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バックナンバー 2017-12

唐船風説書

第9回 2017.12.1 配信
JTBF 広報委員会

タイとの交易は、御朱印船の時代(16世紀末から17世紀始め)、当時の王都であり国際的な港湾都市として繁栄したアユタヤとの間で盛んであった。その後鎖国によって交易は途絶えたと思われがちであるが、実際は唐船を介して継続していた。唐船は中国沿岸はもとより遠く東南アジアと長崎を結び、その船乗りの口述記録は「華夷変態」(1644~1724 林春勝と林信篤の編纂)に納められている。その中から東南アジアを出航地とした記録を拾い上げ英訳したのが「The Junk Trade from Southeast Asia」で石井米雄氏(京大名誉教授、故人)の執筆による。JTBF 広報委員会は、この本に触発され、華夷変態から特にタイを出航地とした記録を抽出して現代文に訳して紹介していきたいと考えている。出航地はシャム(アユタヤ)、リゴール(ナコン・シータマラート)、パッターニー、ソンクラーである。シャムとリゴールは山田長政ゆかりの地でもある。


貞享四年(一六八七) 百十五番パッターニー船の唐人共の口述(注①)

私の船は厦門船で、当正月廿六日に厦門(注②)を出船し、商売のためパッターニーへ渡海しました。厦門を出たときからご当地へ参るつもりでパッターニーへ渡海しました。当二月廿三日にパッターニーへ着船し、少々商売等いたしご当地への用意をしておりましたが、折節荷物が少く様子を見ておったところに、三月二十八日カンボジャ船が一艘パッターニーへやってきて、その船にカンボジャの鹿皮やうるし等の荷物を積んでおったので、その荷物を買い調え、合わせてパッターニー産の牛皮、鹿皮、砂糖、蜜、りうのふ(注③)、ちんかう(注④)等を買い加えて、六月八日に唐人の船乗り三十八人が乗った船でパッターニーを出港しました。途中の海上で水薪が乏くなったので広東の内北寮澚と申す海辺へ七月五日に船を寄せ、水薪を補給し少し風待ちをして十日にそこを出船して渡海して参りましたが、同二十三日対馬海上で東南の大風に逢い、船上に置いてあった品物は言うに及ばず、只一挺所持していた石火矢(注⑤)迄、あわてて海へなげ捨てるありさまでした。石火矢薬も少し持っており石火矢の近くに置いていましたが、これをも浪に取られてしまいました。そのような訳で、翌日二十四日に是非無く対馬の地へ碇をおろしたところ、即刻小船を出していただき、私共の様子をおおよそ筆談で聞いていただき、また私の船よりも海上のいきさつを書付けて差出しました。その後同夜番船をお付けになり、船頭と財副二人を人質にお取りになり、ご当地へお送り下さいました。

パッターニー(注⑥)と申す国は、夷国の中でも下劣な国で、四季を通じて暖かく、海辺は殊のほか深い泥に覆われ、私共の船が停泊する所迄は、陸から八九町もあり、その間は皆泥で、その泥が余りに多い故に大泥と申します。城郭と申すものはございません。 広い国ではありますが、所々に郷村のような民居が集っておるだけです。国王と申すは、古来から続いている女系でありまして、男子が国王になることはございません。女二人が大王と二王となり、その次の三王と申すものは男子でございます。国家の政道は皆この三王が執っております。その国王の住居はただ囲いばかりで、厚い板でもって五六町四方柵をめぐらした様な所でございます。変乱はよく起こります。若し変乱があってもそれを治めるのは男子であり、国王には女人でなければなれません。大王が亡くなれば、二王が跡を継ぐことになります。熱い国ですから住民は常に裸で過ごしておるような所で、まことに野蛮な国でございます。住んでいる唐人は四十人余も居るでしょうか。さて又オランダや南蛮船の類ですが、あまり来る所ではございません。既に申し上げましたように海辺は大きな干潟で深い泥に覆われていますから、大船が寄り付けるところではありません。オランダ船が以前にも来たことがありますが、どうしても船を寄せることが出来ず、商売は望んでも如何ともしようがなく大泥への渡海は止めたとのことです。私共の船は水深の深いところに係留していても、彼の地に逗留している間は陸から船迄橋をかけ置いて往来しています。当然てんま船(注⑦)だけでも陸へ近づけたいので、その時は色々な荷物を積んだてんま船を水手の唐人共が泥に腰上迄漬かって押しやります。風土も中華や日本とは異なり、商売の望みが無ければ参る国ではございません。当年も彼の地よりご当地へ渡ってきたのは私の船ばかりでございます。それとは別に又厦門より小船三艘、じゃがたらより小船二艘、麻六甲(注⑧)より小船三般、萬丹(注⑨)より小船四五艘も参っております。小船と申すのは、ご当地に参っている福州船の小船より更に小さい小船で、何れも彼の地の産品を少しづつ積んで参ったもので、それぞれ私の船の前後に出船し、本国へ帰帆する筈でございます。

私が渡海してきた船は、今度初めて渡海して来ました。船頭の陳天運は十五年前子ノ年ご当地へ厦門より渡海して参り同年厦門へ帰帆して、それ以来渡海が途絶えておりました。当年はご当地へ渡海する思い入れで、先ずは渡船が少ないパッターニーへ参って、そこより今度渡海して参りました。洋中に於いて異形な船を見かけることはありませんでした。唐船にも行逢わず、右対馬へ漂着の外は別の浦々へ船を寄せることもありませんでした。さて又すでに申し上げましたように、私共の船の鹿皮うるしは当三月にカンボジャよりパッターニーへ参った船より買い取ったものです。その際カンボジャ国の安否を聞きましたところ、何の乱隙も無いとのこと。ご当地へ先に入津した船(注⑩)からもカンボジャの様子を聞きましたがそれによると、大王と二王がいて、大王は山中へ引籠り、二王は唐入共に取立てられて海辺に居られたところ、カンボジャよりシャムへ加勢を乞い、山中より大王が攻め出て二王を追討ちされたため、二王の一軍は広南へ逃入ったとのこと。このことは既に申上げたとの由にございますが、それは四方の風聞のまま憶測を交えた口述であったことでしょう。その後の実際として、大王は山中に居を構えられたまま、二王は唐人将卒の扶助を得てカンボジャの海辺の地を我がもの顔にしておる由。パッターニーへ参ったカンボジャ唐人の説でございますから、これが実正で他の説は誤りではないかと思います。その外の諸国の治乱の様子もパッターニーで聞きましたが、どこの国も無事の由に聞いております。右の外変ったことは無く、別に申上げることもございません。

 右の通り唐人共が申すに付き、書付け差上げ申しあげます、以上。
 卯八月七日 唐通事共

注① 今回の口述はこれまでの口述に比べてかなり長い。またパッターニーの様子、カンボジャの様子、交易品の事などが詳しく述べられていて興味深い。
注② 福建省南部に位置し、福建華僑のふるさとの街としても知られる。
注③ 龍脳。熱帯アジアに広く分布する龍脳樹からとれる香料。樟脳に類似している。
注④ 沈香。これも東南アジアに生息する沈香木からとれる香料。
注⑤ 当時の火砲の一種。火薬を用い石を弾丸とした。
注⑥ 華夷変態の中では「大泥」という漢語が使われている。
注⑦ 伝馬船。本船と岸との間を往復して荷などの積み降ろしを行う小型の船。
注⑧ マラッカ。マレー半島西海岸南部に位置しマラッカ海峡に面する。
注⑨ 台湾、高雄市の近く。
注⑩ 前回第八回配信の「百七番シャム船の口述」参照。この口述はたんなる噂話だったということ。



文責 奥村紀夫(JTBF 会員)