Logo of JTBF
トップ・ページ  バックナンバー・リスト
文字サイズ: 

バックナンバー 2018-07

唐船風説書

第16回 2018.7.1 配信
JTBF 広報委員会

タイとの交易は、御朱印船の時代(16世紀末から17世紀始め)、当時の王都であり国際的な港湾都市として繁栄したアユタヤとの間で盛んであった。その後鎖国によって交易は途絶えたと思われがちであるが、実際は唐船を介して継続していた。唐船は中国沿岸はもとより遠く東南アジアと長崎を結び、その船乗りの口述記録は「華夷変態」(1644~1724 林春勝と林信篤の編纂)に納められている。その中から東南アジアを出航地とした記録を拾い上げ英訳したのが「The Junk Trade from Southeast Asia」で石井米雄氏(京大名誉教授、故人)の執筆による。JTBF 広報委員会は、この本に触発され、華夷変態から特にタイを出航地とした記録を抽出して現代文に訳して紹介していきたいと考えている。出航地はシャム(アユタヤ)、リゴール(ナコン・シータマラート)、パッターニー、ソンクラーである。シャムとリゴールは山田長政ゆかりの地でもある。


元禄四年(一六九一) 五十七番リゴール船の唐人共の口述

私共の船はシャムの内リゴールと申す所で積荷を仕立て、唐人六十一が乗組んで当四月廿一日に、類船もなく私共の船一艘のみでリゴールを出船しました。後船として今一艘ご当地へ渡海の支度をしておりましたから間もなく来朝するとでしょう。その外にリゴールから来朝する船はございません。本船頭呂宙官、脇船頭陳雄官、ならびに船ともども、去年ご当地へ入津した六十六番の船(注①)と船頭脇船頭でございます。去年はご当地から普陀山へ渡海し、同十二月に普陀山からリゴールへ渡り、今度上述の日限にリゴールを出船し、五月十五日に厦門へ船を寄ぜ、少々端物などを調達、ならびに白黒砂糖を積添えて、同廿三日に厦門を出船して渡海して参りました。厦門よりご当地へ参る船共が外に二三艘あることは聞いておりましたが、私共の船と湊違いであったので、前に出船したのか後に出船したのか定かではありません。厦門を出船してから順風に恵まれ、船足早く乗り渡り、日本の地何国へも船を寄せるこよなく、直に今日入津致しました。

さてリゴールの事ですが、最初に述べましたようにシャム国の内にあり、例年の通りで変わったことはありません。シャム国も静謐でございます。リゴールで聞いたところでは、シャムよりご当地へ来朝の船も、大方五艘程有るとのことでございます。その外にも大清から(リゴールへ)渡ってきた船が数多ありましたが、これ等は皆大清の地へ帰国する筈の船であると聞きました。次に大清諸省の様子ですが、いよいよ太平でございます。しかし西タタールの騒動があった由、この様子は定めて既に入津した船々から委細を申上げているものと思います。私共はリゴールより厦門へ着船し滞留の期間もありませんでしたから、この騒動様子を具には聞いておりません。今度海上では幸い順風に恵まれ、何船も見かけることなく、今日当津之沖にて、私共の船の後ろに唐船一般を見かけただけでございます。これ等のことがらの外に別段申上げるべき風説は少しもございません。

 右の通り唐人共が申すに付き、書付け差上げ申しあげます、以上。
 未五月廿九日 唐通事共

注① ちなみに前年の六十六番船は漳州船である。漳州:福建省南東部。


元禄四年(一六九一) 六十九番カンボジャ船の唐人共の口述(注②)

私共の船は、カンボジャ国で積荷を仕立て、唐入五十二人とカンボジャ人一人、都合五十三人が乗組んで当五月十三日にカンボジャを出船して渡海して参りました。出船の日には、私共の船が早朝に乗り出し、後船一艘が同日の晩に出船した筈でございます。今度カンボジャを出立した船は、その後船と私共の船の二艘のみで外は無ございません。私共の船は、大方カンボジャ国王の荷物を積乗せて渡海して参りました。彼地を出船してから洋中別に変わったことはございませんでしたが、少々風が悪く殊に当月十八日から廿日迄三日間東北の大風に逢ったので少々梶なども損じましたが、危うく難風を凌いで渡海して参りました。異国の海上に於いては上述の類船を一日ほど遠くに見かけましたが、その船ともまもなく乗り別れました、難風には逢いましたが、幸い日本の地何国へも船を寄せることなく直に今日入津致しました。本船頭王徳官、脇船頭陳宅官共に初めての渡海です。また乗り渡ってきた船は、一昨年の六十二番船でございます。

次にカンボジャの件。前々よりご当地へ渡海してきた船は多数ありましが、近年は少なくなっております。その理由はこの数年来の内乱にあります。カンボジャ国王の身内より反乱が起こり、国土は不安定になり毎年のように一族の争いがあり、それ故渡海の船を仕立てることが出来ませんでした。しかしながら当年になって内乱も鎮まり、国土も静謐になりました。一体にカンボジャの国王というのは、大王二王と申して兄弟二人で所領している国でございます。只今の大王と二王はいとこの関係にあり上述のように数年来国権を争い内乱に及んだのでございますが、最早互に和融に成って、何の子細も無く以前の通り大王二王の国権に落ち着き、土地も静謐のことでございます。これまでの数年、諸方から商船の往来も無く、軍勢が激しかったので、国王を初め官民共に殊のほか貧窮の様子でした。たとえ兵乱が無くても元々貧乏の国ですから、国務軍用共にままならない国土でございます。勿論富民というものも無く、産品も無く糸端物類少しもございません。只採取出来るものとしては、鹿皮、下黒砂糖、うるし、ぞうげ、すわう、びんろうじ、其外薬種類、等が少々ある程度で、およそ商売が出来るところではございません。住んでいる唐入は千人余で、役人も大方唐入が勤役しているものが多数おります。米穀などはさすがに安値でございます。このほか変わったことはなく、大清の様子はカンボジャ国外のこととて知る由もありません。この外別に変った風説もございません。

 右の通り唐人共が申すに付き、書付け差上げ申しあげます、以上。
 未六月廿五日 唐通事共

注② これまでカンボジャ船の口述は除外してきた。しかし、タイの属国ではなかったものの近国であったことから、今回の配信から取り上げることにした。


元禄四年(一六九一) 七十四番カンボジャ船の唐人共の口述

私共の船は、カンボジャで積荷を仕立て、唐入三十三人が乗組んで、当五月廿四日に彼地を出船して渡海して参りました。出船の日は類船も無く後続の船もございませんでした。当年カンボジャを出立した船は二艘ほどで、内一艘は私共の船に先立って彼地を出船しました。只今お聞きしたところでは六月廿五日入津した六十九番船とのことでございます。私共が渡船の間、洋中変ったことは無く、何船にも行逢うことはありませんでした。海上段々風並が悪くなり、遅れが生じてきたところに、先月廿七日に、天草の海上で逆風に逢い、船を山近く吹付けられ難儀したため是非無く廿八日に石火矢をうち碇をおろしました。即刻彼地の番船が出て厳重な警固のもとに挽船に引かれ、今日ご当津へ送り届けていただきました。滞船している間、水薪に至る迄何も補給を受けることはありませんでした。天草領へ碇をおろした外、日本の地は何国へも船を寄せることはありませんでした。船頭黄尾官と乗り渡ってきた船共に、初めての渡海でございます。

次にカンボジャのこと。大清の外国ですから大清の今年の様子は存じません。カンボジャは、数年来国王一族の内に内乱があって国土が騒々しい状態でしたが、今年になって内乱も収まったため、国家別條無く、平治の状態なったため、商船の仕立ても安心してできるようになりました。内乱の様子は、以前に入津したカンボジャ船より申上げた筈でございますから(注③)、重ねてご説明するまでも無いと存じます。この外別に変ったこともなく、外に申上げるべき風説はございmせん。

 右の通り唐人共が申すに付き、書付け差上げ申しあげます、以上。
 未七月二日

注③ これまでカンボジャ船以外の口述でも度々触れられている。例えば、第9回配信貞享四年(一六八七)百十五番パッターニー船の唐人共の口述参照、注⑩の前後。


文責 奥村紀夫(JTBF 会員)