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バックナンバー 2014-07

「フラッシュバックタイランド」
タイ国日本人商工会議所「所報」より転載

~元タイ駐在員のその後~ 第24回

JTBF会員:古賀 繁
2014/7/01

 私は1996年8月から2001年8月まで、まる5年間、当時の第一勧業銀行バンコック支店長としてタイ国に滞在しました。銀行の支店長としては5年間の駐在期間は長いと思われますが、当時の日本の金融機関の置かれた環境には大変厳しいものがあり、そろそろ帰国の時期かと思われた頃に当時の日本興業銀行と富士銀行との経営統合の話が持ち上がったためであろうと思っております。

タイ国との出会い

 私が初めてタイ国を訪れたのは、1963年8月であるので、ちょうど50年前ということになります。当時私は高校1年生で、海外転勤で姉と私を日本に残してタイ国に赴任していた両親を夏休みに訪問したのが初めての出会いでした。父は東京銀行バンコック支店の初代支店長として、1962年から約4年間駐在しました。支店開設までの道のりには紆余曲折があったようで、当時の苦労話はその後何回となく聞かされましたが、父と同様の経験を30年以上経ってから今度は私が、銀行は異なるとは言え、経験するとは夢にも思いませんでした。
 50年前には日本航空が就航していたのかどうかは定かではありませんが、初めての訪タイ時には、羽田からエールフランスで渡航したのを覚えています。ドンムアン空港から、見渡す限りの水田に囲まれた一本道を通って、大型のアメリカ車でバンコク市内に向かいました。当時のバンコクは交通渋滞とは無縁で、のどかな田園風景を眺めながら両親の住んでいたスクムビットの自宅に到着したように思います。

タイ国との二度目の出会い

 1984年から3年間、フィリピンのマニラにあるアジア開発銀行に勤務しました。赴任直前にアキノ上院議員が暗殺された時期で、治安上の懸念から、あまり気乗りのしない赴任でした。絶対的な権力をふるっていたマルコス大統領の健康不安が取りざたされていたため、予定された3年の間に政権交代があるかも知れないとは考えていましたが、まさか2年後に革命(現アキノ大統領の母親であるアキノ夫人を担いだピープルズレボルーション)による退陣・国外退去が発生するとは予想だにしませんでした。
 この3年間、パキスタン担当の地域局に配属され、年2~3回のパキスタン出張がありました。当時は、隣国アフガニスタンに旧ソ連が侵攻中で、西側諸国が世界銀行やアジア開発銀行を通して、盛んに経済援助をしていた時期です。毎回一週間程度の出張でしたが、カラチから日本航空に乗り、マニラへの帰途にバンコクに立ち寄るのが楽しみのひとつでした。見渡す限りの土漠で乾ききったパキスタンからバンコクに近づくと、機上から青々とした水田が目に入り、ほっとしたのを今でも鮮明に覚えています。バンコクで一泊し、美味しいタイ料理やパキスタンでは食べられなかった日本食を堪能しました。

三度目のタイ

 1996年4月、バンコック支店勤務の内命を受けました。当時は、さくら銀行と東京銀行を除く邦銀各行は所謂オフショア支店業務のみが許されていましたが、一般銀行業務全般が可能なフルブランチの認可をタイ政府が与える時期が近づいており、その認可を取得するために全力を尽くせというものでした。まさに、50年以上前に父が受けた使命を今度は私が受けることになり、全くの偶然とはいえ、不思議なめぐり合わせとなりました。着任後2か月余でフルブランチの認可を取得することが出来ましたが、これは私の赴任前の皆さんの大変な努力の賜物であります。

通貨危機

 5年間のバンコク勤務中の一番の思い出は、やはりタイ発の通貨危機です。1997年7月2日の早朝4時頃、タイ中央銀行からの自宅への電話で起こされました。午前6時に中央銀行に出頭せよというものでした。一人で来いとのことなので、会議は英語で行われることを確認し、運転手にようやく連絡をとって、6時前に中銀に到着しました。ところが、行ってみると地元の銀行の頭取や外国銀行の支店長が集まっていましたが、定刻になっても肝心の中央銀行の人間は誰も現れませんでした。ようやく、6時半頃に中央銀行の人間が来て、いきなりタイ語での会議が始まりました。全くチンプンカンプンなため、知り合いのタイ人の頭取から簡単な英語での説明を受けたところ、バーツの変動相場制への移行(切り下げ)であることが判明し、仰天をしました。
 支店に戻る車の中で、東京の本店にどう報告すべきかあれこれ考えましたが、細かいところまでは理解が及ばず困惑をしました。ところが、支店に戻ってみると、既に中央銀行から英語の通達がファックスで届いており、何のための早朝会議だったのかとの思いでいっぱいになりました。今から思えば、まさにタイらしさの真骨頂でしょう。通貨危機の影響はじわじわと地元金融機関のみならず、邦銀各行の経営にも打撃を与えことになりました。この時期に苦楽を共にした地元タイの金融機関の経営者とは未だに親交があります。
 5年間の滞在中は、仕事を通じてゴルフをする機会に恵まれました。回数の割には上達しませんでしたが、かつて両親から聞き及んでいた 「バンコクめいじん会」や「トクナム会」が継続しているのを知り、感慨深いものがありました。
 2001年8月に5年間勤務したタイを離れることになりました。翌年4月に控えたみずほフィナンシャルグループ発足を前にして、統合効果の早期実現のため、3行のバンコック支店を前倒し統合することになりました。3行のなかで一番規模の大きかった第一勧業銀行の名前のもとに集約を行ったものです。当時のタイ駐在員の間では、通貨の切り下げ、洪水、クーデターを経験しないうちは一人前ではないと言われていましたが、半人前での帰国となりました。

近況

 2001年10月に銀行を離れ、エンジン発電機・溶接機のメーカーであるデンヨー株式会社に勤務、現在に至っています。海外展開を図るため、タイでの工場新設を考えましたが、既にタイでは労働集約的な製造業は無理との判断のもと、2年前にベトナムのハノイに製造拠点を新設しました。現在の職場に移ってからは、出張での訪タイの機会は少ないため、タイ大好き人間の集まりとも言える日タイビジネスフォーラム(JTBF)の年一回のミッションに個人の立場で参加して旧交を温めています。
 5年間の滞在で残念なことは、家族を帯同できず単身赴任生活を余儀なくされたことです。人手があるため、日常生活での不便さを感じることはありませんでしたが、家族を通じた地元との交流ができませんでした。家族、特に子供を交えた交流が有れば、もっとタイへの理解を深めることが出来たのではないかと思っています。



元第一勧業銀行バンコク支店長