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バックナンバー 2013-04

「フラッシュバックタイランド」
タイ国日本人商工会議所「所報」より転載

~元タイ駐在員のその後~ 第11回

JTBF会員:佐藤 満
2013/4/01

プミポン国王陛下とメガネ拭き

 1985 年から1990 年の5 年間をバンコックで過ごす事が出来ましたのは私にとって大変幸運であったと思っております。

 二度目の駐在生活はブラジルのサンパウロ時代から(1974-1979) 数えて6年振りで友人や同僚からも羨ましがられる「BB コネクシオン(BRAZILBANGKOK)」と言われて比較的住みやすい海外駐在地と見られているバンコックであった事が、私のその後のキャリア形成や人間形成にとって大変貴重な経験を積まして頂きました。  そもそも私が31 歳でホンダに中途入社した動機は極めて単純で「国際ビジネスマンになりたい」気持ちが強かった為です。それは私の一年半、約40 カ国の貧乏旅行が切っ掛けでありました。京都の私立大学を卒業したその年リュックを担ぎ横浜港からソ連経由でヨーローパへの無銭旅行を敢行しました。

 ソ連からフィンランドへ、ユースホステルを宿とし、交通費は無料のヒッチハイク(道路端で手を上げて載せてもらう)。予算は一日3ドル( 同時のレートで約千円)、お金が尽きたら地中海の港町マルセイユから神戸までの一年間有効の3 等切符で帰国する予定でした。いくら無銭旅行でもたった3ドルでは生活出来ません。仕方なくフィンランド、ノルウエー、デンマーク、フランスの農家に合計半年ほど住みつき生活費を節約しました。旅は極めて順調であったのですが、迂闊にもイタリアのローマで有り金を盗まれ、旅を続ける事が出来なくなってしまいました。選択肢は二つしかありません。マルセイユから船に乗って帰国するか、船の切符を京都の旅行代理店に送り返し現金化してローマに送ってもらい、日本までヒッチハイクでたどり着くかです。若かった私は考えもせず、陸路日本までヒッチハイクで帰ろうと決め、命の次に大切な船の切符を日本に送り返しました。それからの生活は悲惨そのものでした。

 公園のベンチで寝起きし、ひたすら日本からの連絡を待つ身です。やっとローマの中央郵便局にお金が届き生き返った訳です。北アフリカ経由で帰国を決めた私はアルジェリアで見知らぬ日本人と会い、二人で物乞いをする事になりました。チュニジア、リビア、エジプト、レバノン、シリアと周り、イラクのバクダッドで物乞いしていた時、偶然3 人の日本人が通り掛かりお金を恵んでくれたのです。

 そうだ「国際ビジネスマンになって世界を飛び回ろう」とその時決意しました。二つの小さな商社勤務を経てホンダに入った私は入社後一年半でサンパウロ駐在を命じられたのです。ポルトガル語は全く分からず、まさに針の莚でありました。その時学んだ言葉の一つに「貴方が行きたい高さを決めればそれが貴方の行く高さである」。“そうだ高い目標( 志) を持って前へ進もう”。

 その後ホンダの中近東部勤務を経て、発足7カ月のホンダの現地法人―ホンダカーズタイランド(HCT)の社長として赴任したのは、本社で課長になって一年後の42 歳でありました。初めてのタイとの関わりです。  突然の転勤の辞令を受けた時はアジア営業部内の設立ほやほやの乗用車を扱う「ホンダカーズタイランド(HCT)社」の存在も知らないほどのまさに社内でも無名の会社でありました。

 その一方、ホンダのオートバイはアジアホンダとしてホンダが最初に海外進出したのがタイと歴史も知名度もかなり高く、表現は悪いのですが「オートバイがまさにゴキブリのごとく」タイの都市から田舎の隅々まで縦横無尽に闊歩していましたが、私が担当した乗用車の方はタイ市場での最後発メーカーとして滑り込みで参入し、自前工場も持てずバンチャンゼネラルアッセンブリー社の一部を借りた委託生産、間借り、手造りで「アコード」と「シビック」を日産2 台から5台を組み立てでした。

 手造りの工場も私にとって見るのも初めてでしたし工場やサービス、部品部門までの関与も初めての事でした。小組(しょうくみ)から溶接も全て手動、組み立て中の車の移動は手押しの台車、塗装も手動ガンで乾燥ブーツも観音開きの初歩的な設備でした。

 一方販売の方はタイ市場進出最後発と言う理由もあったのでしょうかホンダでは初めての販売店を経由しない直販ショウルームが一店舗で、場所はシーロム通りと交差するスラサック通りに車を2台展示すると一杯になる小さな店舗が一か所しか無い、まさによちよち歩きの立ち上がりでした。

 隔世の感がありますが、オートバイとは比べ物にならない程、ホンダの乗用車の知名度や認知度は低く、ほとんどのタイ人はホンダが乗用車を販売している事さえ知らない状況でありました。ショウルームはまさに閑古鳥が毎日鳴いている様な状況でした。

 本社で一年だけ課長職を経験しただけの低次元の私は、ホンダ乗用車が売れない理由を取り巻く環境のセイにしり、タイの低迷する経済状況を理由にしたり、HCTの歴史の短さの理由にしたり、まさに「環境、他人責任論者」でありました。少し古い資料をひもときますと赴任した前年の1984 年のタイにおける乗用車市場は年間販売台数が僅か31,600 台。 1985 年には1984 年暮のタイバーツの切り下げもあり前年比マイナス30%の 22,000 台と大幅にダウンし、1986、1987 年と市場低迷の時代でありました。ちなみにホンダ車の販売台数は僅か786 台(シェア2.5%)でした。

 私は業績の悪化にもがき「ホンダ車が売れない事情は市場環境にあるから仕方が無いと環境、他人責任論」と心底思っておりましたが一念発起して、経営とは?リーダーシップとは?業績向上とは?社員のやる気とは?とかを勉強し始めた訳です。特に生産は比較的計画通りなのに、販売が計画通り進まない在庫過多の状況が営業も兼ねる新米社長を苦しめ始めた訳です。

 そして100 冊近くの経営書やマーケッテング書を通じて先人から実に多くの教えを頂きました。それらの中で、特に印象に残る言葉を挙げると、例えば:

  1. “環境を理由にした時から成長は止まる”
  2. “経営とは変化に対する対応業:すなわち環境適応業である”
  3. “与えられた環境を是として実績を挙げるのが良いリーダーである”
  4. “業績格差=戦略格差= 経営者、リーダー格差である”
  5. “チャンスは貯金出来ないし努力は人を裏切らない“
  6. “幸運の女神は準備をした人にのみ微笑む”
  7. “経営―事業―とはお客様の増やしてゆく事である”「顧客の創造」
  8. “三現主義―現場、現物、現実と三識 ―意識、知識、組織の大切さ”
  9. “良いアイデアは心底考えた抜いた人にのみ与えられる特権である”
  10. “他社との差別化とナンバ-ワン、オンリーワン戦略”

 など、「勝利の方程式」と考えられる言葉の数々でした。まさに「環境、他人責任論」から脱皮して「徹底した原因自分論者」への変換の重要性でした。

 そのような中で私が考えたのは、ホンダ乗用車のブランドイメージをどう向上させるかでした。オートバイのお客様は決して高額所得者ではありません。ホンダ車のイメージは正直なところ決して高くは無い中で、いかにホンダ乗用車のブランドイメージを高め高級車の仲間入りをさせる事が私の大きな経営課題であった訳です。そこで考えた一つが王室への接近策でした。

 ロイヤルファミリーの方々がホンダ車をお使い頂ければホンダ車のイメージが上がるのではないか?と考えた訳です。特に国王陛下がホンダ車をご愛用して頂ければ…と(とらぬ狸の皮算用)との発想に及びました。

 タイ駐在中に国王陛下に3 回のご謁見をさせて頂きました。最初の機会がホンダアコードのご献上の機会でした。 ( 二回目がプレリュードのご献上)王室財産管理局= CROWN PROPERTY  BUREAU を通じて、初めて宮殿を訪問しプミポン国王陛下ご臨席の場でのご献上です。私は緊張で前後の経緯はあまり覚えていないのですが、国王陛下の御顔を拝顔させて頂くと陛下のメガネが大層汚れている事に気がつきました。国王陛下から声をかけて頂きご献上式は僅か10 分ぐらいで終わったと思いますが、その後しばらく陛下のメガネの汚れが大変気がかりになってしまいました。タイ国民からあれだけ慕われておられる陛下のメガネを誰が拭くのだろか・・・。もちろん大変熱い国ですからメガネは常に拭いていないと汚れます。

 そこで当時発売された人気のあるメガネ拭きを日本から数十枚取り寄せ、王室財産管理局のドクターチラユ長官に、「プミポン国王がお掛けになっているメガネが汚れているように見えました。今日本で好評のメガネ拭きを取り寄せました。「長官が先ずお使いになって、気にいって頂ければ陛下にお渡し下されば幸甚です」とお願いをいたしました。幸い長官も気にいって下さり、そのメガネ拭きは無事プミポン国王陛下にお届けする事ができました。何日かして国王陛下の「個人秘書」からの電話を頂き、陛下も大変喜ばれておられるとのお言葉を頂きました。

 国王陛下に御献上したその年の陛下のお誕生日に陛下ご自身がアコードの運転席に乗られ宮殿から移動されるお姿を、タイの多くの皆様がTV を見られたことが急激な販売増加に繋がったと思っております。(シェア:5 年で⇒ 22%)

 その後のタイに於けるホンダ車の人気は私の後を引き継いだ皆様の大変な努力とタイの消費者の強いバックアップもあって極めて順調に発展している事実を知って大変うれしく思っております。

 仕事外でもサクラの苗を300 本日本から取り寄せ王室に寄贈いたしました。色々な思い出が永遠に残る「私のタイ」であります。

 私はその後、ホンダを退職しVWAUDI 日本(社長)、日本GM(社長) 1994 ~ 2002 年と転職致しました。タイでの経験が無ければ、そのような仕事にもめぐり合う事も無かったと思っております。現在はタイとの直接の関わりは、 JTBF の自動車部会だけです。また、自分の会社を作り、講演業(経営やリーダーシップ)を生業にしております。

 最後になりました、プミポン国王陛下のご長寿を心より願っております。ありがとうございました。


満連絡先:
270-1164 我孫子市つくし野3-3-1001
佐藤満国際経営農業研究所
04-7183-0463(T)04-7183-0469(F)
cbb53430@pop06.odn.ne.jp
Homepage: www.satomitsuru.jp
mobile: 090-4067-5853


(元ホンダカーズタイランド社長)