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バックナンバー 2017-04

唐船風説書

第1回 2017.4.1 配信
JTBF 広報委員会

タイとの交易は、御朱印船の時代(16世紀末から17世紀始め)、当時の王都であり国際的な港湾都市として繁栄したアユタヤとの間で盛んであった。その後鎖国によって交易は途絶えたと思われがちであるが、実際は唐船を介して継続していた。唐船は中国沿岸はもとより遠く東南アジアと長崎を結び、その船乗りの口述記録は「華夷変態」(1644~1724 林春勝と林信篤の編纂)に納められている。その中から東南アジアを出航地とした記録を拾い上げ英訳したのが「The Junk Trade from Southeast Asia」で石井米雄氏(京大名誉教授、故人)の執筆による。JTBF広報委員会は、この本に触発され、華夷変態から特にタイを出航地とした記録を抽出して現代文に訳して紹介していきたいと考えている。出航地はシャム(アユタヤ)、リゴール(ナコン・シータマラート)、パッターニー、ソンクラーである。シャムとリゴールは山田長政ゆかりの地でもある。

延寶三年(一六七五)十三番(注①)パッターニー船の唐人共の口述

パッターニーと申す国の事、特別の夷国で風俗の悪いところでございます。昔から王位は女人で代々伝わり、国家の政道も構わず王位に就いているだけでございます。執権の家を三王と申しますが、数年来無道であった為臣下の内から反逆が起こり、一昨年三月に三王を殺し、その臣下の者が三王の位に登りこれも三王と申しておりました。殺された前の三王の子供はその節即時シャムの内のリゴールに逃げリゴール王を頼り、意趣を晴らすため軍勢一万余を借り請けて、当年四月初めに海陸両手より寄せ後の三王を攻めたところ、後の三王打ち負け、ひそかにパッターニーとリゴールの間のソンクラーと申すところに逃げ退いたため、前の三王の嫡子が元の位につきました。しかしソンクラーにも王が居り、後の三王の頼み応じ、これにも海陸の軍勢一万余を貸したので、その勢いを以って前の三王の嫡子を攻める手はずになっておりました。私共が出船のおり海手兵船が着岸したところでした。陸手はまだとのことでした。そのあとどうなったか存じておりません。これ以外に変わったことはありません。このような戦乱のため私どもも商売に苦労し、ようやく渡海してきた次第です。

 卯六月廿四日 唐通事九名連名

注① 年毎に入港順に番号がふられた。ただし全ての入船の記録が華夷変態に収録されている訳ではない。ちなみにこの年の収録の最後は29番船の口述。

延寶七年(一六七九)八番シャム船の唐人共の口述

シャムの事、前々に変わらず静謐にございます。シャムからの交易船は、今年は私の船と合わせ四艘の筈でございます。私の船が最初に出ましたが、廣南の前でシャム国王委託の舶を見懸けました。是も近日追って入津することでしょう。おらんだ船もシャムを出帆した一艘でございます。私共の船の後に出船した筈でございます。

カンボジャの事、総じて大王二王三王と申して、兄弟三人で国を所領しておられますが、本当の王は大王で、二王三王は副王でございます。しかるところ、三王の事、内々殊のほか強兵であることから、数年以前野心をいだき、大王を打取り、カンボジャを意のままにしてきました。それにより大王の嫡子は山中へ逃げ入り、以来山中に住んで居られます。時々三王と合戦しても、弱兵の故勝利することはできませんでした。二王(注②)の事、数年以前に病死しており、其軍兵とても僅かな事にございますから、三王を討つこともかないません。右の通りですから、数年以来カンボジャで船荷を調達することはできません。思明州からカンボジャで荷を調達しようと、船が一艘参りましたが、一向に商売が成立せず彼の地に逗留したまま、ご当地へ参ることが出来ずにおります。ただ委細の事はシャムとは国を隔てております為分かりかねます。いずれカンボジャからの船が入津することもあるでしょうから、委しくわかることでしょう。異国の事、右の外変わった事はございません。勿論大清ならびに東寧思明州の様子などは、遠国ですから、存じておりません。

 右の通り、唐人共が申すにつき、書付け差上げ申します、以上
 未六月廿六日 唐通事共

注② 原文は一王となっているが、二王の誤りと思われる。

延寶八年(一六八〇)十四番シャム船の唐人共の口述

シャムの事、先船が申上げた通り、今年は殊の外の洪水で、黒砂糖は乏しくなっております(注③)。シャムよりご当地へ参る筈の船、合せて七艘でございますが、その中シャムの船は三艘でございます。残り私船共に四艘は、皆々はじめてシャムへ渡った船でございます。この四艘は厦門へ帰帆する筈でしたが、厦門一乱の様子が聞こえて参りましたので、いずれも御当地へ渡ってくる筈にございます。右七艘の内、国王委託の船二艘は私の船に先だち出船し、一艘はご当地へ着津した四番船(注④)でございます。今一艘は未だ入津していないとの事、何方へ漂流しているのかも知れません。私の船に遅れて出た筈の船、今四艘でございます。追って入津するものと思います。

シャムの様子風説等色々お尋ねですが、存じていることは何事も申上げる筈にございます。私共の船は、当正月に厦門より出船し、三月二日にシャムへ着津し、四十日余シャムに滞在、ご当地へ早々渡船する用意の為、夜昼売物買物に時間を費やし、寸刻も風説等を入手する間も無く、則四月十五日に川口へ船を出し、川ロより五月廿二日に出船し渡海してきた躰にございますから、中々何事を承るにも其の間がございませんでした。さりながら、シャムで私共が滞在し商売していた所から程遠い海辺に、おらんだ人ならびに南蛮人ゑげれすなど、断えず滞在し常々商売をしていると聞いておりました。彼者共と出合うことはついにありませんでした。殊に言葉が通じませんから、出合うべき様もございませんでした。彼者共と商売する者は又別におる由とのことは聞いておりました。私共在留四十日余の内は何事も変ったことはありませんでした。

一船の者、こくしや役者の者、何れも厦門より新規にシャムへ渡った者共ですから、シャムの様子は一向にわからず、シャム在住の者は一人もございません。海上においても、あやしき船なども見ませんでした。日本の地何方へも寄らず、直にご当地へ今日入津いたしました。

 右の通り、唐入共が申すにつき、書付け差上げ申します。以上
 申七月十三日 唐通事共

注③ 黒砂糖は主な交易品の一つであった。
注④ この四番船の記録は収録されていない。

文責 奥村紀夫(JTBF 会員)