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バックナンバー 2018-12

唐船風説書

第21回 2018.12.1 配信
JTBF 広報委員会

タイとの交易は、御朱印船の時代(16世紀末から17世紀始め)、当時の王都であり国際的な港湾都市として繁栄したアユタヤとの間で盛んであった。その後鎖国によって交易は途絶えたと思われがちであるが、実際は唐船を介して継続していた。唐船は中国沿岸はもとより遠く東南アジアと長崎を結び、その船乗りの口述記録は「華夷変態」(1644~1724 林春勝と林信篤の編纂)に納められている。その中から東南アジアを出航地とした記録を拾い上げ英訳したのが「The Junk Trade from Southeast Asia」で石井米雄氏(京大名誉教授、故人)の執筆による。JTBF 広報委員会は、この本に触発され、華夷変態から特にタイを出航地とした記録を抽出して現代文に訳して紹介していきたいと考えている。出航地はシャム(アユタヤ)、リゴール(ナコン・シータマラート)、パッターニー、ソンクラーである。シャムとリゴールは山田長政ゆかりの地でもある。


元禄五年(一六九二) 六十四番シャム船の唐人共の口述

私共の船はシャム国で商品を仕立て、唐人百十人とシャム人二人合わせて百十二人が乗り組んで、当五月十八日にシャムを出船して参りました。その出船の日には友船もなく私共の船一艘のみで乗り出しました。後から来る船は二艘ありまして、私共の船に一両日遅れて彼地を出船した筈でございます。定めて追付け来朝するものと思います。もう一艘私共の船に先達って渡海してきましたが、ただ今伺ったところで、去三日に入津した五十五番船の由(注①)にございます。今年シャム仕立ての船は私共の船を入れて四艘でございます。今度シャムを出船して以来海上で変わったことはございませんでした。また何船にも行逢うことはありませんでした。海上は順風であったので、滞りなく渡海、日本の地は何国へも船を寄せることなく、直に今日入律致しました。本船頭郭合官は、一昨年八十四番船の船頭を勤めた者です。脇船頭周辰官は、初めての渡海でございます。乗り渡ってきた船は、去年の七十九番船でございました。

さてまたシャム国のこと変わったことはなく清寧でございます。パッターニーと申す属地で異心が有ったので、シャムより追討のため去年より数万の軍勢をパッターニーへ差向けられましたが、いまだ軍戦の情報はありません。パッターニーの国王は山籠して取合わないので、シャム勢も手の下し様もなく、殊に水土の悪い所なので、シャムの兵卒は大分水土に負け多数の死損を出しております。それでもシャムより退軍の下知はなく、彼地にとどまったままでした。私共が出船の間際、ようやく早船の便りがあって、パッターニーの国王も山籠がいつまでも続かないと考えたせいか帰服の様子になったとの風聞でした。私共は商人でございますから詳しいことは聞いておりませんが、若し上述の通り帰服すれば、シャムも少しは外聞を保ったことになるでしょう。そうでなければ、遠国への兵糧運迭は永く続かず、一戦にも及ばず、首尾見苦しく帰国するほかないでしょう。この後の事、如何ようの結果になったか思いおよびません。以上のほかに申し上げる異説はございません。

 右の通り唐人共が申すに付き、書付け差上げ申しあげます、以上。
 申七月十二日 唐通事共

注① 第18回配信参照。


元禄五年(一六九二) 七十一番シャム船の唐人共の口述

私共の船はシャムで商品を仕立て、彼地において唐入百十五人とシャム人四人、都合百十九人が乗組んで、当五月十八日に彼地を出帆し渡海してまいりましたが、七月十四日の頃より海上悪風に見舞われ、ご当地へ早々に着くつもりが叶わなくなりました。同月廿二日は東北の風が強く山近くに船を吹よせられましたので、是非なく薩摩の地へ碇をおろしました。その節、前もって石火矢を打って碇を下ろし停船した場所を知らせました。即刻彼地の番船が出て警固にあたり、挽船で湊内に挽入れられました。警固は用心深く、人質として唐人三人が日本船へ移され、私共の船にも日本人が五人乗り込み、それから曳航していただき、今日御当地へ挽き届けていただきました。上述の所へ碇をおろした外、日本の地は別に船を寄せたことはございません。シャムを出船してから渡海の間、海上で変わったことはなく、何船にも行逢うことはありませんでした。シャム出船の日は、友船が三艘、同日の内前後して出船しました。その内一艘郭合官と申す者の船は、只今お伺いしたところでは、七月十二日に先立って入津した六十四番船の由にございます。もう一艘曾明官と申す者の船は、五嶋において舟を乗り据えている由、これもただ今お伺いしました。私共の船は別して大船でしたので、海上での操船に氣遣いしましたが幸い薩摩に漂着いたしました。本船頭の沈妙官は十九年前船頭としてご当地へ渡海しております。脇船頭の陳都官は五年前六十六番船で庶務役をつとめ渡海しております。乗渡ってきた船は、去年の八十八番船でございます。

次にシャム国のことですが、変わったことはなく事静かでございます。しかしながらパッターニーと申す所、以前からシャムの属地で貢礼を欠かしませんでしたが、近年異心を抱くようになり貢礼も途絶えました。このためシャムは追討の覚悟で軍勢五万程を差向けました。これに対しパッターニーの国王は、居城を明け渡し人民共に悉く山中へ引籠ってしまったので、シャム勢は手の下し様もありませんでした。殊に水土の悪い所で、その上山中から毒を流されるなどで、シャム勢の大分は毒死し、終に一戦も交えること無く、引き上げようにも追討の戦果もなく、将卒共に攻めあぐんでいる状況が、早船によって度々シャムに伝えられております。しかしシャム国王より引上げの下知もなく、又々シャムより増勢の人数が差し向けられました。これによって状況に変化があるとは思えませんが、何とかパッターニー勢を山中より引き出し一戦を交えようとの風聞でございました。このままではいつ果てるともなく睨み合いを続けるほかなさそうです。その後どのようになったか、最早来年帰国してみないとわからないことです。以上の様子は、先に入った船からも申し上げたと思いますが、私共も同じことを申し上げる外はございません。この外に変わったこはと少しも無く、申し上げることもございません。

 右の通り唐人共が申すに付き、書付け差上げ申しあげます、以上。
 申八月十日 唐通事共


文責 奥村紀夫(JTBF 会員)