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バックナンバー 2013-02

「フラッシュバックタイランド」
タイ国日本人商工会議所「所報」より転載

~元タイ駐在員のその後~ 第9回

JTBF金融委員会委員長:本村博志
2013/2/01

―タイ想い出断章―


為替危機前夜と合併

 通常、銀行の支店長の勤務期間は、特別の事情がない限り、2 年前後と云われている。執務内容、モチベーション、内部統制上の意味合いからも2 年と云うのが穏当な処なのであろう。ところが、私の場合、この「特別の事情」が存在し、ほぼ5 年(1994 年~ 1999 年)に亘る例外的な長期滞在となった。この事情は、1つには、旧「三菱銀行」と旧「東京銀行」の合併があったこと(1996 年4 月)、2 つ目は、1997 年7 月のタイを震源とする「通貨危機」に遭遇したためであった。

 どうして私は、こうも通貨危機に遭遇するのであろう?旧東京銀行に入行して間もなくの1967 年「£切り下げ」、初めてのNew York 勤務時代の1971 年「ニクソンショック」、2 回目のNew York 勤務時の1985 年「プラザ合意」そして、バンコク勤務時代の1997 年「トムヤムクンショック」・・。

 私が旧東京銀行バンコク支店長の辞令を拝命して、ドンムアン空港に降り立った時は、バンコクのオフショア金融市場(BIBF = Bangkok International Banking Facility)が開設されてから1 年余、利鞘の厚いバーツ建て取引が可能となる国内業務新規参入を狙う外銀は、このBIBFを通じた外貨の貸出残高を出来うる限り積み上げることが、タイ国への金融コミットメントを示すことであり、以てフルブランチの免許取得を確実なものにしようとする熾烈な競争の巷にあった。

 特に、BIBF は、オフショア市場と云っても、外―内取引が認められ、米ドル資金をそのまま居住者にドル建てで貸付けることが出来た。本来であれば、企業の生産的投資や、国内産業インフラ整備に充てられるドル建て低利資金は、国内不動産関連や、消費関連、株投資に、短期性資金の形で過剰に融資され、タイ国はバブル的な空前のブームの真っただ中にあったのである。
 加えて、為替制度が所謂「通貨バスケット・ペッグ」制を採用し、バーツを事実上、米ドルに連動させる為替政策をとっていた。これは、当局が、海外からの直接投資を容易にし、輸出の振興をも図るという狙いをもっていた為、為替の安定、特に対米ドルの安定は必須の施策であった。こういった背景から、大企業は云うに及ばず、情報開示も不十分な中小企業も争って米ドル借入に走った。地方都市の郊外にあるレストランでさえ、高級なワインが次々と飲み干され、タナシティゴルフ場周辺のコンドミなど、恰好な投資物件として建築中の売り出しにも拘わらず販売と同時に完売となる。タニヤの歓楽街では、どの店も満員の盛況で、深夜に及ぶまで喧騒が続く。主人を待つ運転手の群れでは、底抜けに明るい談笑が絶えない。今日より明日を信じて疑わないタイ社会に、刻々と迫る為替危機の足音など大多数の人々の耳には届かなかったのである。
 1996 年10 月には、BIBF 市場の貸出し競争の通信簿が公にされた。熾烈な貸出競争を繰り広げた外銀BIBF 行26 行のうち、晴れて7 行がフルブランチ昇格を実現させ、邦銀はそのうち3 行を占めた。この時点でフルブランチ行は5 行となったのである。(東京三菱、さくら+興銀、第一勧銀、住友)

 この頃を遡ること半年、1996 年4 月1日、旧「東京銀行」と旧「三菱銀行」が合併をスタートさせていた。この合併を実現させる為に、両行とも事前に極めて綿密な打ち合わせが行われたことは云うまでもないが、一番苦労したが事柄の一つに、やはりライセンスに関わる対当局との折衝があった。
 バーツ建ての預金・貸付という国内業務が出来る銀行ライセンス取得の為の苦労の一コマを上記したが、外銀にとってこのライセンスは垂涎の的であり、金融当局も、そう簡単には発行しない。元々フルブランチライセンスのある旧東京銀行と、これを保有しない旧三菱銀行の合併であるが、法的には旧「三菱銀行」が旧「東京銀行」を吸収する図式となる。タイの当局は、フルブランチ免許を持つ旧東銀のライセンスも、法的に吸収される寸前の瞬間に失効する故、新銀行は、今一度、フルブランチ免許取得申請を行うべし、との考えを引込めようとしない。合併の期日は迫ってくる。当局も先例がなく相当に悩んだらしい。「1+1=2」であり、「0」になることはあり得ない、とよく判らない屁理屈と気合で、ここは何とか乗り切り、合併期日直前に新銀行の免許取得に成功、賑々しく新銀行の祝典を迎えた日が、つい昨日のことのような気がしているのは筆者が馬齢を重ねた故か。

 新銀行スタート後1 年余、97 年7 月、遂にタイ為替危機が現実のものとなる。ブームは既に96 年には終焉しつつあり、株式市場、不動産市場は低迷、金融機関は多大な不良債権を抱え込みその経営基盤は弱体化、遂にはタイ特有の金融機関であるファイナンス・カンパニー91 社中58 社(97 年6 月16 社、8 月42 社)が政府から営業停止を命じられる非常事態となった(結局、同年12 月には、56 社が閉鎖)。経常収支赤字も2 年連続してGDP 比8%の水準に達し、マクロ経済のパフォーマンスの悪化が急速に顕著となって行った。そんな中、97 年に入りバーツへの信認を失いつつあった海外資金は、当局の高金利政策にも関わらず、一挙に逃げ足を早め、急激な資本流出が奔流となり、一気に「トムヤムクン危機」を招来することになったのである。
 紙面の関係でその後の詳細は省くが、この為替危機を契機に、タイ国は、IMFの監視下におかれ、マクロの緊縮政策実施、金融システムの改革、域内当局の相互金融強化、変動為替制度の導入、輸出振興等々の施策で乗り切り、2001 年には、強力なリーダーシップを持ったタクシン政権の誕生をみて、農村部、都市中間層にあった緊縮財政、大量失業、倒産などに対する不満を吸収して行き、経済復興を果たして行くのである。
 私のタイ滞在は、天気に喩えるならば「かんかん照り」の状態から、バブルの破裂と共に「土砂降り」となる時期で、誠に貴重な経験をさせて貰ったこととなる。

インテリやくざ

 有り難くない称号を頂いたものである。上述のバブル華やかなりし頃、JCC 会員企業数は、1,100 社を超え、1995 年頃は帯同する児童生徒の通う泰日協会学校(バンコク日本人学校)の児童生徒数は、近いうちに2000 名を超えようと予測された。加えて、借地である駐車場は、スクールバス85 台、通勤用車両100 台以上出入 りする超過密状態。そのあまりの急激な増加率に学校理事会も、同校の児童生徒収容力、駐車スペースなど、既に限界であり、近々オーバーし大問題となること必定と判断した。偶々父親の転勤に伴って来てはみたものの、将来の日本を背負って立つ若者の教育の場たる学び舎が狭く、十分な教育も受けられないでは、学校理事会の名が泣く。事態は差し迫っており、種々対症療法的処置を実施したものの、最早物理的限界だ。然しながら、肝心の土地の手当てが出来ない。そんな時、偶々隣接の土地 6 ライが、日本の或る商社現法より売りに出ており、既に仮契約が結ばれ、手付金も打たれたと言う。土地確保問題で四苦八苦している学校にとってまたとない絶好の機会、見逃す手はない。当時の学校理事会長の石井利一氏や豊田資則学校理事ともに某商社代表のもとに赴く。当然、その契約をないことにして、泰日協会学校へ売ってくれ、という交渉である。無理筋であることは始めから判っていることである。「そこを何とか・・。日本の将来を担う若者のためである。教育は、1 日にして成らず、じっくりと熟成鍛練する時間と場が必要。現在のすし詰めの状況は、貴殿も先刻ご承知の筈。そこを曲げて学校側に土地をお譲り下さい」と浪花節そのものの展開にその社長は驚きを禁じ得ず、当方の理不尽さと切羽詰った形相で粘りに粘ったため、この異名を頂戴する羽目になってしまった。然しながら、遂にOK を頂いた瞬間の何と嬉しかったことか。銀行業務は、優秀な次長さん以下にお任せし、隣接地確保交渉に没頭した。そして頂いた称号が「インテリやくざ」。当時は、有り難いような情けないような気持ちであった。学校の為とは言え、銀行の大切なお客様に大変失礼な言辞を弄したこと、今思い返せば汗顔の至りである。当初このように確保できた土地は全体6 ライの1/3 程度。その後、元々の土地の買主であった方が交通事故で亡くなられ、開発計画も頓挫したと言うハプニングもあり、結局隣接地全体6 ライが学校側に譲渡されたのである(1996 年4 月)。この土地をフル活用した全面改築プランが関係者によって練り上げられ、日本政府の指定寄付金の承認も頂き、進出企業の皆様をはじめとする多くの方々に多大なご寄付を頂いて、1998 年4 月に新校舎落成、現在の校舎の基となっているのである。その際、頂いた寄付金は主として円建てであり、バーツ切り下げで大変な恩恵に預かった点を付記しなければならないだろう。

そして帰国

 タクシン氏が98 年、愛国党を立党し、経済の判る実務家的政治家として台頭しつつあった99 年、ほぼ5年の長きに亘る波乱万丈のバンコク生活と銀行生活に別れを告げ帰国。直後、JUSCO(現イオン)や、ユニー、イズミヤなどスーパー3 社の出資する開発輸入会社「AIC Corp」に奉職した。
 この会社は、タイを始めとする東南アジア、中国、豪州等から食品、衣料品、家庭用品を開発し、ユニクロと同様、工場を選定のうえラインを借り、デザインの決定、材料の手当て、製造・品質等を厳しく管理・指導のうえ輸入、JUSCO 等株主スーパーへ販売することを主業務とする会社であり、今までの銀行業務と全く異質の仕事に携わることとなる。
 この会社を通じて、タイからチキン、ゴムの廃材を利用した家具、マンゴー、ドリアン、マンゴスチンなどの南国フルーツ、靴下、インナー用品、ランの花等、多彩な魅力的なタイの品々を、これらスーパーを通じ日本の消費者に届け続けた。タイ特産の熟れたマンゴーとカオニャオの取り合わせの味は最高である。前任のSuvidhya 駐日タイ大使は、このマンゴーを日本の消費者に一番美味しい状態で食べてもらうにはどうすればよいのかを熱心に考えておられ、JTBF にアドバイスを求められた際、AIC のバンコクRep. が、マンゴー・マンゴスチン農家に対し収穫の時期、ロジスティック、デリバリー時期等々の現地指導・講習実施等で応えてくれ、イオンを通じて日本の消費者にこの最高の味を賞味して頂いたことは記憶に新しい。タイとの深い繋がりが未だに切れることはないのである。

現在は

 AIC の後、トヨタ系の自動車部品会社「フタバ産業」の社外監査役として、押し寄せる監査厳格化の波に耐えつつ任務をこなしている今日この頃である。同社は、主としてマフラー等の排気系部品、全ゆるプレス部品、金型等の製造会社であり、タイにもYMPPD と云う合弁会社を通じて、タイの自動車業界を通じ、タイのユー ザーに寄与しており、タイとの縁は尽きることがない。

 毎年、JTBF では、中国旧正月の前に訪タイ視察ミッションを派遣、タイの政治経済状況のUp to date を行っており、その度にJCC を訪問、詳細に亘りタイの現状の説明を受け貴重な情報を頂いていることをこの場をお借りして心から感謝申し上げたい。
 本年は特に、昨年の大洪水後の被災工業団地等を視察するプログラムを組んだ。1990 年代半ば、あれだけ輝きを放っていたロジャナ・ナワナコン等の工場群の無残な姿を見た時、頬を伝わる涙を禁じ得なかったことを告白する。嬉しいことに、被災企業の大部分は、移転することなくめげずに復興復旧を目指して頑張っておられる報に接し、深甚なる敬意を表すると共に、タイ政府の早急なる治水防水対策が実施され、2 度と再び同様の災害が起こらぬよう祈るのみである。JCC 会員の皆様とタイ国の益々の繁栄を祈念しつつ、本稿の終わりと致したい。


(元東京三菱銀行バンコク支店長)