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バックナンバー 2017-11

唐船風説書

第8回 2017.11.1 配信
JTBF 広報委員会

タイとの交易は、御朱印船の時代(16世紀末から17世紀始め)、当時の王都であり国際的な港湾都市として繁栄したアユタヤとの間で盛んであった。その後鎖国によって交易は途絶えたと思われがちであるが、実際は唐船を介して継続していた。唐船は中国沿岸はもとより遠く東南アジアと長崎を結び、その船乗りの口述記録は「華夷変態」(1644~1724 林春勝と林信篤の編纂)に納められている。その中から東南アジアを出航地とした記録を拾い上げ英訳したのが「The Junk Trade from Southeast Asia」で石井米雄氏(京大名誉教授、故人)の執筆による。JTBF 広報委員会は、この本に触発され、華夷変態から特にタイを出航地とした記録を抽出して現代文に訳して紹介していきたいと考えている。出航地はシャム(アユタヤ)、リゴール(ナコン・シータマラート)、パッターニー、ソンクラーである。シャムとリゴールは山田長政ゆかりの地でもある。


貞享四年(一六八七) 九十八番パッターニー船の唐人共の口述

私共の船の事、去年パッターニーを出立しご当地へ渡海してきた百一番船でございました(注①)。その節は商売させていただけず、ようやく雑用分の荷物だけ処分して、そのまま積み戻った船でございます。去年は十一月廿七日にご当地を出船し、パッターニーへ帰帆の積りでしたが、洋中において正月三日に大風に逢い、船道具帆道具共に大分損傷したため、是非なく寧波(注②)へ乗り戻し、道具等の修復をしたところ、最早パッターニーへの渡海はかなわない時節になってしまった為、よんどころ無く寧波へそのまま逗留し、この度寧波より出船して来朝して参りました。積んでいる荷物は、去年積んで来たパッターニーの荷物はそのまま、寧波において東京(注③)小黄糸や東京紬を少し積み加えて来ました。パッターニーへ帰帆出来ませんでしたので、パッターニーの様子はわかりません。寧波については、変わった事も無く、諸省諸府共に安寧で、米穀なども安価に落ち着いています。海陸共に異変の様子は少しも無く、その太平の様子は、先立って入津した寧波船共より委細を申し上げている筈ですが、その旨に少しも変りはありません。ただ福州広東湖広の三省については、長年兵乱の難に逢い万民が困窮に及んだという事で、去年から来年までの三年の年貢が半分に減ぜられた為、海辺の諸所は有難く仕合せでございます。福州広東の両省は、東寧に敵対すること久しくその間この両省は兵難に遙い(注④)、また湖広は数年以前呉三桂(注⑤)が大清に叛逆した為、その難に遙ったこと浅からぬ事でございます。それに依って右の通り朝廷への年貢が三年間半分に減ぜられました。湖広一年の年貢は、銀にしめて三万六千貫目ほど、これを半分に減ぜられたのです。福州は七千貫目余、広東は六千三百貫目余でございます。これを皆半分減ぜられたので、人民の仕合せはこの上ないものでございましょう。その外諸官の統治は、別して公儀より廉直を専にするよう仰せ付けられた故、数年前とは格別の違いであり、諸国の安堵はこれ以上は無い状態でございます。この外はまず相変わらずでございます。この度私が寧波を出船した時、続く船が三艘でしたが、もう一艘去年じやがたらからご当地へ渡海して来て、これも風難に逢って本国へ帰帆できず寧波へ逗留しておった船があり、この船も入れると四艘でございます。その外はございません。私の船は唐人数七十一人乗りで渡海してきました。すなわち去年乗り組みの唐入共にでございます。当六月三日に寧波を出船し、同十五日に普陀山(注⑥)へ船を寄せた時に、只今後から入津した九十九番船も普陀山に居て、同廿日にこの船と一緒に普陀山を出船し、日本の地へ何国へも船を寄せず直に着津致しました。洋中においては別の船を見かけることも無く。ただ九十九番船と日々互に見合いながら運行してきました。この外別に申上げる事はございません。

 右の通り唐人共が申すに付き、書付け差上げ申しあげます、以上。
 卯六月廿五日、 唐通事共

注① 前回第七回配信参照。合わせて読むと、同じ荷物を積んで実に三回目の渡来ということになる。前回触れた、定高(さだめだか)貿易の故である。
注② 浙江省、杭州湾甬江河口から少し遡行した場所にある。古くから日本や南海との交易で繁栄した。
注③ トンキン、海南島とベトナムの間、現在のハノイの近くの湾を指すと思われる。
注④ 明朝遺臣一族が東寧(台湾)に拠って清朝に抵抗してきた事は、前回配信の口述まで何度か触れられている。
注⑤ 呉三桂の事は、第2回配信の「延寶九年(一六八一)二番シャム船の唐人共の口述」に触れられている。年貢減免の一連の口述は清朝が初期の内乱の時期を乗り越えた事を示唆する。時に第四代康熙帝の時代である。
注⑥ 上海の近く杭州湾の外にある島。


貞享四年(一六八七) 百七番シャム船の唐人共の口述

シャムの国の事、変ったことはございません。国中静謐でございます。諸国の商売船が相変わらず往来しております。例年はシャムよりご当地へ渡海する船は二ないし三艘ですが、今年は私共の船一艘だけでございます。商売不如意である事と、その上遠国から折角渡海してきても、お国での商売のご市法が定まっていて(注⑦)、荷物の取引が自由に出来ないので、まず今年は一艘で様子を見る様にと、シャムの役人からの申しつけで、ただ一艘渡海して参りました。

シャムにおいて私共の船が出船した折に聞いたのは、カンボジアの事、数年以来東寧の秦舎の手下の水軍共、大将楊氏(注⑧)の者人数千程、兵船大小数十艘で東寧へも帰参せず、海上方々を流浪していましたが、為す事もないままよんどころ無くカンボジアに来てカンボジアの王を追い払い海辺を我がもの顔にしておりました。カンボジア王は山中へ立退いていましたが、右楊氏の手下の副将黄氏の部下が楊氏の隙をうかがって叛逆し楊氏を討ち、カンボジアの第二王で本王の甥にあたる者を取立て、海辺の地域を横領しておりました。しかし二年前カンボジア本王が山中よりシャムへ加勢を乞い、[原本欠落アリ]、以来シャムの加勢の軍勢が山中へ留め置かれていました。今年に入り、山中より本王が打って出て、第二王ならびに黄氏の者共を悉く追払われました。黄氏方は以前の兵力を欠き、兵船も僅かになっており、第二王を取立ててはいましたが最早勢を失って、山中の軍勢が打出るやすぐに敗北しました。黄氏の部下は、又々第二王を守護して広南へ逃げ参られた由にございます。それに依り山中の本王が以前の通りカンボジアに戻られたと聞きましたが、細々しい事は存しておりません。

私の船は、五月六日にシャムを出発しましたが、洋中において六月七日に大風に遙い、大事な帆げたを折り難儀しておりました処に、又同十七日に重ねて悪風に逢い、十死一生の様子でございましたが、ようやく難を遁れました。その折、東寧の嶋の先けいらんと申す所の沖で、先立って入津した百二番広東船船頭謝春官の船に行逢いました。右の大風に逢った時に呉器皿等浪に取られてしまったので、則謝春官より茶碗皿類を少し乞い請け、船中の用事を相調える躰でございました。又々当月七日に日本の地近くで東風の大風に遙い、重ね重ね難儀に及びましたが、元よりシャム船は他の船と違い材木が強く、舶も堅固に作っていますから、波浪を凌ぎつつがなく入津出来ました。彼地において人数百十四人乗り組んだ内、九人はシャム人でございます(注⑨)。何れも去年も渡海してきたシャム人でございます。海上においても右謝春官船に逢った外、別に遙った船はございません。また私の船は日本の地何国へ船を寄せることもなく、直に入津致しました。この外変ったことはございませんので申上げるべき事はございません。

 右の通り唐人共が申すに付き、書付け差上げ申しあげます、以上。
 卯七月廿三日 唐通事共

注⑦ 前回第七回配信で触れた、定高(さだめだか)貿易の事。
注⑧ 第三回配信の「天和三年(一六八三)五番シャム船の唐人共の口述」に、東寧の秦舎の手下の楊二という武官がカンボジアに進入した事が触れられている。ここに述べられている大将楊氏はおそらく同人物と思われる。以来四年後の結末ということになる。
注⑨ 今回第八回配信で始めて、前述九十八番パッターニー船とともに、乗組員の人数に言及している。大体この人数が標準と思われる。またシャム人が約一割で、船と唐人の船乗りを雇っている形態と思われる。



文責 奥村紀夫(JTBF 会員)