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バックナンバー 2013-01

「フラッシュバックタイランド」
タイ国日本人商工会議所「所報」より転載

~元タイ駐在員のその後~ 第8回

JTBF会員: 中村怜次
2013/1/01

「タイ人から見た外資系企業に5 年半」、今「日本人から見た外資系企業に1年、勤務中」

 私の場合も一般的な日本企業の海外駐在パターと異なるようです。タイ国駐在前の略歴から現在の状況を記してみます。

  1. 1997年7月、竹中工務店プラント本部在籍中にタイ竹中勤務を命ぜられ、翌日までに家族と相談し結論を出すようにと指示を受ける。タイ通貨危機の1ヶ月前。
  2. 同年8月15日に着任、2003年3月までタイ竹中代表として勤務、途中新バンコク空港プロジェクト受注にも関与。JCCでは建設部会に所属。
  3. 2003年3月帰任後、竹中工務店国際支店の副支店長として主に営業を担当、タイには日系企業からの受注を目的に年4-5回出張。
  4. 2005年3月竹中土木の海外担当取締役として勤務。この間バンコク地下鉄紫ラインに応札しこれは失注するも、東欧のODA鉄道工事受注。2011年3月竹中グループ退社。
  5. 2011年4月から赤坂本社のスウェーデン系機械商社「ガデリウス」の建設事業部取締役として勤務現在に至る。主に建設用エレベーター、昇降式移動足場を販売。

 振り返って見ると、20数年間ゼネコンのエンジニアリング部門にて、工場や配送センターの自動化を含め建物と一括受注するという部隊から、50歳でのタイ赴任をベースに建設本業のラインに 入る事により、自分の職場での方向性が大きく変わり始めたようです。今はまた外資系企業に勤務し、直属の上司にあたる53歳のスウェーデン人社長から、会社の方針を日本人がどのように感じ受け とめているか等、よく聞かれます。タイ駐在時の私も会社方針をタイ人スタッフがどう受けとめているか?という事を常に考えていましたから、共感出来る話題が多く、改めてタイでの経験が今また役に立っているなー!と感じています。そして、タイ国とタイの皆さんに感謝する日々を送っています。

タイでの5 年半のアクション

 着任した1997 年8 月はバンコク市内あちこちの建設用クレーが停止し、鉄筋も養生される事なく野晒し状態で放置されたビルが多数有ったと記憶しています。私達のメインのお客様である日系企業も大半の新築工事は延期され、この状況をどう打破するかが課題とされました。そこで取った方法を中心に述べてみます。

  1. タイ若手人材登用
     先ずは管理費を減らす必要に迫られ日本人社員を半数に、次にタイ人社員のパーマネント契約以外の人には退職金を増額しやめてもらうという苦渋の選択をしました。まだ実行されていなかった定年制も取り入れ、社員を30%削減しました。日本人作業所長の中には長年支えてくれたタイ人社員を解雇する事の厳しさに、涙ながら訴えにきてくれた者もいました。この時の彼の沈痛な面持ちは今でも忘れられません。一方20代後半から30代前半の優秀で情熱の有るタイ人社員には飛級のチャンスも与え、役職昇格の試験を実施し、将来の幹部候補にしていく事によりモチベーションを高める事も行いました。
  2. 建設業初のISO認証取得と欧米外資からの受注
     当時自動車産業、電気産業を中心にISO9001の認証取得が必要とされ、工場の外壁にその取得をアピールしている状況が見られました。私どもでは、冷え込んでいた日系企業の投資が遅れると判断し、欧米外資系の仕事を増やすという方針をたてました。この外資系を取り込む為に、会社の品質、コスト競争力、短工期等総合的な信頼を示すにはISO認証取得が不可欠と感じました。そこで日本人とタイ人の優秀なスタッフでプロジェクトチームを組み、1 年で取得する事を目指しました。通常準備期間に2 年かかると言われていましたが社員全員の協力により実現、それもタイの建設業で始めての認証取得となりました。これが弾みとなり欧米外資系企業の受注比率は全体の25% になり危機を乗り越える原動力になりました。
  3. 社内活性化の為のスポーツデー
     タイ人はサッカーが得意です。近年日本でも子供達のサッカークラブが増加していますが、タクローを毎日プレーしているタイ人のボール扱いは中々のものです。社員全員で参加するスポーツデーをチュラロンコン大学の競技場をお借りし開催、日本人チームはタイ人チームには軽く捻られていたように記憶しています。またボーリングもタイの人は大好きなようで、年3回程度ボーリング大会を開催しましたが大盛況でした。
  4. スワナブーン新空港受注について
     このプロジェクトは最終的にはターミナルビルをタイのゼネコンそれに日系ゼネコンとJV受注する事が出来たのですが、その初期にはどう取り組んでいくのがベストか苦慮する時が多々ありました。この段階で日本の企業をいかに正しくタイ政府側に理解してもらうかがポイントでした。この時日本側の大きなサポートをして下さったのが当時の赤尾大使であったと思います。我々日本側の技術的優位性も良く理解いただき、タイ政府そして空港公団他にも何度も説明して頂いた事は感謝にたえません。このような行動的な大使と同じ時期に勤務出来た事を光栄に思っています。その後工事は多くの関係者のご努力で無事竣工しましたが、タイ政権交代の問題もあり追加変更工事他の交渉が難攻、未収金回収の最終段階にある事も記させていただきます。
  5. 猫の恩返し?
     1999年6月に行われた304工業団地の大型工場建設が終わる頃、日本人作業所長の現地宿泊施設を訪問した時、一匹の雌猫が擦り寄って来ました。作業所長が飼っていたようで「この猫どうするの?」と聞くと「自宅は子供も小さく飼えないので、置いて行きます。多分こいつ野良猫になり飢死にするかも知れませんね。」とのこと。それは可哀想と思い、当時住んでいたバンコク市内の自宅に連れて帰ることにしました。翠色の目をしたサバトラであまり美系では有りませんでしたが、何故かよくなつき帰国まで飼うことになりました。我が家に来たのは7月1日だったことから妻がジュラと名付けました。偶然かも知れませんがジュラが来てから受注金額が急増し、好業績を上げる事が出来ました!猫の恩返し?でしょうか。帰国にあたり、バンコク市内に広大な庭をお持ちの自営業の日本人の方が里親を引き受けて下さいました。昨年半年以上も行方不明になった事もありましたが、再び舞い戻り、まだ元気で可愛いがって頂いているようです。

近況

 帰国後も日タイ、ビジネスフォーラム(JTBF)会員として年間の行事には必ず参加、バンコク時代の懐かしい方々とお会いするのが楽しみです。またこの会には駐日タイ国大使、大使館の皆さんも年数回参加され、タイの最新情報もお聞きする事が出来、幸いです。勤務中のスウェーデン企業には省エネ住宅部門もあり、三層サッシをタイ企業に一部生産委託をしており今後バンコク出張が増えるかも知れません。プライベートの事では昨年、10 数年ぶりに20-30歳代の地元軟式野球チームの監督に戻り日曜は殆どグランドにいます。幸いにも、いきなり優勝することが出来て、千葉県の八千代市100チームの頂点に立つ事が出来ました。今年は県代表戦の高松宮杯に挑戦です。時には腰痛や股関節痛になり接骨院の先生に治療してもらいつつ、40歳代や還暦チームにも所属、こちらは現役バリバリのプレーヤー?として、多忙な毎日を送っています。


(元タイ竹中社長)