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バックナンバー 2014-08

「フラッシュバックタイランド」
タイ国日本人商工会議所「所報」より転載

~元タイ駐在員のその後~ 第25回

JTBF会員:石井利一
2014/8/01

 私は、1991年4月から1996年3月までの丸5年間、丸紅泰国会社社長兼丸紅バンコク支店長を勤めました。帰国してから既に17年経ちました。当時の状況を思い出すままに綴ってみたいと思います。

赴任前-進路を変えた交通事故

 私にとってタイは馴染みの薄い市場でした。米国駐在から本社に帰って19年間、プラント輸出の仕事に携わっていました。副本部長に昇格した直後の90年10月(タイ赴任の半年前)、社命を帯びてエジプトに出張しました。出張目的を果たし、アレキサンドリア視察に行った帰り路、土漠の中の直線道路で運転手の居眠りからUターン待ちのトラックに追突、前頭部裂傷・左足骨折、救急病院で応急手当のあとカイロの病院に入院しました。私が一番重傷でしたが、車がベンツだったお陰で同乗者共々命はとりとめました。この怪我のため、カイロと東京で5ヶ月の入院生活を送ることになりました。
 長期欠勤で焦る気持ちを抑えて病院内でのリハビリを続け、やっとのことで松葉杖をついて出社したのが91年の2月、そしてその1週間後に社長から泰国会社社長の辞令を渡されました。プラントの道に夢を描いていた自分には転勤は残念なことではありましたが、考えて見れば、交通事故とはいえ、5ヶ月も仕事をせずに欠勤したあとに、泰国会社のポストを与えられたのは感謝すべきことかもしれません。そして、振り返ればやり甲斐のある5年間を過ごすことができたのであります。

赴任時-タイの状況

 赴任の年91年は、タイでは2月23日に、陸・海・空軍及び警察によるクーデターが発生、ドンムアン空港でチャチャイ首相が身柄拘束され、スントーン国軍司令官を議長とする「国家秩序維持評議会」が成立、3月7日にはアナン暫定内閣が発足していました。タイに駐在したらクーデターと洪水は経験すると言われていましたが、辞令を受けた翌々日に早くもクーデターが起きていたのです。
 しかし4月に入り着任してみれば、街の人の顔は明るく、暑さはともかく、穏やかな雰囲気を感じました。チャオプラヤに浮かぶ船からアナン首相が川の浄化を呼びかける光景などにも出会いました。ただ、渋滞とスモッグは噂通り、特に渋滞はひどくなるばかりだったので、日本から非常用トイレを取り寄せて車に積んだりしました、使ったことはありませんでしたが。
 バンコクは、それまでに出張の機会もあまりなかったので、土地勘も殆どありませんでした。前任者はタイ駐在通算19年のベテランで、盤谷日本人商工会議所(JCC)の会頭も勤めた先輩、繊維畑出身でタイ語も達者な人でした。引き継ぎ期間中、連日客先の挨拶に回るうちに分かって来たのは、客先の幹部が皆流暢な英語や日本語を話すことで、これには一安心しましたが、サンペンの繊維問屋街では英語が殆ど通じず往生しました。
 解らないでは済まないので、タイ語の先生を探してもらい若い女の先生について週2回のレッスンを始めたのですが、仕事のためにキャンセルしたり、習ったことの復習をする時間がなくて、先生に叱られたりでさっぱり進歩せず、挙げ句の果てに先生にも愛想をつかされて頓挫してしまいました。
 さて、この頃タイはいわゆる韓国・台湾・香港・シンガポール等のNIES諸国を追いかけて、旧来の農業国からNIES諸国入りを目指せる状態にまで発展していました。特に韓国・台湾が労働賃金の上昇により競争力を急速に喪失し、相対的に人件費の安いASEAN諸国へのシフトにつながったこと、具体的には日本を中心とする外国資本が急激にタイに進出したことが、経済を離陸させる大きな要因になっていました。実質経済成長率でも’88年-’90年の3年間二桁成長が続き、その後も一桁になったとは言え成長率は高く、経済活動は活況を呈していました。私の滞在した5年間は、日本でのようなバブル崩壊の兆しは全くなく、極めて活況を呈し、新規進出企業の設立、新工場・新事務所の開設、新旧主管者の交替披露など殆ど連日と言っていいほどのパーティで賑わっていました。私はといえば、家内は私の母の世話の為、子供と共に東京に残り、こられるときにバンコクに来るという立場でしたが、連日のパーティのおかげで皆さんとお会いする機会が多かった為、家内もバンコク常駐と思われていたようです。

団体活動-商工会議所・日本人会など

 バンコク着任と同時に、ほぼ自動的に、盤谷日本人商工会議所(JCC)・日本人会・泰日協会・泰日協会学校(日本人学校)等の理事になりました。歴代大使では岡崎冬彦大使・藤井宏昭大使・恩田宗大使の時代です。それぞれの団体の理事を務めるのは各社の主管者が殆どであり、複数の団体の理事を兼ねる人も多かったので、顔を合わせる機会が極めて多くありました。またタイ工業連盟(FTI)・ThaiChamberofCommerce等のタイ側関係団体の幹部との面識ができ、情報交換もできるという具合で、主管者になることが、忙しいことではあるがやりがいのあることだと改めて認識したものです。
 JCCでは、松木弘志(三井物産)・宮田勝巳(三菱商事)・丸子博之(三井物産)各会頭のもとで副会頭兼貿易委員長を努め、後にFTIとFoodDevelopmentCommitteeを立ち上げ、タイ食品の日本市場開拓に尽力しました。理事会決定で93年から始めた周辺国への視察ミッションで、カンボジア・昆明・ミャンマー・インド・ラオスを訪問したのは、素晴らしい企画でしたし、学ぶことも多くありました。JCCの活発な活動の中で、94年10月には、設立40周年を城山三郎氏の講演で飾ることができました。
 タイ在住5年の間には、日本人会創立80周年を93年10月に祝い、95年11月には国王即位50周年記念のラムウォン盆踊りを皆浴衣がけで踊り、そして95年12月には泰日協会学校創立40周年を理事長として祝うことができました。
 今振り返ってみれば、当時の理事さんは皆本当に熱心であったと思います。理事会では大いに議論もしましたし、問題解決のために精力的に動きました。また一緒に飲み、ゴルフも良くやりました。こんなつながりが後の日本における日・タイ・ビジネスフォーラム(JTBF)の活動をスムーズにスタートさせたのではないかと思っています。

日本人学校(泰日協会学校)

 第3代理事長を勤めました。この時期、生徒数は1,700名をこえ、世界でも有数の日本人学校になっておりましたが、さらに増え続ける生徒を収容するための校舎の増築と敷地の確保が最大の課題でした。アクセス道路の両側に空き地があったのですが、所有者が手放さず、環境に望ましくない建物が計画されているとの噂が流れるに及んで問題となりました。学校理事の懸命の交渉の結果、土地買収の合意が成立、JCCの会員企業に対する募金活動のお陰で資金的にもめどがたち、記念すべき設立40周年を祝うことができたのは忘れられない悦びでした。学校は、進出企業からの要望に沿うべく、現在ではシラチャにも分校が開校しているようで、タイ社会の中に溶け込みつつ日本人子弟に国際化にふさわしい教育をしてくれるよう願っております。

ゴルフ

 タイは、多くの人にそうであるように、私にとってもゴルフ天国でした。往復に時間がかからないし、グリーンフィー・キャディーフィーも当時はまだ安かったし、望めば複数のキャディも雇えるし、プレー後の飲酒運転の心配もないので、とても有効なリクリエーションの場であり社交場でありました。
 環境に恵まれて、ゴルフの機会は非常に多くありました。思いつくだけでも、めいじん会・商社会・芙蓉会・紅友会・個別取引先との定例会など、それに丸紅には紅忠戦という年2回の伊藤忠さんとの対抗戦もありました。定例会以外のゴルフも頻繁にありました。必要に迫られて異なる二つのゴルフ場で午前・午後のラウンドをしたことも何度かありました。
 在タイ丸5年の間に398ラウンドしました。最も回数の多かったのはやはり当時の名門Navataneeで82回、94年のRajpruekオープン以後はここが多くて65回、RoseGardenが64回でした。
 こんなゴルフ生活の中で、楽しい記憶として残っているのが、めいじん会で、赴任の翌年(358回)と帰国の年(407回)に優勝できたこと、そしてそれにもまして嬉しく思い出すのは96年の廣済堂レディースのプロ・アマで優勝できたことです。廣済堂レディースは毎年2月にバンコクで行われる女子ツアーで日本からも多数の女子プロが来ていました。帰国の年、96年の廣済堂レディースはPresidentCountryClubで行われ、我々のプロ・アマ・チームが目出度く優勝しました。メンバーは金田祐美プロ(43・40)・伊藤忠の豊田資則氏(38・42)・三菱商事の浜田真二氏(41・43)それに私です。同伴競技者に恵まれての優勝ではありましたが、この時の私は43・42、自分でも驚く出来栄えで、優勝の最大の貢献者は私だと内心自負しています。

現在の私

 96年5月帰国してから17年になります。65歳で退職して12年になり今年喜寿を迎えました。
 JTBFには創立以来会員として参加し、食品開発委員会の委員長を務めてきました。バンコクで知己を得たJTBFの仲間との繋がりを大切にし、旅行・ゴルフも健康である限り続けたいと念じています。
 現在は、4人の孫たちの成長を見守りつつ、家内と一緒にゴルフ・旅行を楽しんでいます。クラス会、OB会などもあり結構忙しい日々を送っています。一方、家内は民生委員のつながりから、ボランティアの仕事が増え、特に例の東北大震災以後、被災者の子供たちを鎌倉に招待する会に参画、鎌倉の大仏(高徳院)の境内をかりて募金活動を続けています。鎌倉の大仏にはタイの皇太子の植樹などもあり、タイ人観光客も多く、「ヌン・ソン・サム」が良く聞こえるそうで、募金にも良く応じてくれるそうです。私の現役時代には、家内を「ゴルフウィドウ」にすることが良くありましたが、「募金ウィドワー」の身になることもある今日このごろです。帰国以来、年1回タイを訪れていますが、日本に於いてはタイ関連の行事には参加しながら、日タイ関係の更なる発展を願っています。タイに駐在されている皆さんのご健勝とご活躍を祈ります。



元丸紅泰国会社社長