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バックナンバー 2017-08

唐船風説書

第5回 2017.8.1 配信
JTBF 広報委員会

タイとの交易は、御朱印船の時代(16世紀末から17世紀始め)、当時の王都であり国際的な港湾都市として繁栄したアユタヤとの間で盛んであった。その後鎖国によって交易は途絶えたと思われがちであるが、実際は唐船を介して継続していた。唐船は中国沿岸はもとより遠く東南アジアと長崎を結び、その船乗りの口述記録は「華夷変態」(1644~1724 林春勝と林信篤の編纂)に納められている。その中から東南アジアを出航地とした記録を拾い上げ英訳したのが「The Junk Trade from Southeast Asia」で石井米雄氏(京大名誉教授、故人)の執筆による。JTBF 広報委員会は、この本に触発され、華夷変態から特にタイを出航地とした記録を抽出して現代文に訳して紹介していきたいと考えている。出航地はシャム(アユタヤ)、リゴール(ナコン・シータマラート)、パッターニー、ソンクラーである。シャムとリゴールは山田長政ゆかりの地でもある。


天和三年(一六八三) 二十二番シャム船の唐人共の口述

私のこと、徐歓官と申す船頭でございます。毎年シャムよりご当地へ渡海して来ております。当夏閨五月八日にシャムを出船し、途中広東へ船を寄せ、広東において客荷物をも積み、ならびに船中に積んできた、広東向けの荷物等を売り払って、糸端物を買い調え、ご当地へ渡海してくる予定で、六月十四日に広東の内、十字門と申す所迄船を乗入れて参ったところで、折節漁船に逢い、漁船の者共が申すのを聞くと、ここは大清方の兵船が湊ごとに進出してきているので、ここに船をとどめては危険、殊にこの間も日本渡海の船が一艘、兵船に打ち取られたそうですから、一刻も早くここを立ちのき、どこか外の国へ参られたほうがいいと申すのを聞く内に、兵船と見えるのが、私の船を目がけて、三十艘ほど近づいてきたので、さてこそと思い、即刻帆を上げ、その日のうちにそこを離れ、さりとて最早参るべきところもなく、その上船中に水も乏くなっていましたので、同二十日に東寧(注:①)へ船を乗り寄せました。折よく今日私の前に入津した、二十一番東寧船が碇をおろしていた湊に一所に留ることになりました。そこで東寧の様子をおおよそ伺いましたが、混乱に陥っている様子で、湊の内へ船を入れるのは止め、右二十一番船に蓄えてあった水を請い受け、同二十二日に彼の地を出船し、ご当地へ渡り越してきました。ところが当十二日に大北風に逢った為、是非なく薩摩の内片浦へ船を乗り入れ、その後薩摩より送られてきました。

右の通り、広東の十字門に滞留していた時、漁船の者共が話したのは、日本渡海の船が一艘打ち取られたことでしたので、誰の船かと尋ねたところ、船頭の名は存じないが、大船で丁銀や銀銭等を沢山持っており、殊に人数は百十五人乗組んでいたところ、九十八人は殺され、十七人は海に飛入り陸に泳ぎついて命は助かったものの捕えられ、捕らえられた所の鎮守(注:②)に届けられたという。この内に船頭もいたが、船も則刻焼かれてしまったという。この十七人に鎮守から様子を尋ねたのに対し、お尋ねの事、いかにも日本へ渡海する商船で、最早人数も乗組み、荷物の積高は一萬貫匁にも上りますと、偽りに答えたので、鎮守の方は、さてはそのように大量の積荷等を、兵船どもが打ち取っても、鎮守へ届けがないのは非法の至であるとて、先ず第一に積物乱奪の穿鑿が詳しくなされました。殊に内々北京の康熙帝(注:③)から諸方へ発せられた勅命にも、異国への商船を打ち取る様にとはなく、東寧船であればは憚りなく即時に打ち取るようにとの事であったので、何とて勅命にも無い商船を打ち取ったのかと、兵船は申すに及ばず、その大将たる者共は重罪に問われるべきである、とこのように殊のほか難しい事なりました。十七人の生残りの者共は、船も荷物も共に無くなったこととて、様々大分偽りの白状をし、その白状にまかせ穿馨するに至った事よと、漁船の者共が申すにつき、何とかくわしい物語をも、もう少し聞きたいと思いましたが、右の通り兵船が目がけてきたのを見たものですから、その日に船を乗出し、東寧へ着船いたしました。そのようなわけで、私の船に荷物高は少く、東寧においても商品を求めることなく、乱国とのことでしたので、先ずご当地を目指して渡海してまいりました。このほか、別に申し上げることはございません。シャムの様子も変わったことはございません。シャムを出船して先着して船共から既に聞かれた通りでございます。もっとも、今度渡海の洋中でも変わった船には逢いませんでした。薩摩の近くで逆風に逢い、是非なく薩摩の地へ船を乗入れました。この外にはありません。

 右の通り、唐人共が申すにつき、書付け差上げ申す次第です。以上
 亥七月廿六日     唐通詞共

注① 台湾の古称。前号まで何回か注記で触れたが、明朝遺臣鄭成功とその一族による抵抗が、ここを拠点に続いていた。この時期に至って、その東寧もいよいよ秦の侵攻を受けるようになった様子が伺える。
注② 地方役人を指すと思われる。
注③ 清朝第四代皇帝。西洋文化を積極的に取り入れ、唐の太宗とともに、中国歴代最高の名君とされる。


天和三年(一六八三) 二十三番シャム船の唐人共の口述

シャム国の檬子、いよいよ変わったこともなく、国中が平安であることは、シャムを出船し先に到着した船から段々申し上げている通りで、その風説に少しも相違ございません。私の船の事は、ご当地へ渡海する筈ではございませんでした。シャムの産米を積んで東寧へ渡り、東寧で売り払って、すぐに東寧よりシャム本国へ帰帆する予定で、閏五月十九日にシャムを出船し、六月廿二日に東寧の湊に着船いたしました。ところが東寧は、乱国になっていて、殊に東寧領地のびやうと申す所をも、大清方に取り押えられたことを聞きましたので、もし船を湊の内へ乗り入れては、米を軍用に徴用されずには済まない上、その上船をも借り上げられては、重ね重ね身上滅亡になってしまいますので、早々同日に彼の地を立ちのきました。しかしシャムへ帰帆する順風が無い時節ですから、是非もなく荷物も無い船で当地へ乗渡ってきました。そうして薩摩天草の近くにきたところ、特別な風悪に逢い、よんどころ無く天草へ船を寄せ、碇をおろした次第です。東寧からの洋中において、何船をも見かけませんでした。勿論今度天草へ漂着した以外、日本の別の湊へ船を寄せたこともございません。東寧の様子の事は、東寧船より委細を申上げることでしょう。私の船は右に述べたように、着船のその日にすぐ東寧の地を立のきましたから、委しいことは存じ上げません。

 右の通り、唐人共が申すにつき、書付け差上げ申す次第です。以上
 亥七月廿六日    唐通事共

天和三年(一六八三) 二十四番シャム船の唐人共の口述

シャム国の事は、先だって入津した、五番七番十九番二十二番船より申上げました通りで、少しも相違ございません。国中いよいよ以って静謐にございます。私の船の事は、シャムを六月九日に出船して、ご当地へ渡海して参りましたが、洋中にて風筋が段々悪くなって来た為、七月十四日に薩摩へ漂着して、同月廿四日に薩摩を出船し、今朝入津いたしました。私の船より両日後に、徐歓官と申す者の船が、出船した筈でございますが、只今お伺いしたところ、既に入津した二十二番船がそれでございます。詳しいことはこの船より申し上げている筈です。また薩摩の内に、もう一艘東寧船が漂着したと聞きましたが、これも風次第に後から入津することでしょう。洋中は別に変わった船に逢うこともありませんでした。この外別に申し上げることはございません。、

 右の通り、唐人共が申すにつき、書付け差上げ申す次第です。以上
 亥八月二日     唐通事共


文責 奥村紀夫(JTBF 会員)