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バックナンバー 2014-04

「フラッシュバックタイランド」
タイ国日本人商工会議所「所報」より転載

~元タイ駐在員のその後~ 第21回

JTBF会員:米田康三
2014/4/01

タイ赴任

 1995年6月私は当時の住友銀行綱島支店長から突然タイのBIBFと言われるオフショア支店長に赴任を命ぜられた。
 タイはバンコックをリージョナル・ファイナンス・センター化する大方針の下に国内金融市場の開放を進めていたが、1993年3月の内外47銀行へのBIBF免許付与は、タイへの外資導入と国内外周辺地域への資金還流を通じてその第一弾となるはずのものだった。
 それまでは外銀の進出が厳しく制限されていたため、邦銀はさくら銀行と東京銀行の2行しかなかったが、新たに三菱銀行・第一勧業銀行・三和銀行・興銀・日本長期信用銀行・住友銀行の6行がBIBFの免許を取得して熾烈な貸出競争が始まった。

フルブランチ・ライセンス取得

 私の任務は、バーツの取扱いを含めた全ての銀行業務ができるフルブランチ・ライセンスを勝取って、早急にタイに支店を開設することだった。タイ政府は「金融マスタープラン」の中で、1997年までには外銀BIBF20行の中から最低5行以上にフルブランチ・ライセンスを発行する方針を発表していたからだ。
 そのために外銀はライセンス取得を目指して、貸出実績作り、政府要人への陳情、タイへの貢献の証としての寄付や地域貢献、等の競争を繰り広げていた。
 その中で住友銀行はどちらかというと後発で、当落ギリギリのところにあるというのが衆目の一致するところだった。
 赴任後1年4カ月経った1996年10月17日に、フルブランチ・ライセンスの授与行が発表された。フルブランチ・ライセンスの申請銀行数は14行に上っていたが、最終的にはその中から7行、内訳は北米からノバスコシア銀行、欧州からドレスナー銀行とパリ国立銀行、アジアから中国銀行と邦銀3行(興銀・第一勧業銀行・住友銀行)となった。顔ぶれを観ると、タイ政府が経済的・政治的要素を総合的に考慮した様子が窺われるし、そもそもこういうものは国家間の関係が基盤にあって決まるものだという現実をつくづくと実感させられた。正直言って、住友銀行は最後のどんでん返しでの滑り込みセーフだったと思う。
 1997年3月6日、総勢100名弱で、ザ・デュシタニ・ホテルと通りを隔てた旧パン・パシフィック・ホテル内に無事開店することができた。支店といっても、タイに銀行を新設するようなものだから、日本で支店長しか経験の無い私には何から手懸けたらよいのかさっぱり分からない。考えあぐねて、そもそも銀行というのはどういうものか、日本の銀行法を広げて確認してみることにした。
 すると、銀行法第2条(定義)には次のように書いてあった。
 第2条 「銀行業」とは
 一. 預金の受入れと貸付けを併せ行うこと
 二. 為替取引を行うこと
 それで、まずは多少とも自信のあった預金集めから始めることにし、がむしゃらにお客様を回って新規口座開設とバーツ預金をお願いし、当時としてはかなりの預金が集まった。

通貨危機勃発

 1997年7月2日早朝、タイ中央銀行から突然の電話で叩き起こされた。理由の説明も無く、午前6時までに本人が中銀に来いというのでおっとり刀で駆けつけると、タイの全銀行の頭取・支店長が集まっていた。そこで、中銀総裁からタイ・バーツの固定相場制から管理フロート制へ即時移行するとの説明がなされた。
 それまでは欧米の要求に応えて、金融・経済制度が未成熟なまま一気に金融為替市場の自由化・グローバル化を進めていた。その当時のタイはGDPの8%にも達する経常収支の赤字を、海外からの資本輸入で賄う構造になっていた。そして多くの企業は固定相場制が続くという想定で、資金調達を安価な短期外貨借入に依存していた。
 タイの不動産融資や自動車ローン等の主要な担い手であったファイナンス・カンパニーはとりわけ短期外貨借入れへの依存度が高かったため、次々と行き詰まり、全91社中58社以上が営業停止を余儀なくされた。当時タイで自動車を購入する人の多くがローンを使っていたため、ファイナンス・カンパニーの相次ぐ閉鎖で自動車販売は急減、日系自動車メーカーの操業率は一時20%前後まで落ち込んだと記憶している。
 タイの外国為替市場は、政府による為替介入が主な調整手段だったが、ドル建て債務を持つ企業と投機筋によるバーツ売・ドル買が殺到しても、民間でドルを売る者がいないため政府が一方的な売り手になった。当時のタイ中銀は300億ドル以上の外貨準備があると発表していたが、介入に使えるドルの多くをスワップ契約で調達していたために、実際に使える外貨準備は8月頃には100億ドルを切っていた。IMFの要求で、それまでひた隠しにしていた外準の正確な情報を公開せざるを得なくなって更なる投機に曝されると、バーツは26バーツ/ドル前後から1997年11月には40バーツ台にまで急落した。
 ドルはタイ国内で全く調達できない状態だったので、正確な日時は覚えてないが、一時ドルのオーバーナイト金利が年率1500%を記録した。
 1997年11月には海を隔てた日本でも、三洋証券・拓銀・山一証券が破綻していた。

帰国

 そうこうしているうちに、翌年4月日本に帰国することになった。東京営業第一部長という辞令で、大企業取引を担当する部署である。その時の日本は、タイとはまた違った形で未曾有の金融危機下にあった。
 タイの通貨危機をきっかけに、国際的な投機資金が津波のようにフィリピン・マレーシア・インドネシア・韓国を襲い、日本でも長銀・日債銀にみられる大手銀行の経営破綻が起きた。自分は、タイから金融危機を連れて日本に帰ってきたような気分がしたものである。

さくら銀行と合併

 2001年には、日本の銀行の再編統合の奔流の中で、住友銀行もさくら銀行と合併し、私が立ち上げたバンコック支店もさくら銀行バンコック支店と一緒になった。当時の住友銀行バンコック支店にいたタイ人スタッフの多くが、15年を経た今も、合併後のバンコック支店に残って旧さくら銀行のスタッフと一緒に仲良く働いてくれていることは、私にとってこの上なく嬉しいことである。
 その後2002年に銀行を退職し、ジャパン・エクイティー・キャピタル会長、大和証券SMBCプリンシパル・インベストメント顧問、平田機工社長を経て、今はキンレイというフード・サービス関係の企業に勤めている。タイに行く機会は少なくなったが、沢山のタイ人の人生に係った責任を今でも感じているし、当時お付合いのあった日系企業の方々には日本でもお世話になることが多い。
 今後とも日タイ関係で些かでもお役に立つことがあればご恩返しをしたいと思っている。JCCBと所報のなお一層のご発展を念じて已みません。



元住友銀行バンコック支店長