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バックナンバー 2014-01

「フラッシュバックタイランド」
タイ国日本人商工会議所「所報」より転載

~元タイ駐在員のその後~ 第17回

JTBF会員:野呂 剛
2014/1/01

時流に乗ったタクシン首相

 タイに赴任したのは、2002年の4月上旬のことであった。まだバンコクのあちらこちらに、97年の経済危機の影響で、建設途中で放置されたビルがあった。当時タイ経済は1997年の経済危機を克服し、高度成長に入った処であり、日本の高度成長期同様の息吹を感じた。そ の高度成長を実現したタクシン首相の人気は絶大であり、批判するタイ人は少数派であった。そんなある時、泰日協会でタクシン首相をゲストスピーカーとして招くという話が、スタポーン会長から出た。泰日協会が近年 LOW PROFILE であり、もっと注目される存在にならな ければいけないとの説明であった。一国の首相を泰日協会のスピーカーとして招待することが、そんなに簡単に出来るのだろうかという疑問が湧き、半信半疑であったが、程なく協会の事務局から、タクシン首相の出席が確認された。暫くして泰日協会の会合がデュシタニホテルで開かれ、幹部7~8名がホテルの入り口近くのライブラリーと呼ばれる部屋で、首相をお迎えすることになった。小生も理事の一人として首相をお迎えすることになり、列の一番左に立つことになったが、首相が到着すると小生が最初に首相と握手する結果となった。周りにはカメラマンが沢山おり、今まで経験したこともないフラッシュの洪水に見舞われた。首相の挨拶は日本とタイの関係は緊密であり、97 年のタイの経済危機の時にも、日本は只一国だけタイに留まり助けてくれたが、今やタイは苦境を乗り越え強力に発展しているという自信に満ちたスピーチであった。翌朝になり、会社のドライバーがゲストハウスに迎えに来て、乗車すると新聞を見せてくれた。そこには前日タクシン首相と小生が握手した時の写真が掲載されていてかなり驚いた。会社に行くと沢山のタイ人社員から「タクシン首相と握手したね」と嬉しそうな顔で言われ、改めて首相の絶大な人気を感じた。

 タクシン首相の施政は CEO 首相と呼ばれるトップダウン方式であり当時の重点政策を幾つか挙げると下記の通りである。
 -世界の台所(タイを世界の食料供給基地にする)
 -アジアのデトロイト(タイをアジアの重要な自動車生産基地にする)
 -一村一品運動(大分県の平松元知事の運動のタイ版)
 - 30バーツ医療制度(貧しい人々が安くで医療を享受できる制度)
 ポピュリズムとの批判もあったが、それなりの成果も上げており、特に自動車については年間生産100万台を突破し、世界でもトップ10 に入る躍進を遂げ、現在の揺ぎ無い地位のベースを構築した。又、農業については政府が農産品を高値にて買い上げる等の優遇措置を施 し、大多数の農民層をタクシンファンにした。しかしその成功が彼の自信を更に増幅させ、タイの王族やエスタブリッシュメントに反感を醸成させ、その後のクーデターの伏線になった可能性がある。

悲惨なインド洋大津波

 2004年の半ばに、バンコクの JW マリオットホテルから連絡があり、同ホテルの地下一階に TSUNAMI という名前の日本食レストランを開くので、開所式のテープカットと鏡割りに参加して欲しいとのことで、開所式に参加した。しかし、それから数か月後に本物の津波がタイを急襲するとは、想像だにしなかった。12月26日の午前、バンコクで初めて経験する大きな地震があった。しかし数時間後に大津波となって、プーケット島やピピ島周辺のタイ南部の海岸地帯を襲い、多数の貴重な人命を奪うとは夢にも思わなかった。クリスマス休暇の時期でもあり、西欧人の観光客が多数犠牲者となったが、日本の年末年始の休暇には早かったのか、日本人の犠牲者はそれ程多くはなかった。その後この津波は、タイだけで5000人強、世界では約20万人の犠牲者を出したインド洋大津波として、人々の記憶に残る歴史的悲劇となった。JCC でも日本の本社とは別に、現地で義捐金を募ろうということで意見が纏まり、短期間に一千万バーツ以上集まったので、タイ赤十字に寄贈したが、その際にはシリントン王女自ら出席された。王女から手が伸び、小生は握手することになったが、翌朝タイ人社員から握手攻めに会い、王女の人気の高さを再認識した。

JCC50周年

 2004年9月27日、JCC 50周年祝賀記念式典を、デュシタニホテルにて、600人を超える来賓、会員をお迎えして行った。JCC は1954年9月27日に30社でスタートしたが、2004年には1200社を超える会員数となっていた。タイ側からはタクシン首相が出席する予定であったが、直前に工事が遅れていた新空港の工事を促進するため、首相自ら閣僚と共に工事現場に野営することが決まり、代理としてスチャート副首相が出席した。又、JCC では50周年を記念するに当たり、目に見える社会貢献で長期間持続するものを残そうということで、バンコク西部 の既にある老人ホームに新たに別棟を寄贈し、タイ社会からも高い評価を頂いた。一方、JCC 50周年史を「タイ経済社会の半世紀と共に」という題名で出版することになり、小泉首相、タクシン首相、歴代の駐泰日本大使、歴代 JCC 会頭にもご寄稿頂き、多数の方のご協力を得て出版することができた。

タクシン首相の盛衰

 2004年の10月に突然に首相府から連絡がありタクシン首相に JCC 会頭として幹部とともに表敬訪問することになった。当時は日本からの鉄鋼に対して AD 関税が課されており日本の鉄鋼業界を初めとして何とかこの問題を解決すべきというのが JCC の課題でもあった。しかし、首相への表敬訪問でその問題を持ち出すのも適当ではないとの考慮も働き会話の進行の過程でそういう話題を出すタイミングがあれば出そうという結論になった。やがてタクシン首相が現れ挨拶をしたがその際にこちらの名前を言いながら握手をしてきた。流石にビジネスマンから政治家に転身した人なのだということを肌で感じた。AD 問題もこちらから切り出す前に首相の方からその問題は来年の早い時期に解決させますとの発言があった。この頃の首相は自信に満ちており絶頂期だったのであろう。

 2005年末にあるタイ人長老に年末のご挨拶に行った。そろそろ失礼しようと思った時に突然長老から「来年はタクシン首相もクーデターで失脚するだろう。」という発言があり、我々はその発言に驚いたが実際にそうなるとは夢にも思わなかった。翌年の9月の晩、会社から電話があり、クーデターが勃発しタクシン首相が失脚したという。びっくりしてテレビを点けると、どのチャンネルもプミポン国王の昔の映像や荘厳なクラシック音楽を流しており、現状を伝えるニュース等はなかった。2005年半ばにはソンティ氏がタクシン批判の集会を始め、毎週金曜日の夕刻には小生の執務室から、真下のルンピ二公園での集会を具に見ることが出来た。タクシン首相の評判を致命的に悪くしたのは、2006年初頭の同氏のシンガポールの国有投資会社 TEMASEK に対するシンコーポレーションの株式売却問題である。株式売却益が2000億円を超える膨大なものであったにも拘らず、キャピタルゲインは非課税であると主張し一銭も税金を支払わなかった。その後6月には、プミポン国王の即位60周年祝賀会が盛大に執り行われた。しかし実行責任者であったタクシン首相の人気が回復することはなかった。日本からは天皇皇后両陛下が出席され、我々在タイ日本人も数十名が両陛下に拝謁の機会を頂いた。

日本への帰国

 激動の2006年が終り、年が明け暫く経った頃に帰国命令がきた。三菱商事の砂糖の子会社である大日本明治製糖の社長に6月に就任するようにとのことであった。幸い日本の砂糖業界で使用している輸入原糖の半分以上はタイ産であり、帰国後もタイとの関係は途切れることはなかった。大日本明治製糖の主要なお客様の幹部の方々が出張でタイに来られており、初対面でなかったことも非常に幸運であった。去る6月に同社の相談役を退任しタイとの直接的な関係は無くなったが、JTBF 等の関係で引き続きタイとの関係が保てるのは有難いことである。

 最後になりましたが在任中に時野谷大使、小林大使に大変お世話になりました事をこの紙面をお借りして深謝致します。



元泰国三菱商事社長/ JTBF 農業委員会委員長