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バックナンバー 2013-10

「フラッシュバックタイランド」
タイ国日本人商工会議所「所報」より転載

~元タイ駐在員のその後~ 第14回

JTBF会員:荒川詔四
2013/10/01

はじめに

 私は、タイには3回、計13.5年駐在しました。1969年~71年、77年~81年、そして最後が92年~97年になります。JCC理事は最後の駐在期間で、その時は労務委員長でした。

駐在1(1969~71)

 1969年からの最初の駐在は、入社2年目のほやほやの新入社員で、操業開始間もないタイヤ製造販売会社に派遣となったものです。まだ全く使い物にならない者が、工場の労務、総務、そして販売をやらされることになった。なんだかとんでもない会社に入ってしまったという感じでした。ランシットに建設された工場に行くのには、田圃の中の舗装悪路一本道をとぼとぼと、という感じで、工場の周りもまだ田圃でした。確か、近くにはクラボウさん、帝人さんやHOYAさんの工場があるだけで、民家や商店などは全くありませんでした。間もなく3直稼働となり、時々真夜中にタクシーで工場に行って、皆ちゃんと働いているか、順調に稼働しているかを見回りに行ったものです。工場のモーター音はしていたが、かなりの作業者が工場の芝生で寝込んでいた光景と、乗ったタクシーのオンボロなこと!床に穴が空いているものや座席の背もたれなどは大抵ビニールでカバーされ、それにもパッチがあたっていたということを、40年以上たった今も鮮明に覚えています。言わずもがな、今のメータータクシーなどはずっと後に出てきたもので、当時は乗る前に値段の交渉をしなければなりませんでした。片道20バーツぐらいでしたでしょうか?(当時1B=18円でした)。

 バンコク市内も今とはずいぶんと違っていました。まず、木が多くありました。ピンクの花咲くねぶたの木のようなものが多かったですが、Flame Treeと呼ばれる真っ赤な花をつける木も結構多ありました。それと、クローン(運河)がまだ大分ありました。泥水に飛び込んで遊んでいる子供達が結構いました。今は全くその面影はありませんが。トゥックトゥックも沢山あり、よく乗りました。

駐在2(1977~81)

 2回目の駐在は、販売の実質トップとして着任しました。この頃になると製造・販売の基盤がかなり固まり、こちらも中堅若手社員となり、それなりに駐在員の形ができていた。

駐在3(1992~97)

 3回目はタイ会社のトップとして赴任。家族帯同で赴任を予定し、家族の船便も万事準備でき赴任しようとした矢先に、タイ史上最悪のクーデターが発生。家族の渡航自体が一時サスペンドされるという最悪のスタートを切った第3幕でした。一方、タイも経済発展の離陸が始まった頃でした。タイヤの第2工場新設が必要と本社へ提案。しかし、この頃の日本は急激な円高となっており、日本からの輸出は大幅な赤字で、今後は輸出ではダメで、日本の既存工場の2つや3つつぶさないと生き残れないとバタバタしていた頃でした。本社の役員は誰もが、タイなんかに第2工場など何を寝ぼけたことを、と取り合ってくれません。タイと日本は違いますと、話が分かりそうな役員を捕まえて説得、何とか経営会議と取締役会の承認を取り付け、新設を実現しました。これがなかったら当社グループにとっても大変なことになっていたでしょうし、これが成功したから、その後いろいろな事業体をタイに建設出来、今日に至ったと信じています。

 ところで、駐在最後の年(1997年)に例の通貨危機が発生。新工場建設は全額借入で賄い、オフショアも使いましたが、全額ヘッジしていた為、為替差損ゼロだったことが会社に対する大きな貢献であり、自身のその後の会社人生にとり貴重な実体験にもなりました。

 この時期にJCCでは労務委員長を務めた訳ですが、ナワナコン工業団地などでの労務問題多発と労務対策事例集や、エイズ問題深刻化と企業としての対応マニュアル編纂など、定期業務以外にも積極的に取り組み、労務委員会は結構忙しかった記憶があります。その時のメンバーの方々とは帰国後もちらほらとコンタクトがあったりしました。編纂した本は今でもJCCのリストに載っているでしょうか?

近況など

 帰国後、中国、アジア・大洋州担当、欧州事業の責任者としてベルギー駐在、海外タイヤ事業全般の責任者などを務めたあと、2006年3月から2012年3月まで、6年間代表取締役社長を、そして、現在は取締役会長を務めています。

 さて、タイには、タイヤ製造・販売事業会社、多角化事業会社、原材料製造会社など数多くあり、重要な拠点の一つになっていますが、昨年よりBOIのHonorary Investment Advisor(HIA)にも任命されています。従いまして、タイは頻度多く訪問すべき所ですし、行けるチャンスも多いわけですが、実際はなかなか行けません。社内的には、タイに行くというと、大好きなタイ料理三昧の半分遊びに行くような羨望のまなざしで見らますが、たまに実現すると、あっちこっちの工場めぐりで息もつけないような超過密スケジュールになっているのです。困ったものです。少しは息が付ける手加減があるだろう、何とかならないものか、といつもボヤキが出ます。

 そうそう、最近のタイとの関わりといいますと、一つは今年の2月にチットラダパレスでシリントーン王女に拝眉し、タイ洪水被害へのお見舞金としての寄付を、当グループを代表して献上し、又、3月にはインラック首相の訪日時に赤坂の迎賓館で短時間でしたが、会見しました。

 タイの洪水に関しては、当社は被害地域(ノンケーとランシット)に2つの工場がありますが、タイ人従業員が自分達の工場という気持ちで、土嚢を手作りして積み上げたり、塀を補強したり、果ては大勢工場に泊まり込んで監視したりして、浸水などの被害を最小限にとどめてくれました。工場への浸水は全く無く済みました。かなりの人にとり自宅だって大変だったろうに。タイに行ったときにその時の動画や写真などを見たのですが、まさに感動ものでした。こういうのがタイ人なのですね。皆に当社の今年度のグローバル貢献賞を与え称えました。

タイとの関わりの中で学んだこと(タイで仕事をする当社従業員に言っていること)

 西欧の列強諸国が各地で植民地化を進めていた時代に、周りの国がことごとく植民地化される中で、タイは唯一独立を保った国です。(日本や韓国などは植民地化されませんでしたが、タイの置かれた状況とは違います)歴代国王の、国籍、人種を問わない人材登用、いわばダイバーシテイなどの良く考えられた諸々の国策、そして、とりわけ外に対しての巧みな外交策が功を奏し、列強諸国が一番捕りたかったインドシナ半島の要のタイは、どこにも飲み込まれなかった訳です。この点が非常に大事なポイントになります。

 ダイバーシテイについて一例をあげますと、たとえば華僑といいますが、タイでの状況は植民地化された他の近隣諸国とは大きく違います。ネイティブと同化し、血が混ざりハイブリッドで能力が向上しています。印僑も同様。華僑、印僑ではなく、彼ら自身が、中国人やインド人と言っても、それは人種のことを言っているのに近いです。タイが彼ら自身の母国であり定住の地なのです。何かあったらどこかに逃げる準備を日々怠りない、といった人達が、読んで字の如し、僑=仮住まい、の華僑や印僑です。そして、植民地政策で作られた、いわゆる2重構造、3重構造の"僑"と"ネイティブ"との深い溝がいまだに消え去っていない、ネイティブとは水と油の関係が見え隠れし、時として2者間の騒動が起きたりします。

 タイの人達は概して、一見大人しい、遠慮深い、引っ込み思案などといった印象を受けることがあります。しかし、外国人と一緒にやってゆく総合能力は、実はタイ人の方が日本人よりはるかに勝るのではないでしょうか。殊更、国際感覚とかダイバーシテイの必要性など、いわなくとも既にそうなっていることは、上記の歴史が厳然と物語るものであると思うものです。

 私は、タイとの長いお付き合いから多くのことを学びましたが、この点は特に強調しておきたい、常に心に留めておくべき事だと思います。

 最後に、タイに駐在、居住されておられる皆さん、常夏の国で大変ですが、お元気でご活躍されることを祈念致します。



元JCC労務委員長、元タイ・ブリヂストン社長