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バックナンバー 2018-01

唐船風説書

第10回 2018.1.1 配信
JTBF 広報委員会

タイとの交易は、御朱印船の時代(16世紀末から17世紀始め)、当時の王都であり国際的な港湾都市として繁栄したアユタヤとの間で盛んであった。その後鎖国によって交易は途絶えたと思われがちであるが、実際は唐船を介して継続していた。唐船は中国沿岸はもとより遠く東南アジアと長崎を結び、その船乗りの口述記録は「華夷変態」(1644~1724 林春勝と林信篤の編纂)に納められている。その中から東南アジアを出航地とした記録を拾い上げ英訳したのが「The Junk Trade from Southeast Asia」で石井米雄氏(京大名誉教授、故人)の執筆による。JTBF 広報委員会は、この本に触発され、華夷変態から特にタイを出航地とした記録を抽出して現代文に訳して紹介していきたいと考えている。出航地はシャム(アユタヤ)、リゴール(ナコン・シータマラート)、パッターニー、ソンクラーである。シャムとリゴールは山田長政ゆかりの地でもある。


貞享五年(一六八八) 百五十番シャム船の唐人共の口述

私共の船は、シャムから来た船で、唐人数六十一人乗り組み、当五月二十四日にシャムを出船して渡海して参りました。特に類船はありませんが私共の船に十四五日程先達って、同国の船が一艘出船しましたから、さだめて早々に入津している筈と思っておりましたが、大船のためか、今日私共の船の後より着津しました。従い、シャム出の船は最早この外にはございません。今度シャムを出船して以来、洋中いささかも変ったことはございませんでした。海路において、何船も見かけることはありませんでした。また日本の地は何方へも船を寄せることなく、直に今日入津しました。シャム国は大清の外で奥の国と申す所ですから、大清の様子の委細は存じません。往来の船便りに諸国静謐のことはかねてから聞いております。今度の船頭郭正官は、四年前にご当地に来ております。脇船頭徐佛官は、去年三十一番船で口述役をつとめました。乗ってきた船は初めての渡海です。

シャムの国王、日本語では屋形と申しますが、幕下に権臣(注①)を多くかかえており、その内に唐人、もうる入、ゑげれす人、が官役に任じており、その官位の名はいずれも招誇(注②)と申します。ところがゑげれすの招誇、五年以来権官に成っておりましたが、屋形の寵愛がことのほか厚く威勢を得ていました所に、かねてから逆心をふくみ、国を押領しようと企み、ゑげれす本国へ内通していたのか、去年ゑげれす人六百人余がシャム屋形へ捧げ物を持って参内したところ、屋形はこのことを重宝に思われ、六百人の内四百人程は宮殿の末端の番所の兵卒に申付けられ、残るゑげれす人二百人程は、ゑげれす招誇の配下として、シャム河口(注③)の要の番所に遣し置かれました。この番所は双方を山に囲まれ関所のような構えで、石火矢(注④)を備え置いたシャム国の要害であります。ここに右のゑげれす人召し置いたのもかねてから野心をもってたくらんだことと、事が露見した後にわかりました。さてそのような状況の中、何者の仕業かわかりませんが、シャムの山中の大木に掛札がかけられ、そこにはゑげれす人招誇が国をくつがえそうと謀略して、ゑげれす人を召し寄せ、捧げ物などと名付けて、方々へ手くばりした段々を委細に書きしるしてありました。この掛札を山中のシャム人が手に入れ屋形へ注進しました。それにより屋形も、それまで何の疑いも持っていませんでしたが、右の様子を聞かれてかねての振る舞いに心当たるところもあり、謀逆疑いなしと判断され、当四月二十日に、用事に事よせ、ゑげれす人招誇を殿中へ召し寄せられ、即座にからめ取り、合わせて妻子眷属をも皆々投獄しました。これを聞いた右川口の番所に召し置かれていたゑげれす人共、即時関戸を閉じ石火矢を構えシャムへ敵対しましたが、屋形から唐人招誇へ申し付けて在地の唐人共の内より勇力の勝れた者を百人選び、合わせてシャム人の兵卒千程を相添え、右の関所を取り囲みました。たかが関所とはいえ石火矢の構えがあるため軽々しく近寄ることも出来ない状況でした。私共は出船を控えており渡海に専念しておりましたからその落着は見届けておりません。さだめて間もなく討取られてたことでしょう。右のゑげれす人招誇は、五月七日に先づ一人打首になり、妻子眷属もさだめて同様に斬罪になったものと思われます。

おらんだ船が一艘、五月十五日にシャムへ入津してきました。じやがたらから来た船ということで、シャムにおいて鹿皮、すわう(注⑤)、砂糖など荷物を積添へ、ご当地へ渡ってくる船でございます。例年右の通りのことでございます。私共の出船の後になりますから、いつ出船したか知る由もありません。右の段々申上げましたが、そのほか申上げるべきことはございません。

 右の通り唐人共が申すに付き、書付け差上げ申しあげます、以上。
 辰七月九日 唐通事共

注① 権勢・権力をもった臣下
注② 原文では「チャウクワ」とルビが振られており、「The Junk Trade from Southeast Asia」では、タイ語の chao khun に当てたものか、と注記している。高貴な高官の意である。
注③ チャオプラヤー川
注④ 当時の火砲の一種。火薬を用い石を弾丸とした。
注⑤ 蘇芳、染料となる植物の名。蘇芳色(すおういろ)とは黒味を帯びた赤色。


貞享五年(一六八八) 百五十二番シャム船の唐人共の口述

私共の船は、シャムで積荷をしてきた船で、シャムにおいて、唐人数百三人が乗り組み、ただし内四人はシャム人でございます。当五月十日に彼地を出船し渡海して参りました。特に類船もありませんが、今一艘私共の船より大分遅れて出船した筈ですが、只今伺ったところで、今日私共の船より先に入津した百五十番シャム船がその後船でございます。私共の船は特別大船でございますから、乗りおくれて同日に入津となったことでしょう。シャム出船以来、洋中何も変ったことは少しもありませんでしたし、何船も見かけ不ませんでした。日本の地何方へも船寄せることなく、海上直に今日入津しました。船頭の徐譲官は、十一年前にシャム船の船頭として渡海してきた者です。脇船頭の徐乾官は、去年の百七番船で口術役をつとめた者です。今度乗って来た船もその船でございます。

シャム国のこと、今度執権のゑげれす人、シャムの官位で招誇と申す位についていた者が、謀反を企て、訴人がいて露見したわけではありませんが、山中の大木に謀逆の段々を書立て、張付けてあったものを、山中の者が取って屋形へ隠密持参しました。それにより、そのゑげれす人招誇は四月二十日にひそかに捕縛され、一族はことごとく入牢になりました。招誇は、五月七日に打首になりました。一族の落着は見届けることが出来ませんでしたが、定めて皆々斬罪になったと思われます。そ外委細の段は、百五十番シャム船の唐人共が申上げた通りで、それに少しも相違ございません。その外に特に可申上げるような新しいことはございません。

 右の通り唐人共が申すに付き、書付け差上げ申しあげます、以上。
 七月九日 唐通事共


文責 奥村紀夫(JTBF 会員)