれから何年頑張ってもフィリピンには追いつかないのではと強く思いました。然し、タイが農業国から工業国に舵を切り、自動車、電気電子分野に人材を投入するようになってきてからは、皆様ご存知の様に自動車の分野で言えばタイは“アジアのデトロイト”と評されるようになって来ました。
それに併せて日本からの裾野産業も大挙タイに移動して来られ、瞬く間に大工業国に発展していったのです。あの運命的なタイ語研修生の時代を省みても、自分の居所をタイにした事は最上の選択をしたと思っています。タイを一言で言うと“遅々として進む国”そして“引き算では無く足し算で物事を進める国”であると思います。
あるプロジェクト、或いはエキジビションを3ヵ月後に始めるとすると、日本の方々は其の日に向けて、今はこれこれの事を始め、来週はこの準備をしておこうと思います。つまり引き算で物を考えますが、タイの人は最終的にプロジェクト、乃至はエキジビションがその日に間に合えば良いとの考え方です。(それでもタイの人達は殆どの場合きちんと間に合ってしまうのです。)昔タイで行われたアジア大会の設営につき、海外の参加者の多くの方々が、この準備状況では到底開催は無理だと思っていた所、開催前日に見事準備が終了していました。其の時のタイの人達の得意満面の顔が今も思い出されます。タイで仕事をする上で困ったことは、時間に対する考え方の違いです。例えば9時から始まる会議であればタイの人達は5分前にくれば十分間に合うのに、何故日本の人は30分以上も前に来るようにと言うのだろかと言う事です。会議の前には色々な準備をしてから臨むべきと説明をするのですが中々理解を得られませんでしたが、この点については私の考え方を変えることは有りませんでした。
タイは又これから益々世界との繋がりを多く持って行かねばなりません。タイの良い所はそのまま持ちながらもインターナショナルスタンダードを守って行かないと、世界の流れから脱落してしまう事が危惧されます。又タイの人の“マイペンライ”思想です。例えば女中さんがグラスを落として割ってしまった時、女中さんはマイペンライ即ち大した事無いよと言うのですが、マイペンライと言うのは使用者である我々が言う言葉であり、女中さんが言う言葉ではなく、貴方が言わねばならないのは“ごめんなさい”だろうと思うのですが、彼女にすると、グラスが割れてしまったけれど、これ以上大変な事にならなくて良かったねという意味で言っているのです。これもインターナショナルスタンダードからするととても容認されるものではないのですが、“郷に入れば郷に従え”との言葉の通り、ある程度マイペンライ思想で生活をする事が、タイでの生活をスムーズにして行く方法であるとは思いますが、ビジネスを含め認めてしまってはいけない事が多々ある事は事実です。
又タイの人は常に人が自分をどの様に見られているのかを気にしています。怒るときは場所を変えて怒ることが必要ですが、褒める時は皆の前で褒めてあげましょう。今日本の企業のタイに置けるポジションは大変高いものが有ります。私が会頭の折、外国人商工会議所の一員としてメンバーに入っていましたが、残念ながら日本の言い分がそれ程通らなかった苦い経験が多く有りました。今では先ず日本はどう考えていますかと聞かれている事でしょう。又、私の居りました時、誰がBTS、MRTAがバンコック市内を走っていると想像していたでしょうか。一方では物事の便利さそして生活の豊かさが、本来タイの人が持っているやさしさに影を落とし始めているのではと感じているのは私だけでしょうか。今回残念な事に大洪水がタイを襲いました。早い復旧復興を願わざるを得ませが、併せて改めてタイがサプライチェーンの一環に確りと組み込まれていることも確認できました。タイの人はきちんと教えてあげればきちんと出来る人達です。要は真剣にタイの人に向かう事が大切です。
タイの駐在で最も印象に残っているのは、1998 年、2001 年と2回やらせて頂いた日本人学校の理事長でした。当時生徒数が2000 人を超える大きな学校にびっくりした事を、昨日の様に思い出しています。一番の思い出は御主人或いは奥様が日本の方ではない方のお子様をお預かりする事でした。喧々諤々の議論の末色々なお願いをしながら、最終的に入学をして頂く事に致しました。副理事長の日本航空の梶谷さん、PTA会長で居られたデンソーの広中さん、大使館の玉井さんは本件の実現に向けて共に努力をした仲間です。問題が解決して入って来られたお子様達の嬉しそうなお顔を拝見して本当に良かったと言う事を今改めて思い出しています。
タイの人達は人の繋がりを非常に大切にします。企業の方々の駐在は4年から5年と思いますが一人でも多くのタイの友人を作られる事をお勧めします。タイの人は日本の人が好きです。そして日本の人もタイの人が好きです。これで2国間がうまく行かないなんて言う事はありえません。自分が主張することは確りと主張し、タイの人が言われる事も確りと聞いて行けば会社の仕事もプライベートの面でも楽しいタイの生活を送る事が出来ると思います。3 月11 日の東日本大震災の折に見せてくれたタイの人達の暖かさ、今回の洪水の被害に対して日本の方々がタイに寄せて頂いた様々の援助がこれからも長く続いて行く日タイの将来を磐石なものにして行くものと確信をしています。盤谷日本人商工会議所の重要度は益々増してくると来ると思います。是非会員の皆様方お一人お一人が会議所の代表者であるとの姿勢でタイの方々と接して頂く事を切に願うものです。益々の盤谷日本人商工会議所のご発展をお祈り申し上げます。
了
(元タイ三菱商事株式会社社長)