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バックナンバー 2013-12

「フラッシュバックタイランド」
タイ国日本人商工会議所「所報」より転載

~元タイ駐在員のその後~ 第16回

JTBF会員:小山光俊
2013/12/01

タイへの赴任と交流

 1992年5月、TVでタイのクーデターのニュースを他人事のように見ていたが、その数日後5月29日に内示、6月1日バンコック支店長の発令。しかも混乱のさなか、取りあえず赴任せよと言うことで、6月4日に赴任。誠に慌ただしいタイでの3年間の始まりであった。

 当時、タイ国内ではクーデター騒ぎ、隣国のカンボジアでは内戦と不安定な状況だった。しかし、赴任後クーデター騒ぎが収まると、大変幸運なことに日系企業のタイ進出ブームが始まった。会計理事を仰せつかっていたバンコク日本人商工会議所の加入企業も増加し、日本人学校も教室が足りなくなることを心配するほどであった。

 当時タイで仕事をしていた仲間には「軒先を借りて仕事をさせてもらっている」と言う共通の意識があったのだと思う。日本人会にしても商工会議所にしても、タイ国への貢献の集まりにはみんな積極的だった。日夜様々な会合でお会いするうちに、丸子博さん(元三井物産)・吉川和夫さん(元トーメン)・森田仁美さん(元フジクラ)・石井利一さん(元丸紅)・上東野幸男さん(元三菱電機)など多くの方々との、家族ぐるみの交流が始まった。また、大使公邸の庭で盆踊り大会を開催して頂いた藤井宏昭大使、公邸の隣に居住していたことが縁でしばしばお邪魔した恩田崇大使、タロック(タイ語で冗談)を教えてもらった大塚清一郎公使(当時)など大使館の皆さんとも官民の隔てなくお付き合いを頂いた。

 タイ大蔵省を訪問した時、理財局にターダーさんという、日本語が大変上手な人とめぐり合った。良く聞いてみると高校から日本に留学したと言う。「東京学芸大学付属高校」だった。なんと後輩であった。

 タイ王国と当時の文部省の間で高校生を受け入れることが決まり、1975年から毎年5人の国費留学生の受け入れ校となった。留学生は卒業後、日本の大学や大学院で学び、帰国してタイの政府機関や大学に勤務している。当時同窓生がすでに30人以上は帰国していたと思う。BOI のボンゴットさんやその後サイアムジャスコの社長をされたソムサックさんもおられた。3~4ヶ月に一回、タイ・レストランや自宅で、時には15名くらいが集まった。大変に日本好きの方々で、各省庁に勤務されており、日本語ですべて通じるのでいろいろな場面でお世話に なった。

タリン大蔵大臣のこと

 在任中はタリン大蔵大臣とは随分親しくしていただいた。丁度私が赴任していた1992年から95年までの大蔵大臣であり、その後97年11月のタイ通貨危機直後に誕生した第二次チュアン内閣でも大蔵大臣として登場している。

 タリンさんは米国のハーバード大を卒業した方で、私が若いころ日本経済研究センター・全米経済研究所(NBER)や銀行の調査部にいたことを知ると、タイの将来の基幹産業はどうあるべきかなど、いろいろ議論をされた。裾野の広い自動車産業をタイ産業の中心にすえ、東南アジア・西アジアへの輸出基地に育成していくこと、その青写真を実現するために様々な企業誘致の特典を用意することが、当時の結論であった。

 以前からの知りあいのソニーの盛田昌夫さん(当時オーディオ本部長、現ソニーミュージック会長)がカーオーディオの工場建設の候補地探しにタイに来られ、この話をして工場建設をお勧めした。それがバンパコンの2 つの工場として実現した。私以外は30代後半だった盛田さん、貝沼由久さん(現ミネベア社長)、森部茂さん(現ミツミ社長)の4 人でタイ料理とカラオケに興じたのは懐かしい思い出となりその後も、交流が続いている。

 タリンさんとの思い出にはもう一つ忘れられないことがある。タリンさんはタイの経済発展には技術を伴う資本流入だけではなく、金融の自由化も必要と考えていて、自由化策を矢継ぎ早に打ち出した。その最初が BIBF という海外から調達したドル資金をタイ国内の企業に貸し付ける支店の認可であり、その成果によって、タイバーツの取り扱いが出来るフルブランチの開設を認めることであった。

 タイは日本の銀行にとって魅力的であった。BIBF 支店の開設には新たに6行(三菱・住友・三和・第一勧銀・興銀・長銀)が認可された。ところが、その成果で将来のフルブランチ認可が決まると言うことで、新規参入6 行の猛烈な貸し出し競争が起こった。タイの企業はドル建ての安い金利で借り入れをすることが極めて容易になった。当時、ドルの借り入れ金利は3~4%、タイバーツの借り入れ金利は8~9%だったので、こぞってドルで借り入れタイバーツで運用する(使う)動きが起こった。当時のタイバーツの預金金利も5%くらいだったから、激しい企業は銀行からドルで借り入れ、同じ銀行にタイバーツで預金して利ざやを稼ぐものもあった。こんなことが出来るのも、タイは1ドル26バーツの固定相場制を取っていたからであるが、金融自由化・国際化の推進と固定相場維持と言う矛盾した金融・為替政策は長続きするはずはない。

 当時、関連会社であった証券会社「タイ・さくら」の店頭には9時前から金持ちがつめかけ、開店と同時に争って席に着き、浮かれたようにボードを見つめていた。上がれば拍手、下がればため息、まさにバブルであった。

 タリンさんとは何度も議論し、引き締めを求めたが、一度放った自由化の波は最早、とどめられるものでもなく、行き着くところまで行くしかなかった。

タイバーツの切り下げ前後

 1995年の6月に帰国したが、新職場は国際審査でタイを含めて海外の与信を統括して管理審査する部署であった。当然、タイも責任範囲であったが、とりわけ切り下げの前年の1996年の9月にタイバーツ切り下げについて、注意情報を発信したのは鮮明に記憶している。タイでは1990年くらいから労働者の最低賃金を毎年7%位引き上げている。その間、タイバーツはドルと固定しており、いわばドル建てで賃金を上げていたことである。タイの生産性の向上を毎年3%と見ても、毎年4%は国際的に見ても上げすぎとなる。

 物価上昇率とか他の要因もあるのでそのままでは使えないが、銀行の簡単なモデルを使っても、1ドル39バーツがほぼ適正と出た。50%近い切り下げとなる。警告は世の中でうわさになってからでは対応できない。タイの為替レートの矛盾を銀行内は無論、タイ進出企業の親しくしていた CFO の方々にもお伝えした。多分、1997年7月タイバーツ危機には役に立ったのではないか。

 帰国して間もないころ、在日タイ大使館からタイ勤務経験者として何かタイ政府に要望はないかと言う話が来た。来日されていた副首相にお会いし、タイでのビジネスビザ取得にはいろいろな役所が絡み、時間がかかり効率化して欲しいと要望した。丁寧に書きとめ「わかった。善処する」とその場で回答してくれた。

 その提案が「ワンストップオフィス」としてその後実現するが、当時のチャワリット首相からその開所式への招待状が来た。1997年6月28日のことである。前日の27日に首相府に首相を訪問して、経済談義になった。先の為替の話をし、タイ経済は苦境の瀬戸際にあると話した。「1ドル40バーツを越える大きな切り下げとなるから、為替の自由化はすべきでない。ぎりぎり時間を稼ぎ軟着陸するために、クローリングペッグかワイダーバンドしか手がない」との主張に対し、「計算では1ドル28~29バーツ」と言うのがタイの認識だった。実際はすでに、タイバーツ売りの攻撃に買い支えをして外貨準備が減少し、そうした手が打てる状態ではなかったのであろう。開所式のあと暗澹たる気持ちで帰国したが、やはり、7月2日空港からの出勤途上で「タイバーツ変動相場移行」のニュースを聞いた。果たして1ドル45バーツまで暴落していた。

ふと気がつくとタイ大好き人間に

 私の帰国後、タイで親しくしていた商工会議所のメンバーの方々が続々と帰国された。タイの大使館や BOI 東京の呼びかけなど、様々な機会でよく顔をあわせた。顔を合わせるとそれだけで、昔と同じ仲間になる。時には東京駅の地下街で集まったりしていた。また、BOI 東京にはソンポン所長・ボンゴット副所長がおり、タイ勤務経験者を集めた「タイ OB 会」の活動をしていた。BOI 東京主催の会合等で、多くの方々と懐かしい再開をした。

 96年には恩田大使が帰国され、それを期に夫婦で集まろうではないかということで、幹事役を引き受けた。霞ヶ関の「三井クラブ」で50人くらいは集まったと思う。大変盛り上がり、是非毎年集まろうということになった。その後新年会・ゴルフ会と発展し、さらにご婦人だけの集まりもあると言う。

 こうしたいろいろな会が開催される中で、2002年には丸子さん・吉川さん他様々な方のご努力により、JTBF が発足することとなった。いずれの会も世話になったタイ王国のために何か貢献したいという、いわば「タイ国同窓生」の思いがあると思う。

 同窓会といえば、昨年「タイ・学芸大学付属の会」が発足した。メンバーもタイ側はパタイ商務公使、シントン公使やスターシニー BOI 東京参事官を始め、現役大学生・院生を含めると20人を越える。日本側は同窓生の中でタイに興味のある方ということでタイ駐在経験者など50名を越える。また、バンコクにはソムサックさんやピタックさん(タイ・ホンダ副社長)を中心に100名を超える同窓生がいる。日本とタイの架け橋になりたいと活動している。大変嬉しいし、世話役として今後の活動のお手伝いをしたいと思っている。

 わずか3年という短い間であったが、タイでの経験、そこでの人との繋がりが、自分の人生を豊かにしてくれたと大いに感謝している。



元さくら銀行バンコック支店長/ JTBF 資本市場委員会委員長