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バックナンバー 2013-08

「フラッシュバックタイランド」
タイ国日本人商工会議所「所報」より転載

~元タイ駐在員のその後~ 第12回

JTBF顧問会員:丸子博之
2013/8/01

You, too

Bangkok 着任三日目に、電話を受けた。「Heritage Club」のChairman と称する退役将軍からと秘書が告げた。聞けば定例午餐会で講演して欲しい。英語で45分程度、その後質疑。結構なお話だが時間がとれない。誰か他にと答えたところ、長年何人もの日本人ビジネスマンに頼んだが全員断った。「You, too!」やはりだめか。この一言がタイ着任早々の一日本人に火をつけ、めくるめく様なタイ駐在四年間の幕を開けた。
二カ月後に講演。俄か勉強、未熟な内容であったが、日泰間係の将来、日本企業のタイ投資につき、風呂敷を広げ、「Bankok Post」「Nation」他タイ有力紙に大きく取り上げられた。社業優先、出しゃばらず、分不相応な事は避けるのが日本社会のしきたり。講演など引き受けてぼろを出さないかと社内は心配した。気がはやく、すぐ血が騒ぎ、頼まれたらいやとは言えない自称最後の江戸っ子。NY 駐在時代ご縁があり、親しいお付き合いが続いていた David Rockefeller 氏の一言が胸をよぎった。「人間、Public Mind を持つことが大事」。言葉が人を動かすとはこのことだろう。

タイ国日本人会

タイ二年目の1993年に日本人会会長に引っ張り出された。翌年には JCCB 会頭就任が予定されており、再三固辞したが当時の三村洋三会長初め、関係者の方々に詰め寄られ、一年のみの条件つきで押し切られた。余程世話好きと思われた様だが当人は社交性に乏しく、シャイで口下手、典型的な知性派体育会系。会員 7,000 人、法人会員600社の大所帯、社業を抱えながらの公務は想像を超えるものであった。しかも、その一年が「日本人会創立80周年」の年。日泰記念式典、曽野綾子女史の「日本の品性」と題する記念講演、数々の記念行事。ラムウォン・盆踊り大会、八千代連社中の方々の特別賛助出演を得て、コンタイ、イープン17,000名余参加、盛大に挙行された。懐かしい思い出であるが、恩田大使・大塚公使を初め大使館、清水一智応援団長、多くの役員の方々、川満事務局長のご尽力ご支援に感謝のほかない。日本人小中学校の土地問題、バス輸送体制等急増する生徒の受け入れ態勢造りにも当時の石井学校理事長、大井・小山・本村会計担当理事、安富校長・吉野事務局長と奔走した。

泰日協会

ソンマイ会長が逝去された後、会長は数年空席、タイ側代表と日本人会会長が Co-Chairman を務めていた。恩田大使と相談し、元外相、侍従長 Arsa Sarasin 氏を担ぎ出し、日本側は副会長とした。Arsa 氏とは誠に息が合い、ほぼ毎週会合を持ち、TJA 主催として、アユタヤ・ツアー、泰日合同 Laos 振興 Mission, 文化講演会、合同音楽祭等多彩な活動を行った。Arsa 氏は今なお侍従長をはじめ多くの要職にあり、「Thai・ Laos 協会」会長も務めておられる。

盤谷日本人商工会議所

1994年5月宮田勝己会頭(泰三菱商事社長)の後任として第31代会頭に選出された。巡り合わせとはいえ、こちらは創立40周年であった。記念式典、記念誌発行を初め、チュアン首相にお願いした講演会、日本から故城山三郎氏をお招きした記念講演会等々多くの行事を開催した。日本からのタイ投資は急増し、JCC 会員は1,000社を越え、当時海外の日本商工会議所中最大。バンハーン内閣発足時の JCC・FTI(タイ工業連盟)共催、経済閣僚との TV 討論会他、 Convention, Symposium が相次ぎ、激しい渋滞の中を走り回った。更に40周年を機に会員企業各社の多大な協力を得て、初年度に5,000万円が集まり「JCC 育英基金」を設立した。会頭職は帰国直前迄の二年間であったが日本企業、日本人社会の連帯感が強くなると共に、タイにおける日本の status が高まり、日泰の友好関係が一段と深まる事を実感した。JCCB 役員・理事の方々の献身的なご尽力、布川専務理事の奮闘は忘れられない。

外国人商工会議所会頭会議

タイには当時24の外国人商工会議所があり、24名の会頭が月一回昼食会を開催し、FDI・外国進出企業に関わる諸問題を協議していた。議長は英語が母国語の米・英・加・豪が一年交代、輪番制。JCC の新米会頭が出席したその日に、最大投資国の日本が議長にならないのはおかしいとの声あり、多勢に無勢、23対1 をもって議長に祭りあげられた。議長はなにをするのか。司会進行を務め、論客揃いの会頭達の意見を纏め上げ、会議の後翌朝までに「Position Paper」を全員に配布。更には外国企業を代表して、FTI 会長と共に首相主催月例「内閣経済会議」に出席、P.P.を基に意見具申、政策提言。日本本国ではかかる会議には秘書役が同行、事務をこなすが、海外では通用しない。一仕事であったがかえってお互いに親密度が増したようだ。チュアン首相、経済閣僚とのお付き合いが濃くなったのは幸いであった。

AIT

「アジア工科大学(AIT)」との関係も記したい。1959年バンコックに設立、修士・博士課程1,000名以上の学生が学びアジアの MIT と呼ばれて高い評価を得ている。当時の North 学長からの懇請を受け、1995年8月17日、卒業記念講演を行った。例年プミポン国王が出席、記念講演者にはシリントン王女、英国フィリップ殿下他世界の著名人が名を連ね、日本人としては過去35年間に阿部・大来両外相・福田筑波大学長他六人目、経済界からは初めて。帰社すると大勢の N.S. が社長室の TV の前にいた。当日のプチャカーン紙が TV のライブ放映予定を大きく報じたらしい。ネイハンよかったと拍手された。日本が政・官・財・学挙げて支援し、ASEAN 諸国を主に20ヶ国が協力して設立した工科大学院 AIT での卒業講演は大変名誉なことであった。

タマサ―ト大・SIIT

日本の経団連が資金協力し、タマサ―ト大に工学部を新設した。後日シリントン工科大学となった略称 SIIT である。JCC 会頭時これも月一回の「Board of Trustee」(即ち理事会)に出席した。B.O.T. メンバーは Chokchai/FTI 会長、Chumpol/Siam Cement 会長、Niramol/タイ Toshiba 会長、Chirayu/Crown Property 会長等10名、大いに親交が深まった。後日談を紹介。筆者の母校一橋大学はタ大とは30年来の姉妹校関係にあり、学生を相互に留学させ、お互いに研究者も受け入れている。2004年にタ大は創立70周年を迎えた。多くの記念行事が企画されたが、6月にバンコックで開催された一橋との合同シンポジウムがメインイベントであった。一橋側は当時の石学長(政府税調会長)、清水副学長(日本金融学会会長)、竹内教授(国際経営戦略、現ハーバード経営大学院教授)、タ大はチュアン首相、ソムキット副首相他が出席、筆者は両校から招待されてバンコクでのシンポに参加、Concluding Remarks、総括講評を担当した。

Princess Mother

チェンライの北方、山の上に王母殿下の宮殿がある。廻りは色彩鮮やかな南国の花々で埋め尽くされ、まさに天上の楽園。そこに王室プロジェクトの「DoiTung 開発プロジェクト」があり、三井物産は外国企業として唯一参画し、麻薬撲滅運動の一翼を担い、病院・教育施設新設、高所農業開発に貢献してきた。当時泰国三井物産の傘下企業は150社にのぼったが当プロジェクトは大幅赤字続きで撤退案件の筆頭。当時物産は独立採算制をしき、泰物は欧州、米国物産と並ぶ海外三大拠点であり、店長には大きな権限が与えられていたが、赤字は目立つ。本社の経営会議でいつも吊るしあげられた。なんとか持ちこたえたのはタイ王室と Chatri Bangkok Bank 会長の後押しがあったからだ。JICA 資金借り入れもあり、藤井大使、後任の恩田大使ご夫妻を王宮にご案内した。王母殿下は90歳、ご高齢の為面会は身近な王室関係者のみとのことであったが、宮殿での Afternoon Tea に呼んで戴いた。 Disnadda 殿下、Arsa/Chatri 両氏の采配のお陰だ。米国留学途上、日本に立ち寄り、鎌倉・京都・奈良を訪ねたことを懐かしそうに話しておられた。60 歳の時にスイス留学、数学・天文学を学び、スキーも楽しんだご様子。天上一面には星座が見事に彫り込まれていた。

Gen. Prem

Sathorn に物産・盤銀の J/V 不動産会社が高層ビルを建て、泰物社屋が完成した。棟上げ式に主賓として Gen.Prem 枢密院議長(元首相)をお招きしたことから親交が始まり、ご自宅にもお招きを受けた。無口なお方で二人だけの時は当方のご進講も無く、静謐な時間が流れた。武人らしく、いつも毅然としておられ、周囲を圧する aura がただよっていた。生涯独身を通され、「ラックンカオレオ」が愛唱曲なのは良く知られている。帰国の前日、突然王宮に呼ばれ、並み居る元老・将軍の前で Gen. Prem から感謝状を戴いた。予期せぬ出来事で言葉も無かった。

JTBF

タイから帰国後、タイOB 会を母体 にして、JCC OB による「日タイ・ビジネスフォーラム」(JTBF)を設立した。Charter Member は吉川(トーメン)・森田(フジクラ)・水谷(JAL)・小山(三井銀行)水谷(JETRO)・上東野(三菱電機)の諸氏。会長に担ぎ出され、2008年迄6年間日泰の為に両国を結ぶ懸け橋、応援団として微力ながらお役に立てたと思う。歴代の駐日タイ大使、BOI 長官、恩田・赤尾両大使、ABIC 理事長に顧問、Arsa Sarasin 氏には名誉顧問になって戴いた。C.M. に加え中核メンバー、委員長職の石井・有川・奥村・上月・篠崎・渡辺・吉松・丸山の諸氏、多くの会員に支えられた。吉川、篠崎両事務局長の献身的な努力は特筆したい。設立6年後隠居、三井住友の北山禎介氏に後任会長をお願いした。これからは更に世代交代、若い力が必要となるだろう。因みに JTBF の名称は Arsa Sarasin 氏他タイ側要人に諮り、C.M. で決めたものだ。タイの縁ではあるが人生晩年生涯の盟友が出来たのは JTBF の存在が大きい。

戦略と人脈

「原則があって外交上手な国イギリス、原則が無くて外交上手な国タイ、そして原則が無くて外交下手な国、某国」、国際社会で云われてきたアネクドートだ。日本は決して外交下手ではない。柔軟な外交姿勢は評価されるが硬直化した覚悟無き無策は国を危うくする。リーダーには秀でた知見に加え、透徹した国家感、強い使命感が求められる。戦略無き人脈は脆い。人脈無き戦略は彷徨う。タイでは戦略を人脈が支える。人脈維持には誠意が不可欠だ。日本そして日本人がこれほど大事にされる国が他にあろうか。日本にとって日米関係はもとより重要であるが、ASEAN との連携、日泰の400年に亘る友好関係を決して忘れてはなるまい。タイの発展、日泰関係の深化を祈るばかりである。

現在、
バンコック銀行顧問
タイ工業連盟名誉顧問
JTBF 顧問
日タイロングステイ交流協会顧問