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バックナンバー 2018-02

唐船風説書

第11回 2018.2.1 配信
JTBF 広報委員会

タイとの交易は、御朱印船の時代(16世紀末から17世紀始め)、当時の王都であり国際的な港湾都市として繁栄したアユタヤとの間で盛んであった。その後鎖国によって交易は途絶えたと思われがちであるが、実際は唐船を介して継続していた。唐船は中国沿岸はもとより遠く東南アジアと長崎を結び、その船乗りの口述記録は「華夷変態」(1644~1724 林春勝と林信篤の編纂)に納められている。その中から東南アジアを出航地とした記録を拾い上げ英訳したのが「The Junk Trade from Southeast Asia」で石井米雄氏(京大名誉教授、故人)の執筆による。JTBF 広報委員会は、この本に触発され、華夷変態から特にタイを出航地とした記録を抽出して現代文に訳して紹介していきたいと考えている。出航地はシャム(アユタヤ)、リゴール(ナコン・シータマラート)、パッターニー、ソンクラーである。シャムとリゴールは山田長政ゆかりの地でもある。


元禄二年(一六八九) 四十五番リゴール船の唐人共の口述

私共の船は、シャム国の内リゴール(注①)と申す所で積荷をし、唐人数六十二人が乗組んで、当五月二日に彼地を出船して渡海して参りました。私共の船の外に友船はございませんが、厦門からリゴールへ渡海して来ていた船があって、彼地で聞いたところでは厦門へ帰帆する筈とのことでしたが、途中の海上で思案が変り、直にご当地へ渡海してくることが無いとは言い切れません。その外には別に来朝の船はございません。リゴールを出船して以来、洋中で変ったことはございませんが、五月十三日に広東の沖で東北の悪風に逢い、大事な帆柱を損じてしまいましたので、やむなく船上に積んでいた蘇木(注②)や黒砂糖の類を少々海へ捨てて難風を遁れました。その後は海上も順風になりました。異国の洋中で逢った船もございません。当湊に近づいてから唐船五艘を遠くに見かけました。そのうちの二艘は私共の船と前後して入津しました。残りの三艘も今明日の内には着津することでしょう。渡船の途中日本の地は何処にも船を寄せることなく、直に今日入津しました。本船の船頭は陳雄観、ならびに脇船頭は張都官、二人共に始めてご当地への渡海でございます。乗ってきた船は一昨年の六十二番船でございます。

次にリゴールのことですが、シャム国の内、シャムより海路三百里程隔てたところです。ここに屋形(注③)がおりまして、この屋形は、以前シャム国の高官に日本人がおって(注④)、その身は亡くなって多年になりますが、その子が只今リゴールの屋形になっておるのでございます。諸事リゴールの統治は良好で人民は安堵しております。隣国との攻めあいも無く数年来きわめて静謐でございます。その外変わった事は少しもございませんので、付け加えるべき風説はございません。

 右の通り唐人共が申すに付き、書付け差上げ申しあげます、以上。
 巳六月二目 唐通事共

注① ナコン・シータマラートにあった王朝、アユタヤ王朝に服属した。
注② マメ科の小低木、スオウの別称。漢方薬に用いる生薬の一つ。
注③ 国王の日本語名
注④ 山田長政と断定できると思われる。「The Junk Trade from Southeast Asia」でもそうしている。長政はアユタヤー王朝の国王ソンタムの信任を得ていたが、王の死後、プラーサート・トーン王の意に逆らってリゴール左遷され、そこで戦死した。没年1630年とされる。


元禄二年(一六八九) 四十六番シャム船の唐人共の口述

私共の船は、シャム国で積荷をして、唐人百六人が乗り組んで、当四月十五日に彼地を出船して渡海してきました。今一艘同所を出航した船がございまして、やがて来朝することでしょう。当湊の沖で前後に唐船五艘を遠くに見かけました。二艘は私共より先に入津しました。三艘後に見えたのも今明日の内には入津することでしょう。右の内、私共と同じくシャムを出航した船が後の三艘の内におったかもしれませんががは見分けることは出来ませんでした。今度の渡船中海上で変ったことはございませんでした。シャムを出船してから川口において四月十九日にオランダ船二艘がシャムへ入津するのを見ました。定めてご当地へ赴く船ではないかと存じあげます。その外は何船にも逢いませんでした。もっとも海上で一両度大風に逢ったため、帆柱など少々損じて難義し危い目に逢いましたが、さいわい難風を遁れることができ渡海して参りました。このところ洋中順風に恵まれ日本の地は何方へもを船を寄せず直に入津しました。本船頭の徐森官は、一昨年百七番船の船頭として渡って来た者です。脇船頭の徐乾官は去年百五十二番船の脇船頭として渡海してきました。乗ってきた船は、四年以前寅年の八十二番船でございます。

シャムの屋形が去年病氣になり、六月に逝去されました。亡くなる前病中の時、その身も必死に後継を検討されましたが、王子もいなかったので、執権の官勅柏喇喋(テウパアラアツア)という者に国を預け置かれましたが、間もなく屋形が逝去して右の執権が位につきシャムを領しておられました。そうした折、二三所に配備されていた兵権の官共が帰服しないで叛逆に及び、よって当正月にシャムより人数四万程が征伐に差向けられました。どのような計略があったのか先ず一ケ所の大将が軍戦にも及ばす捕えられ、その為残りの大将共も少々ひるんだところに、シャムの出家大和尚が出てきて説得にあたり、二三所の兵官共が皆々降参して何事にも至りませんでした。生捕られた大将も許され別條なく、只今はいよいよ右の勅柏喇喋が屋形におさまり国中も静謐でございます。この外は変ったこともなく申上げることはございません。

 右の通り唐人共が申すに付き、書付け差上げ申しあげます、以上。
 巳六月二目 唐通事共

文責 奥村紀夫(JTBF 会員)