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バックナンバー 2014-11

「フラッシュバックタイランド」
タイ国日本人商工会議所「所報」より転載

~元タイ駐在員のその後~ 第28回

JTBF会員:布施隆史
2014/11/01

 私は1994年から1998年まで4年間、日商岩井(タイランド)の社長としてバンコクに駐在しました。2000年に日商岩井を終わった後、同年から2003年までジェトロ・バンコクで投資アドバイザーを勤め、2004年からはタイにおける賃貸工場・倉庫業界最大手のTICON(タイコン)社のアドバイザーとなり現在に至っています。タイとの関わりは19年に及びますが、こんなに長く関わることになろうとは予想していませんでした。

タイ駐在前

 日商岩井は1968年、日商(株)と岩井産業(株)の2商社が合併して発足した会社で、私は東京オリンピックが開催された1964年、合併前の旧日商(株)に入社、3年後の1967年にウィーン駐在に出ました。ウィーンに新事務所を開設し、当時の東欧共産圏8カ国との取引を開発するのが仕事で、ドイツから異動してきた先輩社員と2人で事務所を設立、そのまま5年ほど駐在しました。
 1972年に帰国し、東京本社の石炭部に配属され、コークス用石炭の輸入を担当しました。当時良質なコークス用石炭の主要供給国は米国で、1978年に米国炭輸出担当としてニューヨーク駐在に出ました。翌1979年、第2次石油危機が発生(第1次石油危機は1973年)、石炭供給が逼迫したため、新しい米国炭供給先を開拓するため米国中を飛び回りました。

タイ駐在

 1983年、ニューヨークから本社・石炭部に戻り、その後鉄鉱石輸入を担当する部署に異動し、さらに製鉄用原料全般を管掌する副本部長になってしばらく経った1994年夏、突然超変化球の人事異動の話が来ました。バンコク駐在です。入社してから29年間、仕事・プライベート問わずアジアに関わったことがなく(石炭や鉄鉱石を運ぶための傭船契約交渉でシンガポールに2~3度行ったことがある程度)、もちろんタイとも無縁でした。そんな私がなぜタイなのか未だに謎ですが、とにかくこの異動は青天の霹靂でした。
 「クソ暑い東南アジアの発展途上国」程度が当時の私のタイについての認識でしたが、94年10月に異動が正式に決定し、関係各部署との赴任前打合せを開始して、タイ会社が実に多岐にわたるビジネスをしているのを知って驚きました。私のタイに関するイメージは180度変わり、「大変な仕事を仰せつかった」と赴任までのほぼ1ヵ月半、タイについて、ラオス・カンボジア・ミャンマーについて(タイ会社が管掌)、タイ会社の全ての業務ついて猛勉強しました。受験勉強の比ではなく、頭がパニック状態でした。そして1994年12月1日、ドンムアン空港に到着、生まれて初めてタイの地を踏みました。都心のホテルまで2時間半、「世界で一番広い駐車場」と揶揄されていたバンコク名物の交通渋滞の洗礼を早速受けました。

その後のタイとの関わり

 1998年12月まで4年間駐在し、2000年に日商岩井を終わったあと、2000年から2003年まで投資アドバイザーとしてジェトロ・バンコクに勤務しました。1997年の通貨危機から立ち直った経済を背景に日本を含む各国からの投資が急増し、次々と訪れる法人・個人の様々な相談に応じた多忙な3年間でした。相談に対応するにはこちらも知識を仕入れなければならず、様々なことを勉強させられました。この3年間に培った知識・経験は今でも役に立っています。
 2003年、ジェトロを終わって帰国する際、タイの賃貸工場・倉庫事業で最大手のTICONという会社から誘いがあり、2004年からアドバイザーとして日タイ間を行ったり来たりして現在に至っています。

クーデター、洪水、通貨危機、ゴルフ

 クーデターと洪水を経験して初めて一人前のタイ駐在員と言われます。残念ながら(?)、日商岩井時代の4年間ではクーデターに遭遇しませんでしたが、そのあとの仕事でバンコクにいた2006年9月、タクシン氏が首相の座を追われたクーデターに遭遇しました。しかし、この時は兵士に飲食物を差し入れる市民や兵士と並んで記念撮影している女性の写真が新聞に掲載され(日本人駐在員でこれをやった人がいます)、クーデターという言葉から連想される緊張感からは程遠い印象でした。その後2008年11-12月の黄シャツ派による空港封鎖、2009年4月の赤シャツ派によるパタヤでのASEAN首脳会議への乱入、更には2010年5月赤シャツ派と軍・警察の衝突で多数の死傷者が出たり伊勢丹が入っているセントラルワールドビルが炎上した市街戦もどきの騒乱など、クーデターとは異なりますが、政治対立による混乱を経験しました。

 洪水には1995年に遭遇しました。昔バンコクの殆どが水に浸かり、街の中で車と船が衝突したという話をタイ滞在の長い人から聞いたことがあります。95年の洪水はそこまでの規模ではありませんでしたが、町の至る所で道路が冠水して渋滞を惹起し、チャオプラヤ川沿いのホテルやビルはどこも土嚢を積み上げ浸水を防いでいました。アパートがスクンビット・ソイ11の奥にあり、スクンビット通りからここに入りますと、途中数十mにわたって水深30~40cmの場所があって、対向車が立てる波がこちらの車の横っ腹に当たって、船に乗っている気分でした。
 2011年の大洪水も経験しました。バンコク北部・西部の広い地域が水に浸かり、いくつかの工業団地が操業不能に陥ったのは記憶に新しいところです。TICONの賃貸工場・倉庫も大きな被害を受けました。

 駐在中の忘れられないもうひとつの大きな出来事は、このコラムでも何人かの方々が触れていましたが、バーツの変動相場制移行です。1997年7月2日朝、タイ政府が突然これを発表しました(早いもので16年経ちました)。私は当時の副首相兼工業相の訪日に同行して一時帰国中で、7月2日朝本社に顔を出したところ、バンコクの財務担当から電話が入りました。1ドル=25バーツのほぼ固定相場で推移していた為替が55~56バーツまで下落、多くの在タイ企業が打撃を受けましたが、その影響はタイ一国に留まらず、結局タイ発のアジア通貨危機に拡大しました。タイ政府はIMFの勧告に従って財政政策や産業構造の見直しを推進し、2000年代に入る頃には経済状況はかなり改善しました。

 タイといえばゴルフに触れない訳には行きません。赴任した翌々日から、右も左も分からないまま(ナワタニという名前を聞いた時には「縄谷」という日本語の名前のついたゴルフ場があるのかと勘違いしました)コンペやら取引先・顧客などとのゴルフに引っ張り回され、12月末までの29日間でのラウンド数は14回を数えました。2日に1回という有様で、あとにも先にも1ヶ月弱でこんな回数をやったことはありません。プロゴルファーが4日間のトーナメントに4週連続出場して16ラウンドですから、この時の回数はプロ並みです。
 本稿を書くに当たって記録をひっくり返したところ、4年間のラウンド数は480回超でした。年間約120回です。また、1994年から現在までの19年間のタイでのゴルフ回数は約1,100回、回ったコースは65ヵ所で、驚くほどの回数になっていました。これだけやったら少しは腕前が上がってもいいはずですが、そうならないのがゴルフの不思議なところです。
 週末は殆どゴルフ、時には平日ゴルフ。早朝ゴルフをして、午後出社して仕事、夜はお客の接待(時にはハシゴ)などというスケジュールを連続してこなした体力がよくあったものと自分でも驚きます。商品を右から左に動かして口銭を稼ぐのはもはや商社の本流ではない、生き残りの道は実業に関与することとの号令の下、どの商社もそうであったと思いますが、投融資などを積極的に展開しました。公私ともに超多忙でしたが、振り返ってみれば充実した4年間でした。

JCCとの関わり

 JCCに「生活産業部会」という部会があります。日商岩井の社長はこの部会長を仰せつかっており、私も前任者を継いで部会長に就任しました。他の部会は名前を見ればどういう業界の集まり(部会)であるか一目瞭然ですが、「生活産業」だけではどんな部会かよく分かりません。様々な業種の会社が集まった部会で、要は「どなたでもいらっしゃい部会」でした。他部会と同様、講演会や懇親ゴルフ、異業種交流などの活動をしましたが、この部会の幹部会メンバー7-8人が大変ユニーク且つ愉快な方々でした。その昔東北部で木材の仕事をされていた方の「ニシキヘビでも孵化した時から飼っていると飼い主に慣れる」とか「虎屋の羊羹しか食わないテナガザル」といった、思わず「ウソだろ」と言いたくなる話、「虫を全部殺す強力な殺虫剤を作ったら商売がなくなる」(もちろん冗談)と話をされた某社の社長など、幹部会は笑いが絶えませんでした。
 ジェトロ・バンコクにいた3年間は、当然のことながらJCCと頻繁に接触していました。また、TICONはJCC会員であり、運輸・建設・自動車・電気などの部会に所属して活動に参加しています。さらに、TICONの提案で、JCC主催で「危険物保管」「非居住者在庫」をテーマに2回の講演会・勉強会を実施いただくなど、現在もJCCとの関係を維持しています。
 先日石井事務局長から会員企業数が間もなく1,500社になると伺いました。数では上海の会議所に及ばないようですが、以前からそうであったように、会議所としての活動は他国の会議所を遥かに凌駕していると聞いています。JCCがこれからも益々発展され、加盟企業が更なる活躍をされることを願っています。

日タイビジネスフォーラム(JTBF)

 JTBFはかつて各社のタイ現法の社長として駐在されていた方々が個人の立場で参加している団体で、日タイ関係をさらに強化・発展させることを目的に2002年に設立され、様々な業界の社長経験者約70名が会員です。私は2004年に会員登録し、投資委員会に所属しています。
 年一回ミッションをタイに派遣してJCC、BOIその他タイ側関係機関と会合したり、在京タイ大使館をはじめとする様々なタイ側関係者と会合を持ち、タイ側に忌憚のない見解を述べたりアドバイスを与え、タイ側からもその活動は評価されています。
 日本企業の駐在員は世界中にいますが、駐在経験者が引退後或いは帰国後にこのような組織を設立し、駐在した国との関係を維持・発展させるための活動をしている例は他の国では見当たりません。タイ大好き人間が集まった極めてユニークな組織です。

日本のタイ投資

 BOI統計によれば、過去数年間の日本のタイへの投資額は諸外国のそれを遥かに上回っています。外国投資総額に占める日本のシェアは2011年57%、2012年64%、2013年1月~9月55%で(認可ベース)、他の国々が束になっても日本一国の投資額の足元にも及びません。しかし、最近の人件費の大幅な上昇や労働力不足、2015年から発効する新投資奨励政策、そしてこうしたタイの投資環境の変化が背景にあってのことと思いますが、一部の製造業による周辺国への工場進出など、タイの投資環境の変化が見られます。数年前は中国プラスワンと言われていましたが、最近ではタイプラスワンという言い方が散見されるようになりました。こうした変化を見ますと、今後(特に2015年以降)日本のタイ投資がこれまでのようなハイペースで順調に進むだろうかとの懸念を個人的には持っています。杞憂に終わればそれに越したことはありませんが….。
 映画や小説などで過去の出来事の場面に戻ることがフラッシュバックで、その意味では拙文は必ずしもフラッシュバックとは言えませんが、このような機会をいただきましたことに厚く御礼申し上げます。



元泰国日商岩井株式会社社長