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バックナンバー 2018-05

唐船風説書

第14回 2018.5.1 配信
JTBF 広報委員会

タイとの交易は、御朱印船の時代(16世紀末から17世紀始め)、当時の王都であり国際的な港湾都市として繁栄したアユタヤとの間で盛んであった。その後鎖国によって交易は途絶えたと思われがちであるが、実際は唐船を介して継続していた。唐船は中国沿岸はもとより遠く東南アジアと長崎を結び、その船乗りの口述記録は「華夷変態」(1644~1724 林春勝と林信篤の編纂)に納められている。その中から東南アジアを出航地とした記録を拾い上げ英訳したのが「The Junk Trade from Southeast Asia」で石井米雄氏(京大名誉教授、故人)の執筆による。JTBF 広報委員会は、この本に触発され、華夷変態から特にタイを出航地とした記録を抽出して現代文に訳して紹介していきたいと考えている。出航地はシャム(アユタヤ)、リゴール(ナコン・シータマラート)、パッターニー、ソンクラーである。シャムとリゴールは山田長政ゆかりの地でもある。


元禄三年(一六九〇) 七十八番パッターニーの唐人共の口述

私共の船は、シャムの属国であるパッターニーと申す所で商品を仕込み、唐人六十人が乗組んで、当五月二十四日に友船もなく私共の船一艘のみで彼地を出船して渡海して参りました。後続の船はありませんが厦門船が三艘、漳州船一艘、広東船一艘、 これらの五艘の船もパッターニーへ商売に渡海し、内三艘は私共の船に先立って夫々の出船地へ帰帆しました。もう二艘も私共の船の後に本国へ帰りましたので、ご当地への渡海は私共の船の外にはございません。去年はご当地へ来朝の船、私共の船と共に三艘でございました。その節私共の船は別条なくご当地へ着船しましたが、もう一艘は風難に遭って厦門へ船を乗り入れたと聞きました。又もう一艘はこれも難風を凌ぐことができず、広南の地で破船し、船荷物は言うに及ばず、唐入共の内ようやく二人が活き残っただけとの事です。只今お伺いしたところでは、厦門へ乗り入れた船は厦門へそのまま滞船し、今度入津した六十八番船の由にございます。この度の海上も殊のほか悪風のみで、私共の船も最早沈溺するのかと一船十死の様子でございましたが、命に別条なくご当地へ着船できた事は幸せ至極でございます。この通りの様子ではございましたが、日本の地何方へも漂着せず寄港もせず、直に今日入津しました。この間の海上においても、今申し上げた風難の外は、変ったこともなく、勿論何船も見かけませんでした。この度の船頭黄二官は去年四十八番船の船頭として渡海してきた者、また乗り渡ってきた船は去年の四十七番船でございます。

次にパッターニーの事、元は爪睦(ジヤワ)国の内でございましたが、最早年久しくシャム国の属国なっておりシャムへ貢礼しております。この国の屋形(国王)は前々から女王でございまして、もっとも夫と申す者はございません。女王でなくては治まらず、直ぐに国家の乱隙が発生してしまいます。もし女王に少しでも不義の振る舞いがあれば、国の祟りが発生するとされ、従って女王は随分行儀をただし守っておられます。もし女王が死去した時は、王家一族の内から女子を選んで王位につけます。臣下は皆々男人でございます。国土は随分広大でございますが住人は少なく、屋形が住んでおられる所だけが人の集る所でございます。ようやく一二万人になるでしょうか、その内には唐人も数百人含まれます。大変暑い国ですから、貴賤共に年中裸で住んでおる所でございます。何ごとも下劣な国でございます。そのような折一昨年シャム国に内乱が起こったので、パッターニーも逆意をおこし、すなわちシャムの属地であるリゴールと申す所、パッターニーより陸路二十日程の所ですが、このリゴールを間もなく攻めつぶすであろうと、万民が申しておりましたが、中にはそうはなるまいと申す者もおりました。いずれにせよ私共が出船の折に聞いたことは以上迄でございます。この後に来朝する船もあるでしょうから、様子は段々に分ることでしょう。この外には変った事も無く、別に申し上げるべき風説もございません。

 右の通り唐人共が申すに付き、書付け差上げ申しあげます、以上。
 午六月廿三日 唐通事共


元禄三年(一六九〇) 八十一番シャム船の唐人共の口述

私共の船は、シャムにおいて唐人と現地の役人が商品を調達積荷をした船で、唐人五十九人とシャム人一人、都合六十人が乗組んで、当五月五日に川内の船着場を出て、湊口まで百里余を経てようやく深海に達し、そこに船を留め置いて荷積をして、六月五日に湊口から出船して渡海して参りました。出船の日は別に友船も無く私共の船一艘で乗り出しました。今一艘屋形(国王)の申付けで積荷をした船が、私の船の二日程後に出船した筈でございますから、間もなく来朝するものと存じ上げます。この外にもう一艘屋形が申付けた船が渡海してくる積りでおりましたが、私共が出船した時には未だ荷物を少しも積んでおりませんでしたから、この船が来朝するかどうかは分りかねます。ことに順風の時節が過ぎてしまうと渡海は叶わなくなります。私共の船は順風の時節の最中でございましたが、それでも海上の風並みが悪く、折々悪風に逢ったりして、ようやくご当地へ着船の躰にございます。従ってシャムからの渡海は、私共の船と屋形申付けの船と二艘になるもの存じ上げます。もう一艘まだ積荷が済んでいなかった船は渡海が叶わなかったと思われます。今度の洋中において、変ったことは少しもございませんでした。しかしながら既に申し上げましたように、数度悪風に逢い難儀が尽きませんでしたが、さいわい日本の地は何方へも漂着せずに、また船を寄せる事もなく、今日直に入津いたしました。本船頭の徐佛官と乗り渡ってきた船は去年五十七番に入津した船でございます。脇船頭の徐乾官は去年の四十六番船の脇船頭でした。

次にシャムの事、一昨年は内乱で国土も騒動の様子でしたが、最早去年今年と平治に成っており、乱隙も無く人民も安堵しております。一昨年の内乱は私共も良く存じておりますが、かい摘んで申し上げますと、シャム執権官にはかねてから、ゑげれす人、もうる入ならびにシャム人が居り国の運営に任じていましたが、一昨年屋形(国王)が病気になった折に、ゑげれす権官で名を握拍次享(テッパアカムヘン)と申す者(注①)が王位を奪うべく謀反を企て、屋形の病気がいよいよ重く再起不能になったのを見て、一両日の内に殺害の手立を考えるに至りました。その時シャムの権官で名を握拍鼻喇彩(テッパアビイウアツアイ)と申す者がこの企てを察知し、屋形が薨去される前に公用に事よせて握拍次享を城内に召寄せ、なにげなく登城してきたところを手討に討取りました。これ故、本当の敵は無事滅ぼされたのですが、唐人共の内でこのいきさつを知らない者は、握拍次享が屋形を殺害したと言っていますが、そうではなく、屋形が薨去される前に握拍次享が討ち取られ数日後に屋形が病気で逝くなられたのです。握拍鼻喇彩はかねてから権威のある官職であったが故にそのまま屋形になり、諸方属国へ安堵の廻文をまわし、自身シャムを領して居ったのでございます。その後は何の子細も無く、官民共に帰服し、只今は国土静謐になっております。諸国からの商船も相変わらずシャムへ渡って来ており、大清の地広東、漳州、厦門、などの地からは去年も商売に渡って来た船が都合十四五艘もございました。これらの船は殆ど皆本国へ帰帆しましたが、その内の広東船一艘は広東へ帰帆した後、ご当地へも渡海する様子で、シャムに居った時その船の者共がその様に申しておりました。只今伺いましたが、今日私共の船に先立って入津した七十九番広東船が即ちその船でございます。シャムへは又オランダから毎年一艘ずつご当地を目指す船がじやがたらからやって参ります。今年も当四月末に大船がシャムへ入津し、私共が出船の時、その船は荷物を積み載せる最中でしたから、大方私共の船に七八日も後れてシャムを出船したものと存じ上げます。ゑげれす船は一昨年の一乱以来シャムへの渡航は固く禁止されています。今度私共がシャムを出船して以来海上で何船にも行き逢う事はありませんでした。今朝からご当津の沖で、私共の船の先へ上述した七十九番ならびに八十番の唐船二艘を、遠くに見迭りした迄にございます。この外には申し上げるべき事はございません。

 右の通り唐人共が申すに付き、書付け差上げ申しあげます、以上。
 午七月六日 唐通事共

注① このえげれす権官が、屋形の寵愛を得ていた事また反逆を企てた事、は第10回配信の「貞享五年(一六八八)百五十番シャム船の唐人共の口述」で詳しく述べられている。
また「The Junk Trade from Southeast Asia」では注記として、この権官がナライ王に仕えたコンスタンス・フォールコン(Constance Phaulcon)である事は疑う余地がないとしている。
またJTBFが刊行した「アユタヤ歴史遺産の旅」で本村博志氏(JTBF会員)が、コンスタンス・フォールコンに触れ、ナライ王の危篤に端を発した政争に敗れたこと、彼の妻が日本人の血を受けた女性で、今に伝わる宮廷菓子「トーンイップ」「トーンヨート」の創始者であったことを紹介している。


文責 奥村紀夫(JTBF 会員)