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バックナンバー 2014-03

「フラッシュバックタイランド」
タイ国日本人商工会議所「所報」より転載

~元タイ駐在員のその後~ 第20回

JTBF会員:西條正和
2014/3/01

はじめに

 16年に亘る当社の海外生産担当を離れて丁度10年が経過した。
 今もその駐在時代の経験がベースとなり、埼玉・タイ王国友好協会の一員として年に数回タイを訪問し現役時代に観ることのできなかったタイの異なる世界を体験し未知のタイを新鮮な感覚で体験しながら、更なる理解を深めようと願っているところである。
 数年前の出来事として北部タイ・メーホンソンを訪れるためバンコクに立ち寄った際、ナワナコンに位置する当社の教え子である一期生タイ人従業員から「久しぶりに会いたい」と声がかかり、10年ぶりに8人の懐かしい顔と再会した。
 その日は平日で彼等は仕事がありバンコクに来るには時間がかかるため、中間地点のランシットのレストランで落合うこととし、私は一人で出かけることにしたがさてランシットまではタクシーで行けば簡単であるが一般のタイ人ならどういう手段で行くのだろうかと考えた。
 現役時代は会社よりあてがわれた運転手つきの車で限られた範囲の行動しかしておらず、タイ人の生活の実態の一部しか知らなかったのである。
 バンコクからランシットまでわずか30KM、ホファラポーンから列車で行く方法・定期バスを乗り継いでいく方法・長距離バスでの途中下車等が頭に浮かんだがもっと異なるうまい方法がある筈だと思い調べた結果、ロットトウーという乗合のミニバスがバンコクより中距離方面に数多く出ているということが分かった。
 「どこから出るのか!」「いつでるのか!」[運賃の払い方は!]「停車地はどうなのか」等いろいろ疑問点があり多少心配であったが勇気を出してトライし、25バーツの運賃で目的地に行くことができ、私として新たな体験をすることができた。
 現役時代には仕事に関与した限られたタイしか観てきておらず、決してタイのすべてを知っているとはいえず、今タイの異なる世界を観ているところである。

タイとの関わり

 当社の海外ビジネスは1985年のプラザ合意の影響による日本経済の大転換までは殆ど皆無であった。
 この影響による大幅な円高は当社の業績に致命的な打撃を生み出し、全社を挙げての再生のための「サバイバル作戦」を展開せざるを得なかった。
 この作戦の目玉の一つが海外生産への転換でありフィリッピンでの半導体生産の拡大を計画し自ら計画立案を担当し、当社として海外に初めて駐在し海外生産を開始・再生を図ることになったのは1987年早々のことであった。
 当時はマルコス大統領の追放騒動や若王子さんの誘拐騒動の直後で大混乱の中、フィリッピン経済が危機的状態にあり多くの日系企業が撤収・撤退する中、当社は逆にフィリッピンに資本を投下し進出したのである。
 外貨が全く枯渇したフィリッピンでのコンサインメント生産方式が功を奏し、一年を満たずして順調に計画以上の実績を出すことができ、当社の初めての海外生産が本社の業績回復に大きく貢献できたのである。
 これに自信を得て当社は海外生産を本格的に拡大することとなり当時の企画担当役員からフィリッピンに電話があり「明後日バンコクへ出張しろ」との指令が出て初めてバンコクに降り立ち、その翌日ナワナコン工業団地を訪れ工場用地を確保したのである。
 ナワナコン工業団地は当時二期目の工業用地を造成しておりその中の一角を選び当社として最初のタイ進出を試みた。
 しかしここではタイ国内市場であるオートバイ用の部品を生産する予定で私の属する事業部とは異なるため、用地確保のみが私の役割でそのままフィリッピンの工場に戻り、将来自らタイに駐在することになるとは夢にも思わなかった。
 1988年になりタイの工場は担当事業部を中心に社内にプロジェクトチームが発足し工場建設が開始された。
 当時は多くの日系企業が海外生産シフトを進め、タイの社会構造が大きく変化し急速に工業化への転換の道を歩み始めていた時期でもあり、新聞に「日本から多くの経済難民が押し寄せて来た」と揶揄されていたことを覚えている。
 工場が完成し生産準備に入ったころ、当初派遣されていたチームの中での不協和音が本社に届き現地工場社長交代人事が進められたのが1988年の暮れであり、フィリッピンでの経験から突然その代役が小生に回ってきた。
 最初は代役ということそして担当事業部の生産でないことから一時的ではないかとの思いもあったが突然の人事発令からわずか一週間で正月早々何も持たずバンコクに着任し、それ以降二期にわたり通算9年間バンコクを拠点に生活をすることになり思いもよらずタイの深い理解者の一人に変わり、いろいろな経験をさせてもらった。
 この9年間はストレスと喜びが錯綜する中、いろいろな出来事に遭遇しドラマチックな体験は私自身の大きな財産にもなっている。
 着任早々、日本から予定の仕事が移転されず本社の社長室に乗り込み3時間直訴して強引に仕事を呼び込んだこと。組織で仕事をする経験のない中間管理者であるタイ人従業員の徹底した意識教育の実施。BOIの未熟さから輸入した部材が届くのに時間を要し小生が言った文句がBOI役員に届きBOIに呼び出されお叱りを受けたがその後一挙に解決に向かったこと。二年目にフル生産になり工場不足となり北部タイ・ランプーンに新工場を建設、タイでの二番目の会社を設立したこと。二度にわたるクーデター・騒動を体験したこと。突然のバーツ安・アジア経済危機に遭遇し大変苦労して蓄えた資産が一夜にして半減、大きな損失を被ったこと。ナワナコンとランプーンを一週間毎に行き来し両地に生活基盤を置いて忙しく動いたこと。その後タイでの海外生産に自信を得て広州・ジャカルタにも工場を拡大し、小生がバンコクを拠点にして海外生産を統括することになり4か国を巡回し、数多くの体験ができたこと。等が懐かしく思いだされる。

タイのビジネスを離れて

 現在は当時のビジネスとは全く無縁のなかでタイとの深い絆を保っている。
 これは駐在当時のある出来事がインパクトになり退任後の生き方に大きな影響を与えることになった。
 それはタイに駐在して二年目の時に当社の重要な顧客である日本の大手会社の社長が退任されるにあたりタイを訪問し当社を見学された時のことで、日本で仕事をしていればとても拝顔することのできない方と直接お会いし、昼食を共にとらせていただいたことに当時大きな感動を得たものである。
 その時にその方は「自分は退任してから地方の教育振興発展のためのボランティアをして過ごしたいのでタイでも何かアドバイスがあれば教えてほしい」と言う様なことを述べられた。
 日本有数のトップ企業の社長が退任後ご自分の生きる道をこのように考えているのかと深い感銘を受け、いつも私の脳裏から離れることなくその後の私の生き方に大きな影響をもたらすことになった。
 その時点から数年経過後退任しタイを離れる前後に当時の埼玉県知事であった故土屋義彦先生の鶴の一声で草の根外交を促進するために民間のボランティア団体である埼玉・タイ王国友好協会が埼玉の経済界を中心に発足したのが1999年の暮れであるが法人・個人から構成された300名の会員の中にタイの実態を理解している人や造詣の深い人が少なく、小生がタイミング良くこの協会に呼び込まれた。
 「民間による草の根外交を促進する」という命題にたいして、目玉となる事業としてまだまだ地域格差の大きいタイの子供たちのための教育施設を充実させるというプロジェクトに取り組むことになり、自らその実行にかかわることになった。当初タイの教育省に赴き、タイ全土の中で8校の学校の推薦を頂き、その中でイサン以上に厳しい経済環境に置かれているメーホンソン県の山岳民族・リス族の小学校を選択し、120人収容の寄宿舎2棟の建設に入ったのが丁度10年前のことである。
 最初の調査訪問の際、同行した元タイ人従業員がタイの中にこの様な世界があるのかと驚いていたほど駐在当時には観ることのできなかったタイの別世界を覗くことが出来、大変なカルチャーショックを受けたことは今でも忘れない。
 それ以来現在までメーホンソン県を中心に北部タイの山岳民族のための教育施設として校舎棟・図書館棟・孤児院託児棟の建設を進め、今年の2月にはチェンマイ県とメーホンソン県の県境近くのカレン族の小学校に4教室の校舎の竣工を行ったばかりで、これまで7件のプロジェクトを完工させ地元の子供たちに喜んでいただいている。
 各々のプロジェクトを進めるにあたって候補地の選定・打ち合わせ・覚書の締結・進行確認・竣工式に約30回ほど現地に足を運び、そのうち半分近くは単独行で自身でも大きな体験をすることが出来、多くの現地の人たちとも知り合いになり、タイの表と裏を観ることが出来てタイに関する視野が広がったと感じている。

終わりに

 埼玉・タイ王国友好協会の活動は今後も引き続き継続されると思われるが古希を超えた現在今までと同じような活動をするには厳しくなってきており、この辺りで一つの区切りをつけてバトンタッチをしたいと思っているところです。
 しかしまだまだタイへの愛着もあり、個人としての活動に切り替えチャンスを見つけてタイ訪問は続けたいとも考えている昨今です。
 最後になりましたが今回投稿の機会を与えていただき厚く御礼申し上げます。



元新電元タイランド社長・元ランプーン新電元社長