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バックナンバー 2018-04

唐船風説書

第13回 2018.4.1 配信
JTBF 広報委員会

タイとの交易は、御朱印船の時代(16世紀末から17世紀始め)、当時の王都であり国際的な港湾都市として繁栄したアユタヤとの間で盛んであった。その後鎖国によって交易は途絶えたと思われがちであるが、実際は唐船を介して継続していた。唐船は中国沿岸はもとより遠く東南アジアと長崎を結び、その船乗りの口述記録は「華夷変態」(1644~1724 林春勝と林信篤の編纂)に納められている。その中から東南アジアを出航地とした記録を拾い上げ英訳したのが「The Junk Trade from Southeast Asia」で石井米雄氏(京大名誉教授、故人)の執筆による。JTBF 広報委員会は、この本に触発され、華夷変態から特にタイを出航地とした記録を抽出して現代文に訳して紹介していきたいと考えている。出航地はシャム(アユタヤ)、リゴール(ナコン・シータマラート)、パッターニー、ソンクラーである。シャムとリゴールは山田長政ゆかりの地でもある。


元禄三年(一六九〇) 六十八番パッターニー船の唐人共の口述

私共の船は去年パッターニーと申す所で商品を仕込み、同年五月二十六日にパッターニーを出船してご当地を目指して参りましたが、洋中に悪風に逢い船を損じた為ご当地への渡海が叶わず、是非無く七月十五日に厦門へ船を寄せ船を修復しました。その為、時期を失し順風が無くなりましたのでそのまま厦門に滞船しておりました。去年パッターニーで乗り組んだ唐人は六十八人でしたが、今度厦門で唐入三人が加わり都合七十一人の乗り組みでございます。その上厦門で糸端物など少々乗せて欲しいと地元の商人が申し出ましたので、その荷物等をも積み添えて、当五月二十二日に厦門を出船して渡海して参りました。今度の洋中に変ったことは少しもございませんでした。また何船も見かることはありませんでした。無事に海上を渡り、日本の地は何処へも船を寄せることなく直に入津する筈でしたが、今朝当湊の外深堀と申す所の領海で早潮に逢い、浅瀬へ船を乗りかけそうになった為、少しの間潮時を待とうと碇をおろした時、深堀からの番船とおぼしきが遠くから私共の船を見守り、入津の時も後から見迭ってくれました。深堀へ碇をおろした以外は、他所へ碇をおろした事はございません。船頭の趙一官は一昨年百四十九番船の脇船頭として渡海して来た者で、乗り渡って来た船もその時の船でございます。協船頭の傳素従は七年以前に船乗りの一人として渡海してきた者です。次に大清の様子と厦門の事ですが、別に変った事は聞いておりません。諸省ならびに厦門が寧謐である事は定めて先に入津した船共から具に申上げていると存じますので、新たに付け加える事はございません。厦門からご当地へ渡海して来た船共は、何れも私共の船に先達って入津しており私共の船が最後でございます。

パッターニーと申す所はジャワ(注①)と申す国の内にございますが、以前からシャム国へ貢納を続けて属国になっております。またリゴールと申す所もジャワ国の内でございますが、これもシャム国の属国になり前々より貢礼をしております。そうした折、去年シャム国の屋形が不慮の害に逢われました(注②)。即ち執権官の一人であったゑげれす人が密謀を起こし屋形を殺害し自身が屋形に成って居りました所に、もう一人の執権官であったシャム人がこのゑげれす人の謀逆を無念に思い、殊に所々の属国も帰服しなかったので、このシャム権官が間もなく逆心のゑげれす権官を討取り、主君の敵臣を難なく討ちほろぽしました。しかし、その義兵の威力にまかせ自身がシャムを納めて屋形になっておりました。そうした所にパッターニーの屋形がシャム乱隙の事を聞いて、リゴールへ一万の兵を差し向け一旦はリゴールを手に入れましたが、シャム国が加勢を派遣しパッターニー勢と戦ったところ、シャムとリゴールの猛勢にパッターニーも敵対出来ず、敗北してパッターニーへ引き上げてしまいました。その後シャムからパッターニーへ軍勢は差向ける事は無く、ただ使官を送り叛逆を咎めると共に和議の意を伝えたのでパッターニーも心服し、相変わらず属国として貢納を続けております。それ故その後は別條無く、シャム、リゴール、パッターニー、それぞれ事静かになっております。今年のパッターニーの様子は私共厦門に滞船しておりましたので、安否のほど存じておりません。去年の乱隙の次第は以上述べた通りで、この外に申上げるべき事はございません。

 右の通り唐人共が申すに付き、書付け差上げ申しあげます、以上。
 午六月廿六日 唐通事共

注① 原文では「爪哇」と漢名が使われている。
注② この件は、元禄二年(一六八九)四十六番シャム船口述(第11回配信)、同五十一番シャム船口述(第12回配信)に符合しており、それに照らすと去年とあるのは一昨年(一六八八)の事である。


元禄三年(一六九〇) 七十四番リゴール船の唐人共の口述

私共の船は去る冬十一月三日に寧波(注③)を乗り出し、同二十六日にリゴールに着船、そこで寧波から積んでいった荷物で商売をし、合わせてリゴールの品物を買い調え、唐人六十五人とシャム人一人都合六十六人が乗り組んで、当五月三日に友船を伴うこと無く私共の船一艘のみで出船し渡海して参りました。私共の後から出船した船は無く、私共より二日先立って厦門船が一艘ご当地へ渡海してきた由、この船も昨冬リゴールで商売をしリゴールで商品を買い足して渡海してきた船です。まだ入津していないとの事ですが、定めて海上で遅れをとったものと存じます。私共リゴールを出船して以来洋中変った事はございませんでしたが、この夏は順風が少なく数度悪風に逢って難しい渡海でした。しかし幸いにも日本の国の何処にも船を寄せる事なく、直に今日入津しました。異国の海上で何船にも逢う事はありませんでしたが、ご当地近くになって三日前から、今日私共の船の前後に入津した唐船を三捜見受けました。何れも何国の船か見分け出来ませんでした。外にオランダ船を一艘を咋日の昼時分より湊沖に見かけました。これ等の船の外には見た船はございません。本船の船頭は陳建侯、脇船頭は林元金、二人共に初めての渡海で、乗渡ってきた船は去年の二十七番の船でございます。

さて又リゴールの事、国は元ジャワ国の内でございましたが、長年シャム国の配下になっており、シャムより鎮守の官役が置かれておりました。しかる所に一昨年よりシャム国に内乱が起こりました。元々執権の官としてシャム人、ゑげれす人、もうる人共が国権を司さどっておりましたが、ゑげれす権官が謀逆を起こしシャム屋形を害し、自身が屋形になろうとしていましたが、シャム権官が逆臣のゑげれす権官を討取りました。主君の敵は滅却しましたが、主君の筋目を正すことなく、自身が屋形になりました。それに就いて、パッターニーと申す所も元はジャワ国の土地でございましたが、これも長年シャム国の属国になっていたのが、シャムの一乱の様子を聞いたパッターニーの屋形が、少々兵船を拵え一万余りの兵で、この機に乗じリゴールへ攻寄せ一応はリゴールを征服しました。しかしこの事がシャムに伝わるやシャムが猛勢な軍勢を派遣しリゴール軍と連合してパッターニー勢を追討しようとしました。パッターニー勢も耐えきれず全軍パッターニーへ退却せざるをえませんでした(注④)。その後シャムはパッターニーへ使官を送り不届きの段々を糾弾し、パッターニーも返す言葉無く、以前の通りの属国になり貢納も怠らないとの詑を入れ和解に至りました。それ故去年私共の船がリゴールに着船した時は、なんら騒動の様子も無く静かでございました。シャムから来た官役は鎮守になっており最早シャム、リゴール、パッターニー、三国共に静かな事でございます。これらの様子などの外には、別に変ったことも無く申し上げるべき事はございません。

 右の通り唐人共が申すに付き、書付け差上げ申しあげます、以上。
 午七月二 日 唐通事共

注③ 中国浙江省北東部、長江デルタ南翼に位置し、古くから日本や南海との交易で繁栄した。
注④ この口述と本稿七十四番リゴール船口述は、元禄二年(一六八九)四十八番パッターニー船口述(第12回配信)に符合している。ただし、元禄二年パッターニー船口述ではシャムに攻め入ったとなっており、今回の口述はシャムの乱に乗じてパッターニーがリゴールに攻め入ったとなっている。


文責 奥村紀夫(JTBF 会員)