Logo of JTBF
トップ・ページ  バックナンバー・リスト
文字サイズ: 

バックナンバー 2017-06

唐船風説書

第3回 2017.6.1 配信
JTBF 広報委員会

タイとの交易は、御朱印船の時代(16世紀末から17世紀始め)、当時の王都であり国際的な港湾都市として繁栄したアユタヤとの間で盛んであった。その後鎖国によって交易は途絶えたと思われがちであるが、実際は唐船を介して継続していた。唐船は中国沿岸はもとより遠く東南アジアと長崎を結び、その船乗りの口述記録は「華夷変態」(1644~1724 林春勝と林信篤の編纂)に納められている。その中から東南アジアを出航地とした記録を拾い上げ英訳したのが「The Junk Trade from Southeast Asia」で石井米雄氏(京大名誉教授、故人)の執筆による。JTBF 広報委員会は、この本に触発され、華夷変態から特にタイを出航地とした記録を抽出して現代文に訳して紹介していきたいと考えている。出航地はシャム(アユタヤ)、リゴール(ナコン・シータマラート)、パッターニー、ソンクラーである。シャムとリゴールは山田長政ゆかりの地でもある。

天和二年(一六八二)九番 シャム船の唐人共の口述

私共の船は、元からシャム仕立ての船で、毎年ご当地へ渡海しております。去年も五月廿八日にシャムを出船し、ご当地へ直に渡って参る折り、海上において順風無く、その上七月十五日に悪風に逢い、連日の逆風の故、是非なく同十九日より広東を目差して船を乗り戻し、同廿二日に広東の内十二門と申す所へ乗り入れました。私と同国の船、即ち当五番船ですが、この船も右と同日に十二門へ乗り戻りました。その外は当三番広東船、同七番広東船共に四艘、同所に滞留越年し、ようやく今度五月十一日に、右の十二門より四艘、類船として渡海して参りましたが、右の内三番五番の船は、良い風筋を乗り渡ったせいか、先立って入津しております。私の船ならびに七番船は、乗り筋が悪く、広東前の浅海に船を乗かけ、数日の遅れになりました。しかし事故なく渡海し、去八日に当津之沖まで船を乗かけ、入津しようとした所に、俄に東風が吹いて入津できず、殊に大船の事とて操船が自由にならない怖れから、船を乗り過ごし、大村の領地へ同日に漂着しました。広東表の様子ですが、先船より申上げた通りに少も相違ございません。四艘の船彼地を同日に出船しましたから何れも同説の事でございます。海上においても、別に変ったこともなく、勿論あやしい船にも逢いませんでした。私共と同様の唐船にも逢いませんでした。この外別に申上げる事はございません。

 右の通り、唐人共が申すにつき、書付け差上げ申し上げます。以上
 戌六月十六日     唐通事共

天和二年(一六八二)二十五番 シャム船の唐人共の口述

シャム国の事、例年に変わらず静謐にございます。定めて先立って入津したシャム船共も申上げていることでしょう。まことにその通りですが、シャムは去年より殊の外の飢饉で、その上甚だしく疱瘡が流行して、老若に限らず死亡するものが夥しい状況です。この外は変りありません。

当年正二月に、東寧(注①)より糧米調達のため、順次四艘の船がシャムへ参り、内三艘は私どもの船が滞留中に出船し東寧へ帰帆しました。今一艘も出船する筈でしたが船底を損じたため、当年の出船は出来なくなりシャムに滞留したままです。これらの船の外、他国より参る船も別にございませんでした。毎年ゑげれすの商船が参りますが、これも早晩八月に参ることでしょう。定めて今時分にシャムへ入津していると思われます。今度私の船が渡海の内、洋中において何船にも逢いませんでした。風難に逢った為、薩摩の地へ漂着した外に、どこの国へも船を寄せることはありませんでした。この外、別に申上げる事はございません。

 右の通り、唐人共が申すにつき、書付け差上げ申します。以上
 戌八月二十七日     唐通事共

注① 台湾の古称

天和三年(一六八三)五番シャム船の唐人共の口述

シャム国の事、変わりなく静謐でございます。今年ご当地へ渡海の船、私共の船と合わせて五艘でございます。内一艘は広東へ船を寄せて、広東において出来るだけ客荷物共を積添えてから、ご当地へ渡ってくる筈でございます。

ジャカルタよりおらんだ船が一艘、五月十四日にシャムへ参りました。

去年カンボジャよりご当地へ渡って来ようとした船が一艘、船頭は張孝官と申す者ですが、去年六月一日にカンボジャを出船しましたが、同日の暁、占城(注②)の内琳琅浅と申す州に船を乗り懸け破船致しました。乗組みの唐人共は別状ありませんでしたが、船荷物は少しも残らず破失しました。船頭は今はシャムに戻り滞留しています。財副(注③)林亨官と申す者も、シャムに滞留していましたが、今度この船に便を乞い渡って参りました。この者は右破船の所に居た折り、カンボジャの様子を伺ったところ、東寧の秦舎(注④)手下の禮武鎮之官、楊二と申す者、数年以来秦舎の下知により、広東海辺の嶋々に滞留し、少々広東の海辺の地で知行を得る積もりでしたが、折々広東の内地より兵船が出て追払われる為、広東の海上に永々滞留も出来ず、広南表、又はカンボジャなどへ折々漂って来ておりました。そんな折、去年十一月に、兵船七十艘余、人数三千程にてカンボジャへ船を乗り入れ、カンボジャの地を借り暫時滞在したいとの事でしたが、カンボジャの国王は楊二の兵が攻めてきたと思い、カンボジャを空け人民共に悉く奥の山中へ引籠りました。カンボジャの軍民共に数千を超えることはない由にございます。それ故右の通りへ山中へ逃げ退いたとの事にございます。しかし、楊二は元よりカンボジャを攻め取る積もりではなかったので、山中へ使者を送り是非帰国する様にと国王へ申し遣わしましたが、誠と思わず山中より出てこなかった故、楊二の軍勢今頃はカンボジャにとどまったままです。この事がシャム国へ聞こえたため、シャム国王より態迎船を遣し、楊二方へ申越したのは、そのもとカンボジャに居ても、住民もおらず兵糧も続かないだろうから是非にこの方へ参られたらよいだろう。そうすれば国中の軍勢をも頼りたい由を申越されましたが、楊二としては元より東寧方の者で海上の諸務を承っておるにつけ辞退致し、シャムへは参りませんでした。その使者が帰帆する船に、私船が出船の時にシャム河口で逢い、右の様子を聞きました。この外は別に申上げる事もございません。海上においては只今先立って入津した東寧船に逢いました。又一艘私船の後にいましたが、何国の船とは存じません。明日は入津することでしょう。これより外、変わったことはございません。

 右の通り、唐人共が申すにつき、書付け差上げ申す次第です。以上
 亥六月朔日     唐通詞共              

注② チャンパ、ベトナム中部沿海地方
注③ 船頭に次ぐ役名か
注④ 前回配信の「延寶八年(一六八〇)十五番船」の注②で述べたことだが、清朝初期のこの時期、明朝遺臣鄭成功とその一族による抵抗が続いていた。秦舎は鄭成功の長男(錦舎)の二男で、鄭成功の孫にあたる。一族は東寧(台湾)を拠点としていた。

天和三年(一六八三) 七番シャム船の唐人共の口述

シャムの様子は、先立って入津した五番シャム船の唐人共が申上げた通りに、少しも変らず、殊に五番船は五月十八日に出船しましたが、私船は翌日十九日に出船致しましただけに、異説はございません。シャムを出帆した後船は、今三艘にてございます。内一艘は広東へ寄せて、少々客荷物等を積添え、広東よりご当地へ渡ってくる筈でございます。これら三艘は私共の船に五六日も後れて出船した筈でございます。今度洋中においても、何船にも逢っていません。もっとも私共の船もどこへも寄る必要がありませんでした。この外申上げる事はございません。

 右の通り、唐人共が申すにつき、書付け差上げる次第です。以上
 亥ノ六月二日     唐通事共

文責 奥村紀夫(JTBF 会員)