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バックナンバー 2018-09

唐船風説書

第18回 2018.9.1 配信
JTBF 広報委員会

タイとの交易は、御朱印船の時代(16世紀末から17世紀始め)、当時の王都であり国際的な港湾都市として繁栄したアユタヤとの間で盛んであった。その後鎖国によって交易は途絶えたと思われがちであるが、実際は唐船を介して継続していた。唐船は中国沿岸はもとより遠く東南アジアと長崎を結び、その船乗りの口述記録は「華夷変態」(1644~1724 林春勝と林信篤の編纂)に納められている。その中から東南アジアを出航地とした記録を拾い上げ英訳したのが「The Junk Trade from Southeast Asia」で石井米雄氏(京大名誉教授、故人)の執筆による。JTBF 広報委員会は、この本に触発され、華夷変態から特にタイを出航地とした記録を抽出して現代文に訳して紹介していきたいと考えている。出航地はシャム(アユタヤ)、リゴール(ナコン・シータマラート)、パッターニー、ソンクラーである。シャムとリゴールは山田長政ゆかりの地でもある。


元禄四年(一六九一) 八十八番シャム船の唐人共の口述

私共の船は、シャム国王の指図に従って商品を仕立てた船でございます。彼地において唐人九十五人とシャム人三人都合九十八人が乗組んで当六月三日に私共の船一艘のみで出帆し渡海して参りました。先行して同湊から三艘出船しております。只今伺ったところ、内二艘はご当へ入津した七十九番、八十二番船とのこと、今一艘五月廿九日に出船した船は未だ入津しておらないとのこと、定めて海上の乗筋が悪く遅れていると思われます。シャム仕立ての船は私共の船を入れて四艘迄でございまして、この後に続く船はございません。今度の渡船の間、洋中に変ったこともなく何処の船にも行逢うことがありませんでした。今月朔日に当湊の沖で殊の外強い逆風に逢ったため直に乗り入れることが出来ず、是非なく深堀領へ碇をおろしました。その節案内を請う石火矢を打ちましたところ、即刻番船を付けて警固していただき、挽船で今日送り届けていただきました。深堀領へ碇を下ろした以外日本の地は何国へも船を寄せたことはありません。船頭の曾明官は一昨年の五十一番船で船頭をつとめ渡ってきた者です。乗渡ってきた船は同年の四十六番船でございます。

次にシャム国のこと、例年の通りいよいよ静謐でございます。しかしながらシャムの属国に大泥(パッターニー)と申す所があって年々シャム国王への貢礼を怠ることが無かったのですが、去年どういうわけか貢礼を怠り、そのためシャム国王が殊の外お憤りになって、大泥へ追討のため当正月に兵船大小百艘程兵卒一万人余りを差向けられました。大泥はシャムから海路八百里程隔たった所ですから、その結末は私共が彼地を出船する迄は知ることは出来ませんでした。大泥は累代女王が統治しており武勇は嘗て無かった所ですから、上述のような軍勢を差向けられては、又々降参するしかないでしょう。前々のごとく貢礼を続けることになるでしょう。詳しくは先に入津した二艘のシャム船より申上げたことと思いますので重ねて申し上げることも無いと思います。

さてまたカンボジアのことですが、大王二王と申して兄弟二人の領地でしたが、数年来内乱があって二王よりシャムに加勢を求められたので、シャムより将卒を加勢に差越されておりました。ところが今年になって大王と二王の間に和談が調って事静まりました。これによりシャム勢も本国へ退軍し平治になったとのことです。以上の箇条の外に申上げるべきことはございません。

 右の通り唐人共が申すに付き、書付け差上げ申しあげます、以上。
 未八月三日 唐通事共


元禄五年(一六九二) 五十五番シャム船の唐人共の口述

私共の船はシャム国で商品を仕立て、唐人五十六人とシャム人一人〆て五十七人が乗組んで、当五月十三日に友船も無く私共の船一艘のみが先行して彼地を出船して渡海して参りました。後から来る船は三艘の大船で、これらの船は私共の船より五六日遅れて彼地を出船する筈でございましたから、追付け順々に来朝することでしょう。今度上述した日に出船して海上も順風でしたが、六月廿六日に台湾の海上で西南の大風に逢い船の艫を大分損じてしまい、大清の地へ乗り寄せたいと思いましたが、風が強く乗り寄せることもかなわず、そのまま運にまかぜ、あやうく渡船して参りました。西南の風は順風でしたが比類ない大風で送り波が強く船の艫が波に打割られ、やむなく大綱で巻いて、あとは順風にまかせて渡船してきました。シャムを出船して以来このような風難に逢った外、海上特に変ったこともなく、海路で何船に逢うこともなく、幸い日本の地何国へ船を寄せることもなく、直に今日入津致しました。船頭の曾安官は去年は五十番の船に乗り組んで渡海して来た者です。脇船頭の林春官と乗り渡ってきた船はいずれも初めての来朝です。

次にシャム国のこと、一昨年代替りになり他姓の者が王位に就きました。そうした折、大泥(パッターニー)と申す国、シャム国から海路七百里の所にあり元はジャワ国の内でしたが久しくシャムの属国になり貢礼を続けていましたが、王位が代った期に帰服を拒み貢礼を怠りました。このためシャムは去年兵船大小百艘余り人数五万程を大泥へ差向けられました。大泥は古来女王の国で一城が有るとはいえ平城で堅固な構えもなく、石垣塗坪のようなものも無くただ大才木で囲んだだけの所でございます。そのためシャムの軍勢が着陣するやいなや、女王とその外の諸臣一同は城を捨て退いて奥山へ引籠り会戦を避けました。シャム軍は城や町屋を焼払い陳取って軍戦を望みましたが、大泥王は全く取合わず去年より今年迄遂に一戦も交えることがありませんでした。シャム勢としては山中へ攻入ることも出来ず、さりとて退軍も甲斐の無いこと、ただ兵糧運送の費えつくし、あぐみはて退軍すべき戦果もなくむなしく歳月を送っていました。私共が出船した折も、大泥から伝送船が度々来ましたが、変ったことは無く軍の手立も無い様子など具に聞きました。シャム本国は別に騒動も無く例年の通りでございます。ただ大泥征伐の結果がどのようになるのかはかり難いことでございます。

又カンボジアのこと、この国もシャムの属国ですが、本国において変乱があったと聞きましたが委細は分かりません。このためかカンボジアからご当地へ渡海の船も無いようです。勿論大泥からご当地へ渡海の船は一艘もないことでしょう。シャムからご当地へ渡って来るオランダ船が二艘、私共が出船の時、渡海の用意をしておりました。既に述べた後船三艘は大方五月十七八日頃彼地を出船したものと思います。これらの船に数日遅れてオランダ船が出帆の筈と聞きました。私共は先行して渡海して参りました。シャム国は以上述べた外に変ったことはありません。大清諸省のことは、シャムの遠海ですから委細はわかりません。定めて大清の地より次々に入津してくる船々から具に申上げることと思います。この外に申上げるべき異説はございません。

 右の通り唐人共が申すに付き、書付け差上げ申しあげます、以上。
 申七月四日 唐通事共


文責 奥村紀夫(JTBF 会員)