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バックナンバー 2017-07

唐船風説書

第4回 2017.7.1 配信
JTBF 広報委員会

タイとの交易は、御朱印船の時代(16世紀末から17世紀始め)、当時の王都であり国際的な港湾都市として繁栄したアユタヤとの間で盛んであった。その後鎖国によって交易は途絶えたと思われがちであるが、実際は唐船を介して継続していた。唐船は中国沿岸はもとより遠く東南アジアと長崎を結び、その船乗りの口述記録は「華夷変態」(1644~1724 林春勝と林信篤の編纂)に納められている。その中から東南アジアを出航地とした記録を拾い上げ英訳したのが「The Junk Trade from Southeast Asia」で石井米雄氏(京大名誉教授、故人)の執筆による。JTBF 広報委員会は、この本に触発され、華夷変態から特にタイを出航地とした記録を抽出して現代文に訳して紹介していきたいと考えている。出航地はシャム(アユタヤ)、リゴール(ナコン・シータマラート)、パッターニー、ソンクラーである。シャムとリゴールは山田長政ゆかりの地でもある。


天和三年(一六八三) 十一番パッターニー船の唐人共の口述

私の船は、当正月に広東で荷を積み、パッターニーへ渡海した商売船でございます。すなわち正月十九日に広東を出船し、二月十七日にパッターニへ着船し、少々商売を行い、当五月十一日にパッターニを出船し、広東へ帰帆しました。広東外海の魯萬という嶋へ、閏五月三日に着船し、広東の様子を聞き出そうと船を乗り入れようとしたところに、折節漁船一艘に逢いました。其の船の者共が申すには、あなた方の船は商売船と見えるが、この嶋の内は北瞭澚という湊で、この湊に大清方の兵船が多く滞留していて危険で、見付かれば打取られてしまいます。この間も日本へ渡海途中の商船が一艘、船頭は察勝官という船ですが、去る廿四日に兵船に打取られました。早々に何方へも退いたほうがいいです、と申しますので、船中の者共驚き、船を脇の嶋隠れに乗り入れようとしたところに、又小船が一艘近づき私共の船を目がけて乗り込んできました。定めて賊船に違いないと思われ、船中にも石火矢に薬を込めて待ち構えておりましたが、賊船ではなく少々荷物を積んでおった小船でございました。即ち右(注①)兵船に打取られた察勝官船の三娘という者が勝官船に乗おくれ、その上これも右の悪い知らせを漁船から聞いて、何処へ行くすべもなく、私共の船へ寄せ、積んでいた薬種を、私共の船のこしょうやえんすなどに換え、小船は脇へ乗り捨ててきました。この三娘は、私共の船に是非にと便船を請い、この度同船で渡海してきました。右に申上げましたように、この船は本来ご当地を目指してきたのではなく広東へ帰帆する積もりでしたが、海辺に兵船が多く中々乗り入れることも出来ないと聞き、直ちに翌日四日に魯萬を出船し、ご当地へと渡海してきました。その節も何方へ行くべきか心当てがありませんでしたが、私共がかねがね信じている船神に向ってみくじを取って神慮にまかせたところ、日本へ参って諸難を遁れるべきとのみくじでしたので、いよいよご当地へと渡海して参った次第です。

右に述べた察勝官のことですが、去年ご当地で大船を買い、広東とご当地との商売を専らにし、去年より広東の地に滞在して客荷物など色々才覚して積んで参る予定で、大形糸物端物荒物等をも少々積込んでいたところに、右に述べたように、閏五月廿四日に兵船に取られたいきさつ、即ち私共の船に便船してきた三娘という者も漁船に逢って聞き、又私共も漁船から聞きました。この三娘という者、かねては察勝官の船に乗って、北瞭澚という湊に係留していたところに、当三月も広東の内地から兵船が乗り出し、外国の船共を追払ったので、その節は勝官船も早々逃げのき、東京(注②)の湊へ戻りました。しかし元から広東での商売を心懸けており、折りよく順風を得たので、船を乗戻し元の広東へ五月十七日に着船し、すぐに北瞭澚に船を着け、客や荷物は船から出しましたが、客の中には未だ広東内地から出なかった者もございました。又は出ても荷物は出さなかった者もございました。一方勝官の方は殊の外ご当地への渡海をいそぎ、殊に段々風も不順になるので、客共が帰るのを待ちかねていたので、三娘へ申付け、五月廿九日に広東の内地へ客を催促するため遣しました。三娘は、閨五月三日に広東の内地に着いて、勝官船に乗る客共を急がせ、同十八日に元の船へ乗る積もりで内地を出、同廿二日に右北瞭澚の海辺へ出た所に、近くに兵船が多く、殊に勝官船が見えなかったので不審に思いながらも、定めて右の兵艇共をおそれて、別の湊へ遁れたと思っていました。三娘は広東を出る時も少々荷物をはこび出し、北瞭澚の海辺で、小船三艘に荷物共を積み、勝官船へと向ったところ、兵船に見付かり追出されたため、三艘ともども逃げたのですが、二艘は難なく兵船に取られてしまい、三娘が乗っていた小船だけは運よく遁れ、湊の外へ乗り出しました。方々を尋ね探しましたが、勝官船はどこにも居らず困っておった時、同廿八日に漁船に逢って、勝官船の行方を知らないかと尋ねたところが、勝官船は、去る廿四日に兵船に取られ、船中に居た唐入共六十七八人の内、大方は殺害されようやく十四五人生残り、これもからめ取られて広東の内地へ連れていかれ、船は翌廿五日に焼捨てられたと、漁船の者共が申すのを聞き、とほうもなく驚き、しかしその跡に行っても、乗っていた小船を寄せることもできず、近くの魯萬という嶋の近くで、私共の船を見かけ乗寄せて来たので、既に申上げたように当方は賊船かと思い、防戦を覚悟しましたが、賊船では無く、三娘が乗っていた船で、幸い船中に知りあいも何人か居たので、その先は私共の船に乗せました。小船に積んで居た薬種等の荷物は、荷物換えにして、小船は乗り捨てました。察勝官の船のいきさつは、漁船の者共が申したままで、確かめることは出来ませんが、二艘の漁船が同じように申していますから、偽りあるまいと思います。さてまた右の勝官船が兵船の難に遙う以前にも、北瞭澚に関っていた船は、勝官船一艘で外には類船もありません。

パッターニーのこと、近年別に変わったこともございません。国中静謐でございます。他國との紛争も無く、国の王は前々の通り女王でございますが、国中が別状なく治っております。この外別に申上げる事もございません。尤も東寧や大清方のことは、少しも存じておりません。洋中においても、変わった船にも逢うことなく、唐船にも見かけた船はございませんでした。

 右の通り、唐人共が申すにつき、書付け差上げ申す次第です。以上
 亥六月廿四日     唐通詞

注① 原文は縦書きなので、「右」「右に」という表現がよく出てくる。横書きでは「上」「上に」とすべきだが、あえて原文のままにしておく。
注② トンキン、海南島とベトナムの間、現在のハノイの近くの湾を指すと思われる。


天和三年(一六八三) 十九番シャム船の唐人共の口述

シャム国のことは、先立って入津した五番七番(注③)のシャム船より申上げた通りで、別に変わったことはございません。国中もいよいよ静謐でございます。ただ東寧秦舎の手下で禮武之官の楊二と申す者のことは、定めて先船より申上げておるはずです。東寧より諸方へ往来する商船共を加護するため兵船七十艘余、軍兵三千程で、内々広東表ならびに広南、東京、カンボジャの辺海を巡廻しておりましたが、この夏の初めに、カンボジャへ船を乗り入れ、カンボジャの地を借りてしばしの休息所にしたいと、兵船共を引率してたまたまカンボジャ内地へ船を乗り入れました。カンボジャは辺鄙な国で、そうじて住民も少ない所ですから、国王を初め諸官に至るまで、揚二の勢に驚き、攻めて来たと思ったのか、国王は奥の山中へ引籠りました。そのため楊二は、私共が出船する時迄、カンボジャに寄住しておりました。元よりカンボジャを統治する本意はありませんでしたから、住民を害すこともありませんでした。山中に引き籠った国王へも使者を遣し、王国を妨害する積もりは無いので、お戻り下さいと申遣したのですが、国王は疑の心が深くてお戻りになりませんでした。このカンボジャも他と同じく統治国でありますから、楊二にとっては天与の機会といってもよく、国王が退いているのを幸い、軍戦にも及ばずして領有できたのは、幸運のきわみといっていいでしょう。そうはいってもカンボジャはカンボジャ人が国王になるしかない所で他国人が国主になるのは前代未聞、勿論唐人が国主に成ることもありえない。他国がなりゆきで暫時領有することがあっても、国の物産も無く住民も帰服しないとあっては必需品も整わず、それゆえ楊二の本意はカンボジャを統治することではありませんでした。一方カンボジャは古来からシャムへ貢納する属国でした。そしてこの度の楊二のことがシャム国王へ聞こえたので、国王から楊二へ使官を差遣し申入れたのは、カンボジャはシャムの属国であり、またシャムと東寧は友好関係にある。貴殿も東寧のお手下ですから決してご異心を持っておられることはないと承知している。従ってこの度の寄住においては決してカンボジャの住民を妨害することはありますまい、若し何にてもご不如意の事があれば、この方へ仰せられたく、あるいはこの方の領内へご来段していただいても構わない旨、申し遣しました。楊二の返事にも、いかにもご来意の通りでよくを理解している。元より国を妨害するつもりで入船したのではないので、お気遣いありませんように。お国へ渡るようにと仰せられるますが、その段にも及びません、暫時ここに滞在した後追っつけ東寧へ帰国する積もりですから、そちらへは参りません、とのこと。よってカンボジャも別段のことはございません。

私の船は、閏五月廿六日に出船しました。徐朝官と申す者の船が一艘、私の船に両日おくれて出船した筈でございます。未だ入津していないとのこと、海上にても見かけませんでした。また徐歓官と申す者の船が一艘、私の船に五日程おくれて出船した筈でございます。この船は広東へ寄港して客荷物を積添えてからご当地へ参る筈でございましたが、ただ今当津で伺ったところでは、広東へ大清の兵船が多致出ていて逗留できず、東寧へ寄港して東寧からご当地へ参る筈のことでございます。従ってシャムを出船した船は、右の二艘と私の船を合わせて三艘で、これがすべてになります。この度の渡海中に、洋中においては、薩摩の沖で唐船二艘を遠くに見かけました。一艘は私の船の先にあり、一艘は後にありました。いずれも私の船より小船で定めてご当地へ入津した船の内でしょう。その外は何船にも逢いませんでした。またこの度は悪風だったので五嶋の内へ碇をおろしましたが、それ以外の領地へ船を寄せたことはございませんでした。以上申し上げたことの外、別に申上げることはございません。

 右の通り、唐人共が申すにつき、書付け差上げ申す次第です。以上
 亥七月十四日     唐通事共

注③ 五番七番船の口述は前回第3回配信で紹介済み。特に五番船の口述とこの十九番船の口述は符合し、こちらがより詳しい。五番船の注でも触れたが、清朝初期のこの時期、明朝遺臣鄭成功とその一族による抵抗が続いていた。秦舎は鄭成功の孫にあたる。一族は東寧(台湾)を拠点としていた。その秦舎の手下楊二の話題はカンボジャに拘ることであるが、当時シャムでも大きな話題を呼んだと推測される。またカンボジャの背後にあるシャムの存在や、シャムと東寧の関係も伺えて興味深い。

文責 奥村紀夫(JTBF 会員)