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バックナンバー 2017-10

唐船風説書

第7回 2017.10.1 配信
JTBF 広報委員会

タイとの交易は、御朱印船の時代(16世紀末から17世紀始め)、当時の王都であり国際的な港湾都市として繁栄したアユタヤとの間で盛んであった。その後鎖国によって交易は途絶えたと思われがちであるが、実際は唐船を介して継続していた。唐船は中国沿岸はもとより遠く東南アジアと長崎を結び、その船乗りの口述記録は「華夷変態」(1644~1724 林春勝と林信篤の編纂)に納められている。その中から東南アジアを出航地とした記録を拾い上げ英訳したのが「The Junk Trade from Southeast Asia」で石井米雄氏(京大名誉教授、故人)の執筆による。JTBF 広報委員会は、この本に触発され、華夷変態から特にタイを出航地とした記録を抽出して現代文に訳して紹介していきたいと考えている。出航地はシャム(アユタヤ)、リゴール(ナコン・シータマラート)、パッターニー、ソンクラーである。シャムとリゴールは山田長政ゆかりの地でもある。


貞享三年(一六八六) 八十番シャム船の唐人共の口述

私の船の事、昨年秋シャムより商売のためご当地へ渡って参りましたが、年度の買い付け枠の限度外とのことで買い取っていただくことが叶わず、たってお願いしてようやく雑用の分だけ買い取っていただき、残りの荷物は直接シャムに積み帰りました。しかし積帰った荷物の分、もし買い取っていただけたなら、その売り上げ高で異国向けの荷物を調達して積み帰るはずだったところ、その節の嘆願は聞き入れてもらえず、是非なく旧冬は積み帰りましたが、これまで何度もご貴国を頼りに荷物を積んで参りましたから、ご厚恩にあずかりたいと存じます。なかんずく、去年新たに商売の銀高制限が仰せ出されましたから(注①)、最早当春から今迄、大清をはじめその遠国の国々よりの商船も多数来朝し、買い付けも段々に進み大方右の銀高枠も尽きてしまったと察しますが、敢えて恐れず又々わずかの荷物を積み参り商売を願いあげるのは、いかにも迷惑千万かもしれませんが、以前からシャムの船はご当地から銅や蒔絵の道具その外色々の商品を調達し、それを積み帰って少々の利を得ていたのは特別のお計らいと存じ、むずむざ金銀を持ち出すことはしておりません。したがって、ご当地では多くの商人が大分シャム向けの物品を調え置いている由、旧冬もご当地にて聞きおよびましたから、今度いよいよお願いするために、折角千万里の難所をいとわず乗り渡ってまいりました。シャムより当年ご当地へ志してきた商船は、私の船と共に三艘でございます。一艘は只今着津したばかりの船で、今一艘は後から来朝する筈でございます。

シャム近辺の内奥の国々も、シャムと同様太平で、少しも変わったことはありません。シャムにも諸方より大分商船がやってきておりまして、いよいよもって賑わしい状態です。私の船は五月五日にシャムを出船しましたが、海上において度々逆風にあい、この間船足が落ちましたが、ようやく数日前から順風を得て、日本の内どこの湊へも船を寄せることなく、直接ご当地へ入津できました。今度渡海の洋沖で、変わった船を見かけたことはありません。只今この外海で唐船を一二艘見かけただけでございます。この外別に申上げることはございません。

 右の通り唐人共が申すに付き、書付け差上げ申しあげます、以上。
 寅七月十三日       唐通事共

注① この船が到着する前年、貞享二年(一六八五)から貿易総額の枠が定められた。これは定高(さだめだか)貿易とよばれ、オランダ船には年額銀3000貫、唐船には銀6000貫が割り当てられた。この規制は金銀貴金属の国外流出を抑えようとするもので、この後に見られるように金貨や銀貨による買い取りを必要としないバーター取引きは、少し大目にみられるように変わっていった様子がうかがえる。


貞享三年(一六八六) 八十二番シャム船の唐人共の口述

当年シャムよりご当地へ渡海してきた商船は、私の船と共に三艘でございます。一艘は船頭徐森官の船で、私の船より先だって来朝しました。また一艘は船頭王鐸官と申す者の船でございます。この船はシャムの河口(注②)で梶を損じた為、修理のため河内へ乗入れましたので、少し遅れ近日中に入津する筈と察しています。さて私の船のこと、昨年秋シャムから商売のためにご当地へ渡ってきましたが、買い付け枠外とのことで、やむなく荷物等を積み帰りましたが、またまたご貴国のご恩恵を得たいと、遠方を顧りみず、五月十五日にシャムを出船しました。途中、幾度か大風にあい特別難渋しました。しかし船道具等も損じることなく、恙なく今日着津しました。今度ご貴国を頼り渡海して参ったのも、別に嘆き事を申し上げるつもりはなく、ただおそれながら荷物替(注③)をお赦しくださいますよう、たってお願する次第でございます。

さてシャムとその内奥の国々も太平でございますから、軍要の沙汰もかつてございません。大清のことも、彼地より商船が多数参っておりますからから、静謐の段、折々うかがっております。今度海上において、異形な船にもあいませんでした。また日本の地何方へも船を寄せることなく着津しました。この外別に相変わったことはございません。

 右の通り、唐人共が申すに付き、書付け差上げ申しあげます、以上。
 寅七月十三日       唐通事共

注② チャオプラヤー川
注③ バーター取引を指すと思われる。


貞享三年(一六八六) 九十三番シャム船の唐人共の口述

ご貴国のご仁政をかねがねお慕いしておりました故、シャムよりも毎年商売のため、商船が数艘来朝しておりました。その内の一艘、私の船のこと、五月十一日にシャムを出船しましたが、不慮に河口にて梶を損傷し、やむなく船を河内へ乗入れ、ほぼ修復を終えて、去る六月十一日にシャムを出船しました。しかし当年は例年に変わって風がつよく、何度か危ない目にあい、船も沈溺の躰にございましたから、積んでいた荷物を少々海に捨てました。船が軽くなったせいで、露命を助かりようやくご当地へ着津しました。

シャムは例年とは変わり、大清の地から商船が数多くやってきては、恙なく商売を終え次々に帰帆していきます。殊にまたシャム領地から小船で商売する者が絶えず参りますが、少しも胡乱な者が乗ってきたとは聞きませんでした。その内、広南へ渡海する者の話しで旧冬ご当地より帰帆した船頭巌梓官のこと、広南の近く外羅と申す所において破船し、船中の荷物を捨てたのは申すに及ばず、客と船員の内五人が溺死した由伺いました。 シャムへは例年の通り、内陸からもうる人(注④)が商売のためにやって来ます。その外おらんだ船が一艘じやがたらより渡船して日本向けの荷物を調達して、私の船より先立って出船しましたから、ご当地へ入津しております。この外小船が多数着津していますが、皆シャム近辺の者達で、毛頭シャムの法制度に相反する者はございません。不審な者は一人も見かけません。、

去年の夏ご当地へ渡ってきたシャム船頭除潮官の船のこと、洋沖で破船したものか、自今便りがございません。また大清その外の地よりシャムに到着した船からも、何国かに漂着したとの話しは伺いません。そうであれば、海上において沈溺したものと推察します。

今度シャムより持渡ってきた僅かの荷物は、大方荒物でございます。もっとも、前々から商売させていただいておりますが、金銀を持ち出すことは毛頭なく、商品に買い換えて持ち帰っていますから、結局枠外の取引にさせていただき、少しなりとも利潤を得させていただいております。この度もおそれながら先にお願申し上げた条々、私も同前に荷物替にご許容していただければ、双方共に泰平に渡世を迭り、格別広大なお恵みにあずかることができます。

さて大清北京その外諸方共に静謐でございます。当春大清より渡ってきた商船の者達から聞いたところによると、殊にシャムとその近辺内奥の国も変わった様子はございません、ますます太平でございます。今度海上において不審な船にあうこともありませんでした。勿論ご法令を守り、日本のどこの湊へも船を寄せることはありませんでした。この外別にお伝えする風聞もございません。

 右の通り、唐人共が申すに付き、書付け差上げ申しあげます、以上。
 寅七月廿三日       唐通事共

注④ ムーア人か。ただし陸続き近国のイスラム教徒を指しているかと思われる。


貞享三年(一六八六) 百一番パッターニー船の唐人共の口述

私の船のこと、昨年秋内奥の国パッターニーと申す所より、ご貴国をお頼りし、商売のため渡海して参りましたところ、お割付の外とて、ご当地にて雑用の分を少し売らせていただき、残った荷物は旧冬積み帰り、直接もとのパッターニーへ着船しました。しかし積み帰った荷物は何れも日本向けの商品ばかりで、かつて外の国で商売したことのない物ばかりですから、どうしてもご貴国のご恩恵にあずかりたく、六月二十五日に、パッターニーを出船しました。ところが洋中において何度か悪風にあい、船もあやうい状態で、船道具等も大分損傷したため、その儘船を乗り続けるのは難しくなり、浙江の内普陀山(注⑤)に船をよせ、順風を待つあいだ暫時滞留しました。少々南風が出てきたので彼地を出船し、日本の地を見かけた折、又々大風にあい、船も沈溺の躰にあったので、急いで荷物類を海に捨て、船が軽くなって風難を遁れ、露命を助かり、当月十日に薩摩領内に漂着し、そこから挽き船で送り届けていただきました。同船の者達も安堵し、恙なくご当地へ致着津しました。

さて私が出船したパッターニですが、例年に変わりなく静謐でございます。その他パッターニーの近所内奥の国々も、太平であると聞いております。先頃普陀山に船をよせ数日逗留しましたが、大清十五省共に寧謐で、入民も安穏であるとのこと、委しく聞きました。今度海上において不審な船も見かけず、只この湊の外で帰帆の唐船を数艘見かけた迄にございます。勿論薩摩の外、日本の内何国へも船を寄せたことはありません。この外別に申上べることはございません。

 右の通り、唐人共が申すに付き、書付け差上げ申しあげます、以上。
 寅九月晦日       唐通事共

注⑤ 上海の近く杭州湾の外にある島


文責 奥村紀夫(JTBF 会員)