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バックナンバー 2014-12

「フラッシュバックタイランド」
タイ国日本人商工会議所「所報」より転載

~元タイ駐在員のその後~ 第29回

JTBF会員:指宿 順
2014/12/01

コン・チョナボット=田舎者

 1969年2月、シーサケット県の道路工事現場に居た。その遥か上空を3機編隊の米空軍の爆撃機が、細く白い真っ直ぐな3本の糸を引いてベトナムへ向って飛ぶ。時として、帰還する飛行機雲は2本になっていた。ベトナム戦争、北爆、いつもは他人事の「国際政治の現実」が、この鈍感な肌を撫でた。

 タイに赴任したのは45年前、1968年だった。24歳。半年ほどのバンコク事務所勤務の後、カンボジア国境に近いこの地方の現場に赴任した。無茶な人事だと言う人も居たが、本人は結構喜び勇んでいた。行ってみると現場の生活環境は、やはり相当なものだった。水道も電気も来ていない。空調など有る訳も無い。夜11時には 300KVA の発電機は止まり、あとは暗闇とランプの生活。  施主はタイ政府・道路局(当然全てタイ人)。西松建設は1963年タイ国進出時から現地法人の形をとり、日タイ建設(株)という些か分不相応な名前だった。400人を超える現場在籍職員の中で日本人は2名のみ。チュラ大出の技術者も居り、タイ人職員のうち10名程はソコソコの英語を解した。只、こちらの英語力もソコソコ。双方の英語理解力を40%とすれば、意思疎通率=40%×40%=16%。これは大問題だった。相手のタイ語理解力は100%なのだから、こちらのタイ語の理解力=相互意思疎通率となる。「やらねば」と考えた。幸い下手なタイ語を嗤う者は居ない。毎晩のように、現場キャンプから2キロ離れた街へ三菱ジ―プを駆って繰り出した。円滑な業務遂行を目的?としたタイ語習得の為だ。夜遅くまで、若いお姉さん達に、タイ語の会話、読み書きの実践指導?を仰いだ。その所為だろうか、今でもタイ語は暗くならないと、そして女性が傍に居ないと、流暢には出ない。

 その後も、ウタイタニ―、ピッサヌロークの2カ所の現場勤務を経験した。そんな経験から「Thailand-Bangkok≒Thailand」と言う、些か乱暴な公式を今も信奉している。

日系建設業者、JCC建設部会、理事、理事選挙

 1960~70年代、日系ゼネコンは長らく、大林組、竹中工務店、住友建設、西松建設(日タイ建設)の4社時代が続いた。1972年、外国人企業規制法(当時の名称)が施行され、建築工事は現地法人のみに許される業種となった。大林、竹中、住友の各社は、夫々の親会社の頭に「タイ」を冠し、51%以上のタイ国籍の株主を有する現地法人を設立した。日タイ建設は、名前はそのままに株主構成を変えた。1982年に鴻池組が進出、5社体制となった。

 1980年代後半だったろうか、鹿島、大成、清水の残りのスーパー陣も相次ぎ進出し、日系ゼネコンは、ほぼ勢揃いとなった。JCC の建設部会がいつ頃設けられ、理事を選出するようになったのか、記憶が定かではない。確か2名の理事を2年毎の持ち回りで務めるという方式を採っていた。最初は4社で、その後5社で、そして最後は8社で廻していた。仲良く?持ち回りで務めると言うのは、如何にも日本のゼネコンらしい。

 総務の責任者だった頃、理事選挙の票集めの激しさに驚いたこともある。票の取引もした。票の取引をする必要はこちらにも有った。他部会の会員会社の多くはお施主様。「ゼネコンは目立ってはいけない」と言うことで、得票数が公開される15位以内に入らず、当選に必要な20位以内には入る。つまり「16位~20位で2名当選させる」と言うことだ。「遠くに乗せてニアピンは取るな。それでもパーは絶対取れ」と言う難題。ほろ苦くも懐かしい思い出だ。

 1993年、4回目のタイ国赴任でこの準大手ゼネコンの代表者に成った。先ず、親会社名で行う公共工事や、支店運営と異なり、「現地法人は本社の出先ではない。別のエンティティー」と考えたことは、些かの軋轢を生んだ。色々あったが、2002年にタイを離れる迄、この考えを変えることはなかった。

 1994年から2年、JCC の理事を務めた。1994年には、機械部会と合同で視察団を組みミャンマーを訪れた。スーチー女史が、未だガチガチの自宅監禁下に置かれていた時代だ。関連省庁高官との会談では、先方の発言は判で押した様な決まり文句。只、その訥々とした弁舌に「本当は結構柔軟な思考を持つ人達なのでは?」と言う印象を持った。機会部会長の松野氏も同意見であったと記憶する。

ODAへの一陣の風

 1990年代、凄まじい交通渋滞で「世界最大の駐車場」と揶揄されたバンコク。道路以外の交通インフラ整備の必要性が叫ばれていた。現地建設業界の雄、イタルタイ社が手掛ける BTS の建設が実現の段階に入っていた。一方、日本政府はバンコク市内に地下鉄網を建設する為の借款を打ち出した。それまでも浮かんでは消え、消えては浮かんできた案件だが、愈々実現の段階に入った。御存知の通り、ODA には大きく無償と有償がある。前者の場合は日本の企業に特定した発注が許されるが、後者では、資格審査を通れば国籍に関係無く「一般国際競争入札」となる。個人的な感覚であり、当を得たものではないかもしれないが、日本以外が資金供与国の場合には、OECD のルールに唯々諾々と従う「優等生」ばかりではなかったと感じていた。日本人の血税で賄われる有償協力事業。その日本企業への落札率が10%を遥かに下回る。当時、このことに危機感を持った日本大使館・経協部隊に一陣の「風」が吹いた様に感じたのを覚えて居る。

 今、安倍首相は、時として100人を超える経済界トップを引き連れて外遊する。交通インフラをはじめとして、借款を絡めた国際トップ営業を行っている。今、2013年、そのことを不思議と思わせぬ時代だ。しかし、あの90年代の前半、「国際ルール順守と国益増進」この二つの的を一本の矢で射抜く必死の努力をした「大使館の3人の侍」、その姿は今も鮮烈に記憶に残る。メデイアが叩く「霞が関の弊害」は確かにあるのだろう。しかし、霞が関からやって来たあの男達は、やっぱり SAMURAI だったと思う。件の地下鉄工事全工区に日系企業が関わり、その後のバンコク新空港建設でも、多くの日本企業が関与したことは、御承知の通りだ。その後 OECF と輸銀が合併して JBIC と成り、更に ODA の実施機関が JICA に移ったと聞く。アジアのリーダーに成長しつつあるタイ国。そこへの日本の ODA は、今、どうなっているのだろうか。今後どうなって行くのだろう。あの3人が Last Samurais でないことを祈りたい。

帰国後

 2002年8月に帰国した。慣れぬ国内の営業に廻されたが、タイ国で得た人脈に、国内で幾度となく助けられた。タイに勤務した幸運に感謝した。そして何より、そうした人達と一緒に呑む「日本の酒」が美味かった。暫くして尊敬する先輩に勧められ、日タイビジネスフォーラム(JTBF)と言う任意団体に参加した。メンバーの多くが JCC 理事経験者、会長は丸子さん、元 JCC の会頭だ。仕事は海外から離れたが、タイとの縁は続いた。

 2008年、西松は外為法違反、政治資金規正法違反の疑いで家宅捜索を受け、連日新聞、テレビで叩かれた。夜遅く家に帰ると、家の前に新聞やテレビの記者が立っていた。最後は会社トップ2名の起訴、有罪に到るのだが、外為法違反の発端が、「タイ」だったので、タイ時代の戦友達は「そろそろアイツの名前が出る頃」と、期待しておられたらしい。残念ながら(?)検察に呼ばれることも無かった。今でも「タムマイ?」と、しつこく尋ねられる。「見掛けによらずマトモなんだよ、俺は。」と下を向いて呟く。兎に角、企業人として恥ずかしい事件だった。

 45年居た会社人生の最後は、不祥事一段落直後の常勤監査役だった。「組織から膿を出し切る」を、唯一の目標に努力したが、志半ばで終わった。執行権の無い役職では所詮は「言いっ放し」。世の中、そんなものなんだろう。半沢直樹さんには、是非「続編」で溜飲を下げて貰いたいものだ。

 JTBF の訪タイミッションもあり、今も年に1、2回はタイを訪れる。殆どがバンコク滞在の所為か、あまり本質的にタイが変ったとは感じない。既にこの国に利害得失を持たず、十分に鈍感になった感受性は、行き交う人々の流れから、方丈記の一節は浮かんでは来ない。日本に「タイ大好き人間」は多い。辟易とする程だ。自分も One of them。只、一応自戒はしている。「I love Thailand, but Thailand may not love me always.」



元タイ国西松建設(株)社長