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バックナンバー 2014-10

「フラッシュバックタイランド」
タイ国日本人商工会議所「所報」より転載

~元タイ駐在員のその後~ 第27回

JTBF会員:上東野幸男
2014/10/01

 山盛りの蟹にかぶりつき「アロイマーク」と叫んで、シンハーで流し込んでいた。急に暗くなって顔をあげると、夕日が沈んだ海に巨大な遠洋漁船数隻が異様な黒い壁を築いていた。蟹・蝦は懐かしい味だが、風景はラヨン・パタヤ・ホアヒン・チュンポン・ラノン・プーケット・スンガイコロクなどとは全く違っている。2月のサムットサコン県(前マハチャイ県)の漁港には、2日間視察したトンブリ4病院の経営者Dr.Vに案内された。マハチャイは漁介加工業の大集積地であり、夕方に工場から出てくる多くの外国人労働者を目にした。Dr.Vからは「地域人口80万人に、50万人の外国人が働き、最低賃金のアップを喜んでいる」と聞いた。また最近「アウンサンスーチ氏が最初に訪れたミャンマー人街であり、タイ人住民4万人に対し、ミャンマー人20万人」の記事も読んだ。サムットサコンFBCのユニフォームにスポンサーのTUF(ツナ缶世界最大手)のロゴがあるが、「ミャンマー人がいなくなればマハチャイの全産業が消滅する」とのことである。

 4月にDr.Vの引率で観光スポーツ省次官Dr.Sグループ(10名)が来日し、「日本人のタイ・ロングステイ振興」の会議受入と老人ホーム案内をした。5月はインラック首相以下の来日でセミナー・会議に参加したが、特にロングステイ会議(日本人4名、タイ首相以下数名)に招集され、首相に直接意見具申する機会を得た。

 現在、私は日タイ・ロングステイ交流協会(事務局長)、ロングステイ財団(政策審議委員、広報委員)、日タイ・ビジネスフォーラム(ロングステイ委員長)を活動の場としている。日々のロングステイ生活相談やビジネスセミナーなどへの対応である。これは親子二代でお世話になったタイ王国への御礼であるが、駐在時に全県の電気機器店を巡回したことやJCC電気部会長を務めてタイ官庁やお取引先などに友人・知人ができたお蔭である。タイ王国は1998年ロングステイ法によりOAビザを発給。現在日本人のロングステイ希望国の第2位であり(ロングステイ財団)、タイ在留邦人5万人の内の1万人程度で実質第1位である。なお最近は「タイ国の急激な高齢化と介護・医療」という難問解決を支援している。

仕事の思い出

  1. 初めての海外勤務地タイランドは亡父の経験談で「瘴癘の地」と聞いており、会社からも全駐在員の狂犬病ワクチンまで持たされて、嫌々赴任した。しかし慎重な健康管理で医者・薬とは縁がなかった。またプラザ合意直後のタイGDPは年二桁成長、電気・電子業界はその2倍以上となり、パートナー(会長)が子供の頃から知っている方であるなど幸運の連続であった。新事業の工場や事務所新設の場所選定では、1942年の史上最大の大洪水も亡父から聞いていたので河沿いは忌避した。
  2. リー・クアンユー氏が「アセアン諸国に貢献した最大の発明」と評価したエアコンの需要が急増した。日本と違う販売期やキャリアやトレーンなどとの製品・価格・シェアーの競争に戸惑ったが、消費者志向を貫いてトップを確保できた。日本では長年気候・温度と販売との相関を調べた。エルニーニョ現象からお天気諺、虫・蛙・獣の生態などのデータ収集である。熱帯夜(25度以上)が衝動買の決め手であったが、バンコクでは夜間29度までは扇風機で、30度でエアコンを使用する傾向を掴んだ。
  3. 日本の労組役員経験から組合には気を遣ったが、1社のストライキでは読みが外れた。闘争資金も少ない組合だから短期収束と思ったが、「タイ家族は全員が就労して、家長が無給でも頑張れる」ことに気付かず、約1ケ月のスト継続になって在庫切れを招いた。スト期間中は警察などに依頼して身辺警戒もした。
  4. 財団(奨学金付与)を設立した。資金は日本とタイ関連会社(数社)で20Mバーツ(当時1億円)は確保できたが、マネーロンダリング調査もあり、理事長になる小生の中学校からの成績表まで求められて認可には約2年かかった。

JCC活動

 電気部会ではラオスを訪問した。団長の公式挨拶があるので苦労してフランス語で準備したが、英語でよかった。電力が輸出のトップである(現在も同じ)ことが、タイ国境の送電線を眺めても実感できなかった。電気機器製造は全くの家内工業であった。

クーデター

 1991年2月クーデターの土曜日、ナワタニGCは日本人で賑わっていた。食堂のTVは国旗が映っていたが、従業員はニコニコしていた。「カーヒュー」の叫びでゴルファーは飛び出して帰った。自宅の電話は鳴り続け、「会社の3チャネルビルに兵士が集結した(NHKニュース)」との妻(日本)から一報が来た。パートナー(会長)の「夜になったら車で街を視察したら良い」の電話の方がビックリした。1992年のプルサパ・タミン(5月の殺戮)は、クーデター主役のスチンダ陸軍司令官の首相就任への反対デモに対する発砲事件である。国王陛下がスチンダ首相とチャムロン氏を呼び「タイ人同士が争うべきでない」と裁定するTV映像を見て、国王の力とタイ式民主主義に感心した。
(スチンダ将軍とはナワタニGCではライバルであった。プレイではなくミス・ナワタニであるキャディの指名争いは勝ち越した。手編みのヘッドカバーも先にもらった。)

国旗・国歌

 タイ王国では何処でも国旗がはためき、ホアヒンなどでは国王旗も林立している。国歌は朝夕放送され、国王賛歌は映画館で流れる。国歌には「戦」の文字もあり、行動的歌詞に驚いた。帰国後、祝日には門前に日の丸を掲揚しているが、日本では全く少ないのは残念である。「日本人は国旗を大切にしない」というタイ人評価をセミナー・研修で話している。

宗教

  1. タンブンの深い意味を知らずに秘書の遅刻叱責などの失敗もあったが、概ねうまく対応できた。赴任直後の北部販売店巡回でチェンライの荒寺を訪問時、鐘楼再建の寄付集めに出会った。「名声が四方八方に響き渡る」と勧められて5千バーツ寄進した。完成後の新聞紙大のタイ文字寄進者名簿に漢字名を発見できた。またお取引先のご子息の一時出家儀式には数多く出席した。日本の長男の結婚式はタイ仏式で行った。祝事は白い糸で繋がった僧侶9人が読経するが、新郎新婦も頭を結び、いろいろ役割がある。内輪の結婚式に多くのお取引先も参加され、個人的友好関係も深まった。新婚旅行は団体バス観光旅行になり、バンコク・ポストに掲載された。
  2. 今は危険地域のイスラム圏の南部4県には何回も出かけた。湾岸戦争の時に売上が激減した理由は「フセインへの送金で購買力ダウン」との説明の確認にも行った。お取引先の北欧招待旅行中、コペンハーゲンの人魚姫像を見た時「ソンクラーの人魚像の方が素晴らしい」との声が挙がった。確かに周囲の景色も含めてソンクラーは見栄えがする。しかし最近隣に建てられた猫・鼠像がイスラム教徒には好評のようである。

最後に、日本人の皆様にお勧めするのは「タイ国立博物館」である。ここではTHAINESSのすべてを学ぶことができる。


ロングステイ会議(5月・東京)、筆者は首相の右(向かって)二人目


タイ三菱電機社長 三菱電機タイ財団初代理事長