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バックナンバー 2014-02

「フラッシュバックタイランド」
タイ国日本人商工会議所「所報」より転載

~元タイ駐在員のその後~ 第19回

JTBF会員:長門正貢
2014/2/01

1.自己紹介

 私は1972年に日本興業銀行に入行、1997年3月から2000年7月までバンコック支店長としてタイに駐在した。2002年の第一勧銀・富士との3行統合を経て、2006年6月までみずほコーポレート銀行に奉職。その後、富士重工業に転籍、5年間、海外営業を管掌の後、2011年7月からは現在のシティバンク銀行に転じている。このたびタイでの思い出等につきエッセーを、との御要請を頂戴した。この好機を梃子に、自分にとってのタイの昨日・今日・明日を整理したい。

2.昨日その1:バンコック支店長として

 バンコックに赴任したのは1997年3月。それまで三井銀行(当時、さくら銀行)と東京銀行(当時、東京三菱銀行)のみに認可されていたフルブランチ資格がDKB・住友・興銀の3行に新たに認可され、フルブランチ初代支店長としての赴任だった。既に『バブルだ、何かきっと起こる』『バーツとドルの金利差が異常だ』『経常収支赤字のGDP比は94年メキシコ危機以来だ』『バーツ防衛の為の介入資金が底をついて来ているそうだ』との声が日増しに強くなって来ていた・・・。そして、あの日がやって来る。前日7月1日は香港の英国からの返還日。7月1日はタイでは毎年、銀行休業日でもある。皆が香港での式典顛末をテレビで見て興奮して眠りに就いていた・・・。

 7月2日、朝5時、枕元でけたたましい音が鳴る。目覚まし時計を押さえ込んでもまだ鳴っている。電話と気付いて受話器を取ると先方曰く『こちら、中央銀行。長門支店長か?』『長門です』『本日、緊急会議を開催する。タイ銀行頭取と外銀フルブランチ支店長を召集する。午前6時に中央銀行に参集されたい』全てが突然、見えた。『了解。ところで、この6時の会議のあと、カクテルパーティーが用意されているのか?』変化球を投げて見た。少し間が有ってから『この6時の会議は、カクテルどころか、朝食の前なんですよ』。修羅場での見事なユーモアだった。

 参加者がなかなか揃わず、漸く午前6時半、タノン大蔵大臣とランチャイ中央銀行総裁が現れて『変動相場制に移行する』。1ドル25バーツの固定相場との決別、そして燎原の火の如く急拡大するタイ発アジア金融危機の始まりの瞬間だった。 御当局は1ドル27~28バーツを展望していた風情だが、実際は年末には47バーツに、そして翌年2月には52バーツにまで達する。必然的に疾風怒濤の情勢と相成った。一民間銀行として何か、お国に貢献出来ないものか?随分と動いた。各銀行も大きく腰が引けていた時、一つの光が見えて来る。タノン大蔵大臣と膝を交えて議論する機会が有った。『IMFや米銀は金利を上げ経済を冷やして輸入縮減を通じた貿易収支黒字化を急いでいる。しかしブレーキを踏みながら輸出なんて伸びない。タイの輸出中心プレーヤーは中小企業だ。彼らにカネを回したい。駄目か』『中小企業さんを外銀は誰も知らない。無理だ。ただ国に対してなら何とかなるかも知れない』『国は新たに借入出来ないことになっている・・・』『国でなくとも、国もどきの借入人は居ないのか?例えば輸出入銀行はどうか?』こうして当時輸出入銀行プリディヤトーン総裁、タイ中央銀行、タノン大蔵大臣とついにタイ国救済案件第一号・5億ドル案件が10月に結実した。まだまだ疑心暗鬼の外銀さんが多く、参加銀行を集めるのはかなり苦労したが、最終的にはグローバルな銀行が参集し形良く収まってくれた。その後立ち上がる12月の日本輸出入銀行協調ローン6億ドル、翌98年3月のアジア開発銀行協調融資15億ドルも同じ発想に基づく案件であり、ドアを始めて開ける案件になったのではないかと感じている。タイの今日の隆盛を目の当たりにして、金融マン冥利につきる幸せな体験だった。

3.昨日その2:自動車産業に居て

 つい最近まで、世界において全自動車生産台数の8割は、2割の人口シェアを擁しているに過ぎない欧・米・日本・先進国で販売されていた。これからは人口シェア8割を含め全世界70億人が車を求めるようになるわけで、自動車産業は引き続き成長産業だ。特にアジア危機収束以降のアセアンでの自動車購買意欲には目を見張るものがある。特に我がタイは販売需要面のみならず、生産拠点、輸出拠点としても重要で、しばしばタイがアジアのデトロイトと言われる所以である。小生も富士重に異動後は『しめしめ、これでまた大好きなタイにしばしば出張出来るぞ』と秘かに期待したのだが、実際は、5年間のうちたった一度、一泊しただけだった。何故か?

 富士重の工場は日本の群馬県のほか、米国インディアナ州に一つあるだけ。世界中で販売しているのだが、殆どが日本からの輸出である。タイとは日・タイ経済連携協定を結び大いに自由化されているのだが、自動車については何と輸入関税率が60~80%になっている。これではタイ国産車とは太刀打ち出来ず台数は出ない。現に世界全体で70万台ほど年間販売している中、タイでは1,000台程度売れているのみ・・・。

 これがタイの戦略だ。中国等他の自動車立国と大きく異なるのは、タイはこれっぽっちも自国独立メーカー養成という野心を持っていない。場所を貸す、直接投資を歓迎する、自国民を雇用して貰う、自国資本との合弁を通じて自国のビジネス財閥は育てて欲しい・・・。しかし、タイ発の独自ブランド確立とかには全く関心が無い。小さな国が大きなプレーをする一つの戦略、限界ある国が成功の美酒をエンジョイする一つの工夫だと、感じる。名よりも実を取る戦略と言え、恐らくタイは当面はあらゆる産業で同様の方向を推進して行くと思われる。皆がみんな、米国や中国になれるわけではない。この意味からもタイは、世界中の多くの新興国のモデルになりうると、富士重に異動した後、実務を通じて再確認させられた次第である。

4.今日:シティバンクに居て

 2011年6月からシティバンク銀行に移り再び金融界に戻った。アジア通貨危機時は『日本でバブル崩壊を経験し、そして花のアジアに来て、またこの大事件か』と暗澹たる気持ちだった。『こんな大事件、日本とアジアで発生して、もう暫く来ないだろう』と高を括っていたのだが、あのグリーンスパンに『100年に一度』と言わしめたリーマン危機と、そしてその直後、欧州危機が勃発する。

 アジア危機は結局、貿易収支の弱さ、ドルリンクの単純さ、クローニーエコノミーへの警鐘だった。リーマン事件も①グリーンスパンによる行過ぎた過剰流動政策、②サブプライムローンという担保割れ債権の積み上げ過ぎ、③証券化によってリスクの所在が市場関係者から見え難くなった、ことによる必然的事件だった。欧州危機も①弱い経済力の南欧諸国が、ドイツの強い信用力を借りて分不相応に容易に借入を増やしてしまったこと、②ユーロ全体を一つの意思で統括する金融・財政の仕組みが無かったこと、による必然的事件だ。

 多くの人は事件発生後それらの欠陥に気付くわけだが、どの事件でもその発生前に、それらを見抜いた少数の賢者たちが居たのも事実である。市場は歪んだところを何時か必ず突いて来る。アジア危機だけが特別なわけではない。リーマン事件や欧州問題を見ながら、自分自身を含め、アジア危機をしっかり総括して学んでいなかった世界経済界・金融界を残念に思う。これからは常識で変なことは必ず疑う、現在の歪みは必ず将来の市場暴発に繋がる、と肝に銘じたい。

5.明日―日本におけるタイの意義、そして小生の明日

 アセアン設立のそもそもの狙いは中国囲い込みを意図した反共主義国による小国グループ連合だった。しかし、今や、それのみではなくなって来た。特に『隣人中国との平和な共存』が課題となっている現在の日本にとっては、インドやアセアンとの有効な関係構築は一段と重要になって来ている。きめ細かな、心の篭る関係をより深めて行かなければならない。嘗てはアセアンによる日本へのニーズが必須だった。今や、それ以上に日本にとってアセアンが必須になって来ている。そのリーダー格のタイとの友好関係は言うまでもない。安倍第二次政権の最初の訪問地がアセアンであるというのも、けだし必然であろう。

 海外赴任期間は17年、海外出張も数知れない。その中でタイ赴任はたったの3年に過ぎない。が、このタイへの郷愁は何だろう。まずタイ人が素晴らしかった。あのスマイル、丁寧さ、礼儀正しさ、なんとも言えない緊張感の無い、あの癒し系・ゆとり。人との関係を大事にし、一度受けた恩義を忘れない。日本人赴任者同志の関係も、他国赴任者同志のそれよりもずっと密だったような気がする。偶然、個人的に友人に恵まれただけかも知れないが、タイ赴任時、タイ人達とは無論、日本人の友人達とも実に楽しい公私に亘る交流に恵まれた。これもタイという文化環境のなせる業ではないかと感じている。

 あの素晴らしい、そして日本と世界にとって今後益々重要なタイに、今後とも自分なりに係わって行きたい。残念ながらまだまだ現役で自由な時間は少ないが、ささやかなりとも、貢献出来る具体的場を探して、せいぜい汗をかいて見たい、と感じている、今日このごろである。



元日本興業銀行バンコク支店長/シティバンク銀行取締役会長