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バックナンバー 2018-03

唐船風説書

第12回 2018.3.1 配信
JTBF 広報委員会

タイとの交易は、御朱印船の時代(16世紀末から17世紀始め)、当時の王都であり国際的な港湾都市として繁栄したアユタヤとの間で盛んであった。その後鎖国によって交易は途絶えたと思われがちであるが、実際は唐船を介して継続していた。唐船は中国沿岸はもとより遠く東南アジアと長崎を結び、その船乗りの口述記録は「華夷変態」(1644~1724 林春勝と林信篤の編纂)に納められている。その中から東南アジアを出航地とした記録を拾い上げ英訳したのが「The Junk Trade from Southeast Asia」で石井米雄氏(京大名誉教授、故人)の執筆による。JTBF 広報委員会は、この本に触発され、華夷変態から特にタイを出航地とした記録を抽出して現代文に訳して紹介していきたいと考えている。出航地はシャム(アユタヤ)、リゴール(ナコン・シータマラート)、パッターニー、ソンクラーである。シャムとリゴールは山田長政ゆかりの地でもある。


元禄二年(一六八九) 四十八番パッターニー船の唐人共の口述

私共の船は、シャム国の内パッターニーと申す所で商品を仕込み、唐人三十六人が乗組んで、当四月二十五日に私共の船一艘のみで彼地を出船致し渡海して来ました。別に友船はございません。しかしながら後に二艘の船が居って、一艘は広東船、一艘は寧波船でございます。この二艘も荷物の様子からご当地へ渡海するであろうかと推測しましたが、本国へ直に帰帆するのかも知れず、どちらなのか存じておりません。私共の船も元は広東船で、去年十一月に広東を出船し、同十二月にパッターニーに着船し、少々商売をし、また彼地の荷物を調達し、ご当地を目指して今度渡海して来ました。それ故パッターニー仕込みの船と申し上げます。パッターニーを出船して以来、洋中変ったことはございませんでした。異国の海上で何船も見かけませんでした。この間、当湊の沖で唐船五六艘も遠くに見かけました。その内先に入津したのもございます。後に見えた船は三艘で、湊の沖へ乗り懸け、風不順のため湊へ乗り入れることもできず、困惑の様子でございました。私共の船はよんどころ無く深堀と申す所の近所に着き、案内を請う為石火矢をうち碇をおろしました。そして深堀より遠見番船に守られ、今日は少し順風だったので、その番船に見送られて入津致しました。この外には日本の地は何所にも船を寄せたことはございません。船頭の黄二官は十年前に客として渡って来た者です。乗渡って来た船は今度が初めての渡海です。

シャム国の事、本来の屋形(注①)が去年病死して、王子が無かったので、国を預っていた執権の高官が居ながら王位についた故、所々の属国が帰服せずシャムに逆いました。パッターニーと申す所も、シャムの属国でシャムより海路八百里程隔てたところにありますが、シャムの権官が王位を奪ったと聞き義兵を揚げ、人数一万五千程の追討勢をシャムへ差向けました。これに対しシャムから強兵が繰り出し一戦に及んだところ、パッターニー勢は散々の敗北を喫し本国へ退軍致しました。総じてパッターニーという所、古来からの国例で代々女王が王位についています。もっとも諸官は男共でございますが、辺土の国の野人躰の人柄なる者共でございますから、戦場の働きなど期待できる訳もなく右の通り敗軍となって帰ってきました。従ってシャムへ降参状を捧げ貢を差出して、只今は別條もなくシャムの属国になっております。

パッターニーから四百里程離れた国にジョホール(注②)と申す所がございます。このジョホールにも屋形がおって、その屋形の舅で執権の官であった者が累年貪り強く、夥しく財貨を蓄えて、かねてから官民の者共の憤りをかっておりました。そうした折に屋形が数年前死去し嫡子も居たのですが、その節はまだ若年であったため、その権官がますます我が物顔に振る舞い無道であった為、貴きも賎しきも皆欝憤に感じておりました。やがて王子も成長なされ、舅の無道を見て、誅罰があって当然という状況になってきたため、この舅は財宝を悉く我が物にし、舶を拵え、一身と一子ならびに属親共を乗せ、パッターニーを目指して立ち退きました。王子が追手を遣し、海上で追いつき、戦になりましたが、舅は難なく討たれてしまい、その上財賓も大方は海へ沈めてしまいました。しかしその子と属親共は防戦してなんとか命をつなぎ、去年八月にパッターニーに着船し助けを求めました。おりしもパッターニーの商船が一艘、いつものようにそしらぬ顔で、ジョホールに渡って行ったところ、ジョホールではパッターニーを敵国とみなし、商船とても国へ入れてはならぬと堅く禁制し、その商船に申し遣わしたのは、当方の叛逆落人がその方へ留置かれているのは遣恨であり、追付け兵船を差向け落人を取り返すであろう、とのこと。このことがパッターニーに伝わり、パッターニーの屋形もそれに備える用意をしました。屋形ならびに諸官の評議でも、たとえ叛逆の落人と言えども、この方の国を頼ってきたからには渡す事はできないとの結論で、敵を迎える用意をしておりました。私共は出船しましたので、後がどうなったかはかり難いことでございます。このように少々異変がございましたので、この件申上げる次第です。その外には別に申上げるような風聞はございません。

 右の通り唐人共が申すに付き、書付け差上げ申しあげます、以上。
 巳六月三日 唐通事共

注① 過去の配信で注記したが、国王の事を当時の日本ではこのように呼んだ。
注② 原文では「柔佛」と漢名が使われている。マレーシアの半島部最南部に位置する州。


元禄二年(一六八九) 五十一番シャム船の唐人共の口述

私共の船は、シャムで商品を仕込み、唐人百七人が乗り組んで当四月二十六日に彼地を出船して渡海して参りました。私共の船に先立って徐森官と申す者の船が四月中旬に出船しました。只今伺ったところでは、去る二日に着津した四十六番の船でございます。この外に友船はありません。後からの船もございません。洋中少しも変ったことはなく、異国の海上では何船にも逢っておりません。当湊の沖で去る二日に唐船三四艘を遠くに見かけただけでございます。私共の船は直にご当地へ入津する筈でしたが、去る三日湊の外で俄に東風の逆風に逢い、その上引潮の強い時分で湊へ乗り入れることが出来ず、風と潮の不順の為、大村の領海へ漂流し、最早瀬近くなって船が危いことになったので、是非なく案内を請う石火矢を打ち、碇をおろしましたところ、即時彼所から番船を出して警固していただき、それより挽船で今日ご当地へ送り届けていただきました。大村領へ碇をおろした以外に日本の地は何処にも船を寄せておりません。船頭の曾明官は、六年前に 脇船頭役で渡海してきております。乗渡ってきた船は初めての渡海でございます。

シャム屋形の執権の官は数人おり、シャム人、又はもうる人ならびにゑげれす人共もこの中におります。そのうちシャム人の権官勅伯喇喋(テツパアラアツア)と申す者と、ゑげれす人権官未采然(ビイヅアイゼン)と申す者、が特別屋形の気に入りで、殊にゑげれす権官はその身の国元へ何と申し遣わしたのか、去々年ゑげれす国より貢人と、ゑげれす兵卒五百人あまり差越し、そのゑげれす権官の取成しで、国元ゑげれす国王よりこの兵卒共は所々の守りの兵卒に使っていただくよう貢納して進上する旨、屋形へお伝えしたところ、屋形は大層恭悦して、すぐゑげれす権官の指揮下でシャムより川口(注③)の方に有る出城望閣(バンコウ)(注④)と申す所の守りの兵卒に遣し置かれました。これを見て万民は、えげれす権官の心積もりに疑念を持つようになりました。さて又屋形には女子は有りましたが、男子は無かったので、大臣の子を養子にして名を柏比(バアビイ)と申しました。この養子も屋形は特別寵愛されました。次に屋形の弟も二人おりましたが、すぐ下の弟に屋形の姫を嫁がせましたので、どうやらこの弟へ国をお譲りなさるのかと、貴きも賤しきも皆内々推測しておりました。そうした折屋形は去年春の頃より病に苦しむようになり、国事は右の勅柏喇喋、未采然、柏比、この三人に預けられ、暫時この三人が国務を取り仕切っておられましたが、屋形の病が少々快方に向った時に、勅柏喇喋が突然逆意を起こし、去年四月十九日に人数一万余りで屋形の城を取囲み反逆して屋形の宮殿を手中に収め、国権を我ものにしました。屋形も病中で無念至極ではありましたが、この様になってしまっては悔やんでも甲斐ないことでした。勅柏喇喋は王位を簒奪する振舞いでしたが、最早権威共に身に占めてしまっては誰とて異儀に及ぶ者はおりませんでした。同廿三日に屋形養子の柏比を殺し、同五月七日にゑげれす権官未采然を討ち、同六月十一日に弟二人共に殺害しました。これを見て屋形の病が再び重くなり、同十四日に逝去されました。病死とも申し、又は害死とも申し、その真実は知られておりません。それに依り諸官貴賤ともにいよいよ勅柏喇喋の下知に従い異儀を申すは一人も無く、シャムは別條ございません。しかしながら、ゑげれす権官より望閣に召し置かれていた守りのゑげれす兵卒が帰服せず、石火矢をそなえて敵対しました。これに対し勅柏蜘喋の軍勢、シャム人兵卒多勢が望閣に押寄せ、攻めつぶしそうな勢いであったため、ゑげれす党側から申入れがあり、降参はしてもよいが、若し降参の後殺害する積りであるならば、このまま討死覚悟で戦う積り、若し降参した上で、本国へ返してくれるのであれば敵対する積りはない故、偽り無く申してくれるように、とのこと。勅柏喇喋も所詮この騒動は益の無い事と判断し、敵の意に任せたので事無く済み、望閣の兵を引取り、ゑげれす人の分は船を調え本国へ送り返しました。その外にはシャム国の内リゴール又はパッターニーと申す所、これも属国ですが、これらの国々でも右の権官の反逆を聞き、何れも追討の志しを抱きましたが、最早ゑげれす人共の成り行きを見、又は弟二人と養子が害死しても諸官の誰も敵対できない有様では、属国のままにとどまるより外無く、追討の志も失せて、それぞれの兵は途中から引き返し本国へ戻りました。その後はシャム国いよいよ変わりなく以前の通り、勅柏喇喋が屋形におさまっており、今年になっても異変の様子はいささかもございません。以上申し上げましたが、私共商人でございますから、事の始絡委細は存じません。おおよそ見聞きしたことを述べた次第です。この外には別に申上げる異説はございません。

 右の通り唐人共が申すに付き、書付け差上げ申しあげます、以上。
 巳六月七日 唐通事共

注③ 川とあるのはチャオプラヤー川
注④ 現在のバンコクの地は、アユタヤ朝時代、チャオプラヤー川を往来する船の監視をする重要な防衛拠点として機能していた。


文責 奥村紀夫(JTBF 会員)