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バックナンバー 2013-09

「フラッシュバックタイランド」
タイ国日本人商工会議所「所報」より転載

~元タイ駐在員のその後~ 第13回

JTBF会員:吉田研一
2013/9/01

はじめに

 上司から「タイへ行って工場を建設し立ち上げて来い、2年も行けば十分だろう」と言われてラヨンの石油化学コンビナートダウンフローの一つである塩ビ関連プラント建設のために1988年9月にタイへ赴任したが、ラヨンのあとバンコックの仕事があり帰国したのは8年後の1996年10月で、私の8年分の人生は切り取られてタイに保存されている。
 三井東圧化学(MTC・現三井化学)は、1973年にサムットプラカンに工場があった Thai Plastic and Chemicals (TPC) へ、塩化ビニルポリマー(PVC)の製造技術供与と出資をし、私はその時から技術面の担当だったし、TPC のラヨンプロジェクトにも最初から参画していたので、TPC へ出向を命じられた時も、来るべきものが来たか、の感じだった。
 以下は私の時系列的フラッシュバックタイランドである。

 

ラヨン石油化学プロジェクト

 1980 年代の初めにタイ政府がチャーチェンサオ県、チョンブリ県、ラヨン県の3 県にまたがる、総投資額100,000百万バーツ(当時のレートで約3,800百万USドル、約9,000億円)の Eastern Seaboard Development Program (ESDP) を発表し、ラムチャバン港や新空港の建設計画等がある中でシャム湾350Kmの沖からの天然ガス上陸地のラヨン県マプタプットに、天然ガスを原料とする石油化学コンビナート建設を最優先プロジェクトとした。必要なインフラと原料エチレンセンターは政府が担当し、ダウンフローは民間担当として参加企業を募ったのが、ラヨン石油化学コンビナートの始まりだった。
 TPC はこの機会に、塩ビ関連三プラントで石油化学コンビナートに参加することを1984年ごろに決めた。タイ石油公社(PTT) が51%出資の政府系の会社 National Petrochemical(NPC)---エチレン315,000 T/Y、プロピレン105,000 T/Y --- が中核となり、そのダウンフローの、ポリエチレン製造の Thai Polyethylene (サイアムセメント)、同じくポリエチレン製造の Thai Petrochemical Industry (TPI、ただし建設サイトはラヨン市の東の既存敷地内)、それにポリプロピレン製造の HMC Polymer(メトロ、盤銀グループ)と共に、TPC は塩化ビニールモノマー140,000T/Y、PVC 60,000T/Y、苛性ソーダ 26,000T/Y、塩素 23,000T/Y の製造で参加し、海岸のタンクヤード及び液体桟橋の建設を含めて約200 億円を投じたが、その建設本部長として私は土建工事が始まった頃にタイに赴任した。
 プロジェクトがスタートした時にまず危惧したことは、NPC とダウンフロー4社が同時期に完工し、スタートできるだろうか?だったが、予定通り1989秋、即ち1989年11月に国産天然ガスと国産工業塩を使ったタイ初の石油化学コンビナートは順調に立ち上がった。
 コンビナートの予定通りの完成にタイ人が「タイでは奇蹟に近い」と洩らしていたが、各社の努力と官民の協力もさることながら、4社の建設コントラクターが全て日本のコントラクターだったことも大きいと思っている。日本人はスケジュールを守る、と言うのをタイ人は改めて認識したようだった。
 TPC の計画段階では5年後をフル稼働としていたが、当時タイは猛烈な勢いで経済発展しており、立ち上がり即フル運転となりすぐに次の増設の検討に入ったが、これは嬉しい誤算だった。
 初めて建設予定地を見たのは1985年2月で、当時は国道3号線から天然ガスパイプの上陸地の海岸まで未舗装のがたがた道があるのみで、一面低木が繁った土地だった。そのグラスルーツにタイで最初の石油化学コンビナート建設に関与できたことは化学屋の冥利に尽き、タイの石油化学工業発展に貢献できた事は私の財産の一つである。
 プラントが営業運転に入ったら工業所長を引き続きやることになったが、運転指導に来ていた日本人は帰国し、タイ人約350人のなか、日本人は私と技術スタッフの2人だけだった。その後3年間大過なくすごせたのは、優秀なタイ人スタッフに恵まれたからであった。当時日系の会社は他にはなかったので、マプタプットで日本人を見かけることはなかった。結局ラヨンには1993年3月までいて、4月からはバンコック勤務となり帰国は当初の予定よりはるかに遅れることになった。
 MTC はその頃工業樹脂や化学品の合弁会社をタイで立ち上げており、それらを統括するために、TPC の役員は兼務のまま、MTC バンコック駐在員事務所と現業を持ちながら、それらタイ合弁会社の持株会社であった MTC タイランドを見ることになり、バンコック勤務となった。
 1989年頃まではラヨン市やマプタプットには外国人が宿泊できるホテルやアパートはなく、4年間はパタヤとサタヒップの中間にある、漁村バンサレーの海岸にあった静かなコンドミニアムに居を構え、バンコックへは会議等のため週平均1~2回来ていた程度だったが、以後は喧騒のバンコックが常駐の地となったわけである。

バンコク日本人商工会議所(JCC)

 バンコックに来た翌年の1994年4月に JCC 理事にさせていただき活動に参加するようになったが、MTC からは初めての理事で化学会社からは2社目だった。2年半の短い期間だったが想い出は多い。
 JCC では新米理事だったので、化学品部会と環境委員会のそれぞれ副部会長と副委員長を務めさせていただくことになったが、化学品部会長は旭硝子、環境委員長は帝人だった。
 環境委員会では、廃水等規制値が工業省と環境庁で数値が違っていて、対応に苦慮したことなどあったが、特に問題も無かったこともあり、殆ど委員長まかせで過ごした記憶しか残っていない。
 一方、化学品部会では「タイの化学産業の概要」(1995)を発刊したことが印象に残っている。タイでは、その業界関連のまとまった資料や統計を探すことは大変で、化学業界も同じでタイの化学産業の全体像は判らない状況だった。そこで JCC 化学品部会でタイの化学産業についてまとめる計画が決まり、総合化学会社ということで私が執筆者兼編集長役を言い付かり、約80社の化学品部会会員の協力を得て計画が決まってから約半年で小冊子「タイの化学産業の概要」(1995)を発刊することができた。完璧とは言えないがタイ企業のデータも記載されており、タイでもこれほどまとまった化学産業の出版物は目にしたことはなく、会員には勿論のこと他部会にも資したと思っている。
 しかし先年のマプタプット問題で明らかなように、タイの化学産業は規模、製品の種類共に当時とは比較にならないほど発展し、会社の離合集散もあり、様変わりしているようなので、今はもう時代遅れとなった「タイの化学産業の概要」(1995)は埃をかぶって倉庫入りとなっていることであろう。
 化学品部会ではゴルフのことも忘れられない。化学品部会ゴルフは毎月第一土曜日にサイアムカントリーで開催されていて、会員 TPC の立場で1988年の12月から参加していた。1989年5月の例会で72のスコが出て本人がビックリで、それまでの自己ベストが76だったので、まさにハプニングのスコアだった。その頃はタイのチャンピオンコースと言われていた難コースでの72は価値があり、ゴルフ人生最初の72だったので嬉しさもひとしおだった。72は過去の化学品部会の最小スコアで、帰国するまでは破られず、帰国後数年経っても破られていないと仄聞した。現在はどうなっているのかな?などと、時々思い出している。

日タイビジネスフォーラム(JTBF)

 帰国後は或る化学品の団体に籍をおいたので、タイとの関係はなくなっていたが、2002年の JTBF 発足時に会員になりタイとの接点ができた。
 2年前から教育支援委員会の委員長を引き継いでいるがこの委員会は泰日工業大学(TNI)開学まえに TNI から講師派遣等の協力要請を受け、その要請に対応できるよう設立されたものである。
 前委員長時代には TNI の日本側対面の日タイ経済協力協会(JTECS)をはじめ、タイ大使館、JICA、などと協力して TNIへの講師派遣等の助言をするなど協力してきたが、TNI も今年二期目の卒業生を送りだし、学校運営も軌道に乗ってきており、講師のリクルートも TNI 自身でやるようになった。
 タクシン政権時代に始まった「タイの各郡から1人ずつ優秀な高校生を選び、英語圏以外の国へ留学生を出す」(ODOS)という留学生派遣計画で日本へも2007年120名、2008年150名の留学生が来ていた。タイ大使館の教育担当者から留学先など諸々の相談、助言を求められ JTECSと一緒に対応してきたがタクシン首相が追放され本プロジェクトは留学生を2回送っただけで停止されてしまった。将来の親日派予備軍がいなくなった事は残念なことと思っていたが、インラック政権になってから ODOS 復活の動きがあると聞いている、実現すれば喜ばしい事である。

終わりに

 65歳で42年のサラリーマン生活を終えたとき、頭の老化防止にタイ語の勉強を始めた。在タイ時はタイ語は敬遠し、ローマ字表記の発音記号で憶えたタイ語もどきのタイ語で、運転手とキャディーに自分の意思を伝えるためだけの手段でしかなかった。
 日本のタイ語学校でタイ語の ABC から習い始め、11年目になった今でも細々ながら続けている。
 65の手習いだったのでタイ語の習得度はたかが知れているが、在タイ時に今ぐらいのタイ語能力でもあったなら、また違う楽しみがあったかもしれない、と思う時がある。
 この年齢の今でもタイ語を続けているのは、8年分の人生をタイに残してきたタイ大好き人間のノスタルジアであろう。
 在タイの8年間は「タイ経済上り坂、最高!」、そして馬齢を重ねた今は、某 TV 番組にあやかって、「人生下り坂、最高!」と、近頃よく耳にする「最高」と言う言葉で拙文の終わりとしたい。
 最後になりましたが、投稿の機会を与えていただきありがとうございました。在タイ時を含めて私にとっては2回目の寄稿となりました。貴所の益々のご発展を祈念致します。